
島根県松江市町揖屋の袖師ヶ浦沖にあるという「一ツ石」を訪ねてきました。

出芽のSUETSUGUさんに教えていただくまで、僕はここの存在を知りませんでした。
全国をざっくり旅しておりますが、意外と見過ごしている場所も多くありまして、

僕も知らないことが多いのです。
「五条さんなら当然知っておられることでしょうが」的なノリで来られると、慌てふためく中年おっさんの姿を見る羽目になりますので、注意が必要です。

なるほど、水に浮かぶ一つの石。
青い空と海と、頬を撫でる風が心地よい場所です。

毎年8月28日「揖夜神社」の『穂掛祭・一ツ石神幸祭』において、神社での祭典の後、神が乗った神輿が近くの弁天灘から御座船に乗せられて一ツ石の前へと向かい、豊漁祈願の神事が斎行されます。
なかなか賑やかな祭なのだそうで、ぜひ僕も、いつか参列してみたいものです。

揖夜神社の祭神は「伊弉冉命」(いざなみのみこと)となっておりますが、これは東出雲王国8代少名彦である八重波津身(事代主)の妃の一人「三島ミゾクイヒメ」であると、僕は確信を持って推察します。
ではこの場所が、八重波津身と三島の美姫が逢瀬した、ロマンティック聖地なのでしょうか。

残念なことに本来の一ツ石は、明治時代に新田が拓かれた際に陸地になってしまったようで、現在のものは位置を海側に遷し、新しく石を置いたのだそうです。
なるほど、う~ん、神趾と呼ぶには……ちょっと…ね。
でもまあ、だいたいこの辺りから、ミゾクイヒメの姿を見つけた八重波津身が、「やっほ~愛しの吾が妻よ~」と小舟から手を振っていたのでしょうから、やっぱり神趾なんですよ、きっと。



さて、せっかくなので揖夜神社まで足を伸ばしてみたのですが、

ミゾクイハウスはリフォーム中でした。

御仮殿、姫神は今、こちらにお住まいです。
ここがあの女のハウスね。

「彼を返して……あとお金貸して!」
と、ヌナカワヒメが押しかけたかどうかは分かりませんが、僕がヌナカワヒメだと断ずる美保神社の祭神「美穂津姫」は本殿の隣に鎮座しておられます。
とても不思議な、この二人の関係性。

美穂津姫=ヌナカワヒメの鎮座する美保神社の飛地境内にして霊地である「沖之御前」(おきのごぜん/実際には地之御前か?)には「活玉依媛」(いくたまよりひめ)が坐していらっしゃいます。

そして美保神社の神迎神事では、この姫神を美保神社の本殿に迎え入れるとのこと。
この活玉依媛こそが「三島ミゾクイヒメ」となります。

つまり、越国出身のヌナカワヒメと摂津三島出身のミゾクイヒメがそれぞれの家に、恋敵の部屋を置いているという構造なのです。
なんだこりゃー。

揖夜神社の祭神イザナミを三島ミゾクイ姫とするわけは、東出雲に伝わる「えびすさんとにわとり」の伝承をみれば、そこですでに語られています。
「えびす神は、中海を渡り美保の対岸にある東出雲町揖屋の「三嶋溝杭姫命」のもとに夜な夜な通われ、明け方になると美保の社にお帰りになっていた。
ところがある夜、一番鶏が時刻を間違えて、まだ夜も明けないうちに刻の声をあげてしまった。
えびす神は急いで帰路についたところ、あわてたせいか途中で船を漕ぐための櫂(かい)を海中に落としてしまった。
仕方なく足で掻いていると、その足をワニ(サメ)に噛まれ不具になってしまった。
やっとの思いで美保に帰り着いたえびす神の耳に、今度は正確な刻の声が聞こえてきた。
怒ったえびす神はそれ以来ニワトリを忌むべきものとしたのだった」

これほど明確に、出雲に輿入れしたミゾクイヒメの屋敷は揖屋にあった、と伝えられているのに、不思議なくらい揖夜神社が彼女の社であると主張する声は聞こえてきません。

それは、境内を見渡しても、彼女の存在を確定させうる血族祭神の社が境内に存在しないから、というのも理由の一つかも知れません。
例えば皇子を祀った若宮などが、境内社で見受けられません。

拝殿の対面には2つの恵比須神社と天満宮が1社がありますが、これらは他地区から遷されてきたものだそうです。
あと、境内奥に稲荷社と火守神社が鎮座していましたが、これもミゾクイヒメに繋がる決定的根拠にはなり得ません。

稲荷神社は前回、すごく恐ろしく感じましたが、今日は大丈夫。

お狐さんを祀った稲荷社もあったのね。

今回は、これまで失念していた「火守神社」(ほもりじんじゃ)にも忘れず参拝。

出雲市宇那手町に鎮座する火守神社では、料理祖神である櫛八玉命を主祭神とするそうです。
この境内社は、そちらからの勧請でしょうか。

確か、黄泉の国に赴いた霊魂は、そこで出された食事を口にすると、現世へは帰れなくなる、といった神話があったように思います。

境内入口の鳥居から東方面、かつて黄泉比良坂に通じていたという夜見路のたもとに、社名・祭神不詳の摂社があります。
この社が、揖夜神社の謎を解く鍵だったりするのでしょうか。

そんなことを考えていたら、ミゾクイヒメの皇子神が、思わぬところで祀られていたりしたのでした。

またまた突飛な発想メーカー出芽の末次です。これでも富士林先生の同じ本を保存用とフィールドワーク用と付箋マーカーつけまくり用と三冊に分けてバイブルにしてるですう(TOT) 点が線にならずに、頭に全部入らないのは記憶力の問題ですね(^_^;)
富家の口伝は、センセーショナルかつスピリチュアルな読み物とは違って、1代1代、真摯に大切に紡いでいった現山陰発の古代史ととらえています。山陰在住としては、初めて地元が誇らしいと思えたキッカケとなりました。
大元シリーズ以外の他の口伝はほぼ知らないです。ホツマツタヱとか東日流外三軍誌とかは一度も触れたことがありません。食指が動かないというよりもそこまで余裕がなくて。書籍だと、越境する出雲本の岡本先生や、縄文とアイヌの澤田先生、岩波新書シリーズ日本古代史とかが多いのですが、この辺りまでは読みながら口伝と矛盾がないか、合ってるとこがあるかの視点で読めて結構冷静です。ただ、寝落ちしそうになり一冊読むのも老眼との戦い(TOT)
。。。白状しますと、うすうす気づかれてるかもしれませんが、クラクラしてしまうくらい読みやすいのが関裕二先生シリーズ。恐らく文章の吸引力が半端ないことと、考古学からの引用、検証とかを上手く織り交ぜておられることが関係してるかもしれません。が、個人的に私にとっては伽耶に関してはグッドチョイス👍️ですが、カヤナルミ、長髄彦路線となると、矛盾というよりこのシリーズはなんでも前者は神功皇后、後者はニギハヤヒになるのかという。読めば何かが壊れそうな気がしてここは避けました。まるでダ・ビンチコード現象と同じで。。イタリアルネッサンスの宗教画の暗喩や秘密の暗号に沼る感覚と同じく、かなり中毒性のある刺激的な読み物。
五条先生の言われるように何が正しいか、何を軸にするか。
読み物として読むものと、咀嚼してベースにすべきものを分けて捉えることが大切ですね。
いいねいいね: 1人
書籍もスピリチュアルも、センセーショナルな方がウケがいいわけで、他人の興味を惹きやすい。
それでエスカレートしやすいのでしょうね。
偲フ花もそんな部分があるかもしれません。
古代史は五里霧中の中を歩むようなものなので、命綱は必要なのです。
いいねいいね
滑りそうになったときの命綱大事ですね。ところで出雲石素敵なオブジェでしたね。
佐太神社のセミグロウミヘビの御神体公開日に、機会があらばぜひぜひです。御札もよいどす。
セミグロウミヘビ。。お見掛けしたら、佐太神社へご一報をとのこと。もう何十年もご無沙汰ですとのことでした。
いいねいいね: 1人
出雲の海も、暑くなってきたのでしょうね🐍
佐太神社の龍蛇神様は、神在祭の時に拝見できるのでしょうか?
いいねいいね
くどくてすみません(^_^;)
五条先生、やっぱり揖夜神社の本殿左右のあの神社の配置は意味を感じちゃいます。
本殿は事代主を祀ってある、主祭神はもちろん八重波津身。だからこその言屋社=イフヤ坂と呼ばれてるという司馬遼太郎先生のあそこの由緒書きは間違いないと思いました
近くの黄泉平坂も八重事代主の悲劇的な事件から、あのようなストーリーが絡まってきた可能性とあるかもかも、そして黄泉の國と呼ばれるキッカケのような気もしてます。同じことが粟嶋神社にも。弓ヶ浜は夜見ケ浜で、黄泉の國と呼ばれてたことは、口伝を知らない地元でも昔から言われていて、高校生のときに祖母から聴きました。黄泉の國なんだよと。それには幽閉された事代主のことがあったからかもしれません。
言屋社は本殿事代主で、左右に渟名河姫と天香語山命こと五十猛がいても。。五十猛いるのおかしいですかね。、高照姫の御子。だからこそあそこに配置されてるとなんとなく思えちゃうのですよね。そして五十猛の対角線上に建御名方。この考えは口伝から離れすぎなのかな。。。うん、まあそうかもしれません(^_^;)
また禁断でした。なんともほんとに。山陰はばけばけよ。
いいねいいね: 1人
僕も色々と突飛な発想をしては、大元出版の先輩方に釘を刺されたことを思い出します。
高照姫=沼川姫を僕なりに考えてみます。
例えば、事代主に嫁いでタケミナカタ、ミホススミを産んだ後、離縁して徐福に嫁いで五十猛を産んだとします。
その後、出雲王殺害事件が起き、徐福一派は出雲族から、相当な非難をうけることになります。
これだけの大事件にもかかわらず、主犯格のホヒ家がゆるされていることから、僕は仲裁者がいたと考えています。
しかし五十猛は成人になる頃には、出雲を出なければならない状況だったのではないでしょうか。
そこで高照姫=沼川姫ですが、彼女はなぜかタケミナカタと共に越国に移住します。
高照姫=沼川姫は五十猛を捨て、タケミナカタを選んだことになります。
そのような状況で、揖夜神社に五十猛を祀るというのは、とても不自然に感じます。
本来の高照姫≠沼川姫説に戻って、高照姫の立ち位置はどうだったでしょうか。
夫・徐福は秦に帰り、出雲では呪われた子のように思える五十猛と二人残された高照姫、彼女への風当たりは強かったことが想像されます。
五十猛は高照姫ではなく、大屋姫に育てられることになります。
木股姫の伝承は、ひょっとすると高照姫と五十猛のことなのかもしれません。
ではその後の高照姫はどうなったのでしょうか。どこへ消えたのか。彼女の痕跡はなかなか見当たりません。
ある人は、高照姫を深掘りして何かに思い当たったようで、以来富家伝承、さらには出雲の歴史からも離れていきました。
ひょっとすると彼女の身の上には、ホヒ家が出雲に残り続けたことに対比して、あまり良くないことがあったのかもしれません。
彼女を擁護する父は失われ、母も逃げるように東へ移住することになりました。
偉大な2王が殺害された忌まわしき事件の責任は、誰がとったのでしょうか。
僕は揖夜神社は、事代主と溝杙姫の宮だと考えています。
故に、美保神社と対極なのです。
伊賦夜坂の伝承は、もちろん事代主の悲劇を示唆するものです。
そこに徐福や五十猛を祀る社があったとは、考えにくい。
僕が三島家の人間であっても、越家の人間であっても、忌まわしき事件の象徴のような五十猛を聖域に祀ることは許さないと思います。
この国は不思議なもので、どのような説・主張にも、それなりに納得できるような遺跡・遺物が用意されています。
ホツマツタエでも、ウエフツミでも、あるいはスピリチュアルなリーティングでもたらされた適当な歴史にも、それなりの物を用意してある。
なので、油断すると見境なく本質を見失って突き進んでしまうことになります。
何を軸にするか、そこを見失わないようにしなければ、記紀や多くの古史古伝のように、誤った歴史に埋もれてしまいかねないのです。
いいねいいね
とてもわかりやすく、口伝のおさらいのように読ませて頂きました。ありがとうございます🙇
ー僕は揖夜神社は、事代主と溝杙姫の宮だと考えています。故に、美保神社と対極なのですー
そですよね。。あそこが溝杭ハウスでないと、そもそも一ツ石神事は何なのかということにもなる、揖夜神社自体に、事代主は玉櫛姫に妻問いのため通ってたという伝承が残っていますもんね。それなのに玉櫛姫の痕跡があまり感じられないところが何だか不思議です。
五十猛を祀るのはあの忌まわしい事件からしてありえない。東出雲王家にとって大切な富神社にも五十猛は祀ってあるけれど、ハイ、ここにそれはさすがにあり得ないということですよね。その理由は阿太加夜神社や揖夜神社には夫や息子を亡くした多岐都比売命や、田心姫命が出雲にいたくなくて事件後に移り住んだ。そこに五十猛は確かに。。。許されないこと、ですよね。。
玉櫛姫は三島へ一旦帰りクシヒカタたちと共に大和へ行ったのですよね。。そして高照姫は大屋姫に五十猛を任せて遠く丹後丹波に行かせて、自身は一旦は実家に戻るのでしたよね。それは恐らく多岐神社。多岐都比売命がお母さんなのでしょうかねやはり。。田心姫命ではなく。
木俣神のストーリーを高照姫と五十猛の暗喩と思われる辺り五条先生さすがです。思いつきもしませんでした。田心姫命が晩年住んだであろうと口伝にある宗形神社のすぐ近くに阿陀萱神社があり、木俣神そっくりさん事件伝承が。アダカヤヌシとは多岐都比売命。その姫がアダカヤヌシタギキヒメ、もしかすると高照姫(もしくは下照姫)。。
高照姫だと例えると、木に指が挟まってしまい身動きがとれず米子市成美地区にある阿陀萱神社から直江や多岐神社のところへ帰れなくなった。と解釈できるかもです。。
木俣神、あの事件のことをひょっとしてしたら暗喩してる可能性アリかもしれませんね。もしくはアダカヤヌシタギキヒメではなく五十猛を置いていった(=木に挟まれて)という風にもとらえることができるかもですね。スゴイ。これは新しい発想!!
これを受けて、私はひょっとすると。。高照姫は伯耆に留まったのでは。。と、またイケない妄想マジックが。これまたそこまで離れていない蚊屋島神社の真のご祭神は鳥鳴海だと口伝にはありますよね。しかも伯耆神社誌には高照姫の影が。天照丹治女神、そしてカヤナルミの文字も。ああデジャヴ(笑)そうでした、そうでした。。ここから鳥鳴海との関係性で一時は悩みました。
高照姫とはどうにも気になる姫君ですが、五条先生、よく考えたら(いや考えなくても)この女神を考えすぎて口伝から大きく離れ、長文コメがヤバみ突飛な私に、結構冷静に釘さして下さってますよね。結果、その都度ハタと連れ戻して下さってますよね笑 なんと言うか。。すみませんとしか言いようがありません。
ループですねこれはもうループ。しかもなぜか定期的にくるんですよねこの病。
2〜3カ月に1回くらいの頻度で(^_^;)五条先生を付き合わせてしまっていますね。。(開き直りみたいでごめんなさい。。)
話は今度は沼河姫に。今日の沼河ブームがまた1つ増えました。島根半島巡りを雨の中致しました。そしたら玉結神社が奴奈弥神社の比較的近くにありました。渟名に玉に。高志の國と島根半島、千酌、野波、小波地区辺りはソリコ舟で行き来があったと、確か出雲を源郷とする人たち、という本にありました。高志から玉造へ勾玉職人が移動し、あるいは逆も。この島根半島野波やら小波辺りにも玉造職人がいてもおかしくないのかな。。沼河姫や御穂須須美命がここら辺りで活躍してたのではないかなと、美保神社からそう遠く離れてない地域の海を見てまた妄想しました。
高志の國の翡翠は伽耶の鉄確保のために、物部系に後に朝鮮半島への交易に使われたんでしょうね。出雲族が祭祀中心としていたものが、農耕の道具と引き換え中心に。丹後丹波もそれに含まれるように思えました。そして天渟名井=天真名井神社→丹後丹波だけでなく高志の國から照らす女神と、勝手に解釈→高照姫が見え隠れして沼河姫と繋がらせようとしてたんですね。繋がらせるというより、似たような感じをどうにも受ける。
哀しくも悲運な運命がこの2女神に纏わりついて私の頭から離れません。哀しいといえば豊姫とかもそうですけど。。高照姫と沼河姫は出雲族として数奇な運命を背負った女神という感じです。そうですね高照姫と沼河姫を深掘りしすぎ笑 解釈は浅いけど。
それは私の旧姓にたまたま、ヌナがつくからかもしれません。島根半島の古地図にある浜の名前です。それはナルミという言い方にもなると、アイヌ系の本で読みました。ただの偶然、たまたまの玉玉ね(笑)
翡翠は高いので香港台湾で買う。翡翠の勾玉に1つ穴を開けることでこの世とあの世を繋ぐという意味があるのですね。翡翠大好きです♥
いいねいいね: 1人
僕は基本的に、あまり人の考察に干渉したくないと思っています。それは個人の自由だと思いますので。
ただ、僕に意見を求められると、ああいった答えになります。
僕はなるだけシンプルに考えたいと思っています。
複雑な考察は苦手です。
なので偲フ花で僕の苦手な部分を他の人が考察しあってくれるのは、とても助かっています。
そのエッセンスを、チョロっと頂ければ、僕は楽できるからです☺️
でも真実、真理というのは、もう少しシンプルで辻褄の合うものではないか、と感じています。
糸魚川翡翠はとても高価ですし、本当に糸魚川産なのかも分かりにくいので、なかなか手が出しづらいですね。
いいねいいね
あ、そもそも論なのですが。
私はまだまだ口伝も読み直しが必要でして。こちらも、見落としてるとこ、かなりあるんですわ(^_^;)
県外の神社を回ることは2〜3ヶ月に一度くらいしかできません。もったいないので、二泊三日にはしてます。西日本中心と北陸くらいしかまだいけてないですね。ちょっとづつです。奈良、滋賀県は随分、五条先生のブログにお世話になりました。行きにくいところは無理ですが、お陰様で、ほぼほぼ興味あるお社は結構行けました。(奈良の行きにくいとこ、ダンダンでした。ほんとありがたやです。)
最近は、古事記と口伝に加えて、「ものづくり」の視点から古代史を捉えてみようかなとも思いました。特にヒスイ。前任の職場に、機械科や建築科の先生方がおり、古地図や古代史に魅せられた方々がとても多いです。やはり、ものづくり、という人間の知恵の史実は、生活(命を紡ぐ)と結びついた祭祀方法と密接なのだなと感じています。いま、ヒスイとモノづくり史、というサイトを見つけました。奴奈川神社でリンクコビー致しました。五条先生やこのブログにコメントされてる方々には、既にご存命かもしれませんが、かなり目からウロコでした。
いいねいいね: 1人
多方面から考察するのは、大事なことですね☺️
いいねいいね
須賀神社が須賀の八耳、スガノヤツミミだったのは、由緒書きのご祭神のとこに御子に八島という2漢字があり、あれを見つけたときは嬉しくて嬉しくて。忘れられません。八重垣さんも元々はスガノヤツミミと奇稲田姫の神社。。
では後世に書き換えられたという存在の素戔嗚なんですが、記紀でいう素戔嗚は、私は複合的キャラだと考えていて、口伝でいう素戔嗚=火明命=饒速日=徐福だけでないような気がしてます。天日矛とかも微妙に絡んできそうですし。架空の人物だとするには出雲ではその存在が大きすぎる。
因みに私の家の隣の神社は、祭神は素戔嗚です、で、敷地内に2体のサイノカミさんがあります。伯耆や淀江にはこのサイノカミさんがどえらく多い。この古代のサイノカミさんこそ、スガノヤツミミの時代なのかなあという気がしてます。サイノカミさんがあるとこに結構な確率で素戔嗚があるということは、スガノヤツミミかま素戔嗚に書き換えられてるとも言えますね!!とくに稲作農耕が盛んな地域にこの傾向ありとみた。
スガノヤツミミは難しいですね。痕跡が全く消されてるし全てを素戔嗚に書き換えられてるというのも違う気がしますし。
ところでスガノヤツミミはやはり山陰圏中心に古代は祀られていたのでしょうか。その子孫はもちろん各地に散らばっていますが、祖神として祀ってる所って山陰以外にありましたっけ。。。
自分自身、研究不足なのか、それとも前は分かってて記憶が抜けてるだけのか認知できませんが(^_^;)
あ、ご返信は気が向いたらで大丈夫です。。が、スガノヤツミミがでてきたので素朴な疑問が湧いてきました。
いいねいいね: 1人
スガノヤツミミが祀られている他県の神社、というのは思いつきませんね。
いいねいいね
私も揖夜神社の主祭神は八重事代主神だと思っています。事代主は本殿に祀られている。その右の三穂津姫命は渟名河姫であり、左になぜ素戔嗚と五十猛の韓國伊太氏神社が。そう、そこなんですよね。。。そういう神社多すぎませんか(TOT) プラフや書き換え、ダミー。
五条先生から頂いたご意見は、これまでの五条先生のブログのベースにもある揺るぎない根幹。(私めが。。簡単に分かったかのように書くしかなく、申し訳ありません、どうにもうまい表現が見つからない)
ですが私は口伝をバイブルのように何度も読み直し、壁や現時点での矛盾にぶつかると、一旦口伝から離れてはまた戻るの繰り返しです。その理由はどうやら、口伝を一番初めに読んでしまったからなのかもしれません。恥ずかしながら、古代史に興味を持ったキッカケが大元シリーズなのです。つまり記紀を飛ばして読んでしまってたんですね。
口伝のベースを外さない、古事記がここがフェイクだよというメッセージ。各神社を巡りながらその視点を確認することにトライしてみるもまだまだ全然な理由とは。なぜなら、ちゃんと柿本人麻呂さまの書かれたことをまず私は覚えていないから(TOT) 覚える以前に、「把握していない」
フェイクだという命がけの渾身のメッセージに気づくためには、記紀の特に古事記をちゃんと見落とさずに、も一度ちゃんと拾おう、これかなり必要ですよね。でも。。読みにくい。。富士林先生や富先生の御本のように、ドンドン惹かれていくというわけにはいきませんよね。。記紀の立ち位置が史実を描くという観点から全く逸れてるし、神話になぞらえてるところからして。。読みにくい。あ、わざと読みにくくしてるのか。。
古事記を読み直して、これはどういう意味なのか、を今また検討しなおしてます。そうするとですね、新たな発見というか見落としていたことがあったのですよ。天真名井が天渟名井だったこととか。見落としていた。火明命=徐福。これはもう少し私の場合、まだ理解するには早いのではないかとおもいだしてまふ。
いいねいいね: 1人
揖夜神社ことイフヤ坂=言屋坂は黄泉平坂もすぐ近く。イザナミイザナギの古事記のストーリーは、どうしても神々のはじまりのストーリーと捉えられがちですが、系図的にはもっと複合的なストーリーの重ねのような気がしています。
千引石は黄泉平坂にもありますが、建御名方と武御雷の稲佐の浜でのシーンにも登場します。武御雷はイザナギが切ったカグヅチの血から生まれ、その後建御名方を諏訪に追いやる。なんか後世に繋がるような気がするですよね。。まるで柿本人麻呂はこのシーンに大事な何かを凝縮し何かを訴えてるような。
この神社の配置も謎多き。随神門から拝殿本殿ともに真正面にない。随神門から進むと左に直角に本殿拝殿がありますよね。参道が直角に折れ曲がっている。この配置は珍しいらしい方で。まあ後世の迷信かもしれませんが、随神門から直角に折れ曲がった参道上の拝殿は、霊力あるご祭神を封印したいときにそうした、という説もありますよね。作家の高田崇氏はこの説を推してますが。これは私的にはよくわかりません。因みに山陰ではアダカヤヌシタギキヒメを祀った木俣神そっくりの由緒をもつ米子市成美地区にある阿陀萱神社も、鳥居や随神門から本殿への参道が直角に折れ曲がっています。
話を揖夜神社に戻します。この他にまだ謎なのは、アヂスキタカヒコが天若日子の母屋を切り飛ばしたのもこの神社が舞台だと言われてたりします。ということは天若日子の葬儀の場所とは?この近くなのかなあ。。
ここで西出雲王家がこの神社に絡んでくるともっと複雑になりそうです。大巳貴命こと八千矛神も祭神ですけど、どちらかというと東出雲王家寄りの神社かなと思ってましたが。。この天若日子とそっくりさん事件でアヂスキタカヒコが怒るシーンまでこの神社にまつわるとなると、
揖夜神社恐るべし。
私には八重波津身が主祭神であるというのは間違いない言屋社ことイフヤ坂だと思ってます。だからこそ、古事記のイザナギイザナギ黄泉平坂シーンには事代主の悲劇も絡んでると踏んでいます。揖夜神社は検証することが多すぎると思いませんか?
いいねいいね: 1人
揖夜神社には重要な何かがあるとは思いますが、口伝を離れすぎてもいけないと思っています。
人麿も重要なメッセージを残しているとは思いますが、記紀に寄りすぎてしまえば、本末転倒かと。
むしろ、古事記の中で矛盾のある箇所は、それはウソだよ、と彼は言っているように思えます。
独自の考察は自由であって良いのですが、僕は一度立ち止まって、口伝と矛盾がないかを確認するようにしています。
いいねいいね
五条先生、この考え方は如何でしょう。なかなか自分ではユニークな考え方かなとは思いますが、五条先生のカンやご意見を伺いたく存じまするm(__)m
美保神社の本殿、左右に夫婦神が祀られてますよね。事代主と三穂津姫命。五条先生の考察に私もしっくりきてます。つまり八重事代主神と沼河姫。
では揖夜神社はというと。本殿拝殿の左右を見ると。。本殿に向かって左側に素戔嗚命、五十猛命を祀る韓国伊太氏神社、右側に三穂津姫命を祀る穂津姫神社が鎮座。これも美保神社と同じく夫婦神を祀ってると考えられませんか。
つまり火明命と沼河姫が祀られてる。この2神はこれまで夫婦神ではないと思ってこの配置はなんだろうなと思ってきましたが。。五十猛を生んだのは高照姫、ならば三穂津姫命=沼河姫=高照姫だとすると、左右は夫婦神で美保神社と揖夜神社はセットになるような気がするのです。
そして、五十猛こと天香語山命が祀られてる韓國伊太テ神社の対角線上、対面くらいに例の建御名方が鎮座しておられます。揖夜神社のホームページはリニューアルされましたが、なんとこの境内社だけは記されていませんでした。
いいねいいね: 1人
僕は韓国伊太氏神社自体がブラフなのではないかと思っています。
伊太氏神は五十猛の事とされますが、からくに韓国(新羅)から渡って来て草木の種を蒔いたという話が社名の由来であろうかと。
この話は日本書紀で記された嘘の話だということは明白で、古来から揖夜神社の境内社が韓国伊太氏神社であったとは考えられないからです。
古来の境内社祭神がスサノオだったとしたら、それは徐福ではなくてスガノヤツミミだったのではないでしょうか。
僕は事代主だったと思いますが。或いは事代主は本殿内に合祀されていたか。
いいねいいね
🐥伊奘冉命…三つの杭で一体何を封印しているのか🐤無論、ミゾクイヒメと三つの杭とは何の関連も無いとも有るとも言えないとは思うのですが…
いいねいいね: 2人
何の関連も無いとも有るとも言えないとも言えるとも言えなくもなくもなくない。
いいねいいね: 2人
🐥ちょっとお聞きしたいのですが、貴殿は宮越虹海は好きですか🐣そそる女はエエな🍋
いいねいいね: 2人
宮越虹海さんは知りませんでしたが、なるほど確かに、そそる女ですな🤔
しかし私めは上級者ゆえ、大胆な女性よりも、ワイシャツの首元からチラ見えする鎖骨に、きらりと光るひと雫の汗に、そこはかとないェロスを感じますな🐰
いいねいいね: 2人
🐥まさに上級者…ワイシャツの上品な襟元から鎖骨、あなたは上流階級っぽい女がお好きなんですな🐣
いいねいいね: 2人
いえ、気だるいTシャツもよろしいかと🐰
要はいかに想像力を駆り立てられるか、ですな🐢
いいねいいね: 2人
🐣潜在的な色気ですな…露出でも無く匂わせでも無い、自然で健康的な色気、その透明感が🐢🐢🐢なのですな…
いいねいいね: 1人
人は見えないものにこそ、探究心を抱くのです🤠
いいねいいね: 2人