越ヶ谷・袋山 久伊豆神社:八雲ニ散ル花 東ノ国篇 19

投稿日:

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埼玉県越谷の総鎮守、越ヶ谷鎮座の「久伊豆神社」(ひさいずじんじゃ)を訪ねてきました。

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住宅街や公園が隣接しており、長い参道は地元の方々の憩いの場となっています。

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今回の関東旅の目的地は神奈川方面でしたが、急遽、埼玉の数社を巡ることを計画に盛り込みました。
それは、川口市を中心として、治安に不安を感じる投稿が、SNSなどで盛んに報じられるようになったからでした。

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とても嫌な話ですが、外国人の流入に伴って国内の治安が乱れる傾向はどうしても避けられません。
ただ、それに対して現在、県や市、国による自治が機能しているとは言い難く、また外国人犯罪者が理由も明かされないままに不起訴になっている事例があまりに多く、司法のあり方にも疑問を抱かざるを得ません。

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ただこうして実際に訪ねてみると、少なくとも川口市の外では、至って平和な光景がありました。
日本が好きだと言って、日本に馴染もうと暮らす外国人の方もたくさんいらっしゃいます。
そうした方々は、日本の風習・慣習を好み、守り、我々と同じくきちんと税金を納めて暮らしてあるものです。

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着きました。

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紅葉の色づきが鮮やかで、沁みます。

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日本の四季は、やがて二季なるだろうなんて囁かれていますが、今はまだこの情緒を楽しむことができます。
ありがたい。

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この紅葉の対面に埼玉稲荷神社があるのですが、

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なんかすごく赤いお稲荷さんでした。
あの人専用イナリかな?

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創建は鎌倉時代とされている越ヶ谷の久伊豆神社。
久伊豆神社は加須市の「玉敷神社」(たましきじんじゃ)を総本社として、埼玉県の元荒川流域を中心に分布し、平安時代末期の武士団である武蔵七党の野与党・私市党の勢力範囲とほぼ一致しているとのこと。
読みが「クイズ」とも呼べることから、クイズ出場者の参拝も多いと言われます。

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以前の鷲宮神社の記事で境内社に久伊豆神社があり、”まゆら”さんのコメントで当社の紹介を受けていたことが、今回の参拝のきっかけでした。
ただあれから、2年以上が過ぎてしまいましたが。

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祭神は「大国主命」(おおくにぬしのみこと)と「言代主命」(ことしろぬしのみこと)、出雲王国8代目の主王と副王です。
配祀は大国主の娘「高照姫命」(たかてるひめのみこと)と、事代主の妃のひとり「溝咋姫命」(みぞくいひめのみこと)、それとなんでか「天穂日命」(あめのほひのみこと)となります。

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まゆらさんによれば、久伊豆神社は昔から「さいじんさん」と呼び親しまれているそうで、神社の近くに鼻田(花田)という地名があることや、越谷の旧家には新潟にルーツを持つ家が多いことなどから、さいじんさんとはサイノカミのことなのかな、と思うようになったとのことでした。
これは興味深い。

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これについて、”OSAMARU”さんがコメントを寄せていてくれていました。

“さいたま市岩槻区宮町にある久伊豆神社の由緒に、
「今から約千五百年前の欽明天皇の御代(539~571)、出雲族の土師氏が東国へ移住するにあたりこの地に出雲族の親神たる大已貴命(大国主命)を勧請したのが始まりとされています。」
と出雲族の移住についてはっきりと書かれていました。”

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鷲宮神社も、元は「土師宮」だったと考えられます。
一時期ではあるかもしれませんが、群馬から埼玉にかけては、土師の国があったのかもしれません。

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越ヶ谷久伊豆神社の本殿裏に行ってみます。
クイズは良いけどゲームはだめよ。

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チラリと見える本殿は、とても豪奢です。

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神紋は「立葵」ですが、これは近くに徳川将軍家が鷹狩などを行う越ヶ谷御殿があったことから、葵紋の使用が特別に許可されたものとされているそうです。

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本殿裏には、ずらりと境内社が鎮座していました。
さすが総鎮守。

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「稲荷神社」「諏訪神社」「五前神社」「天満宮」「三峯社」「御嶽神社」などが並びますが、

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「八坂神社」だけがちょっと立派に祀られます。
祭神はスサノオでしょうが、八坂神の場合は出雲王国初代王の菅之八耳(すがのやつみみ/やいみみ)なのではないかと、最近は考えています。
ひょっとしたら、八坂神とは弥栄神であるのかもしれません。

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こちらの立派な社殿は「旧官幣大社南洋神社鎮座跡地 遥拝殿」とのことです。

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南洋神社は、第二次世界大戦中の昭和15年2月11日、皇紀2600年に際して、南洋群島のパラオ共和国コロール島に、昭和天皇の格別の思し召しにより創立された神社です。
昭和20年8月の終戦によって、社殿は焚き上げとなり、神社の祭祀は終結、社殿跡地が残るのみとなりました。

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久伊豆神社の先代宮司は、サイパン島の八幡神社を彩帆八幡神社として再建した実績もあり、南洋との深い繋がりを感じさせます。

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越ヶ谷の久伊豆神社当は、明らかに出雲系の神社であり、出雲族のヤチマタ信仰を元にする「八方除」の霊験をことさら謳っていました。

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では、「久伊豆」という社名は、大和を出た土師氏が伊豆を経て、当地に定住したことを表しているのでしょうか。

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越谷市袋山に鎮座の「袋山久伊豆神社」にも、参拝してきました。

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長く伸びた参道は、越ヶ谷の久伊豆神社のミニチュア版のような印象を抱かせますが、こちらは住宅街にこじんまりと鎮座しています。

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当社は慶長5年(1600年)に、細沼氏が創建したと伝えられます。
細沼氏は楠木正成を輩出した楠木氏の一族で、元々は甲斐国(山梨)にいたが、戦国時代に当地に土着し、袋山村を開拓したと伝えられます。

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祭神は「大己貴命」で、明治40年(1907年)の神社合祀により、「雷電社」が合祀されました。
一般に大己貴神と大国主は、同一の神であると考えられがちですが、大己貴とは出雲王家での主王を意味する「大名持」のことであり、大国主以外の複数の王を指している可能性があります。
また僕は、四国方面に秘められた母系大国があり、そこにも大名持・少名彦の二王制があったのではないかと考えています。

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祭神を大巳貴とする社は他に、総本社の玉敷神社や岩槻久伊豆神社など、主要な久伊豆神社にみられ、袋山氏子総代による地区年報のエッセイに「袋山久伊豆神社は越ケ谷の久伊豆神社から分家したのではなく伊勢大神宮が大元である」と書いてあったと、まゆらさんはおっしゃいます。

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また、

“越ケ谷久伊豆神社の神主家は、七星氏→松井氏から池田氏(明治以後)→小林氏(戦後)と代わっているのですが、池田氏と小林氏は応仁年間の勧請説には否定的で、小林氏は「三島明神=久伊豆明神」も根拠が見当たらないとおっしゃっているようです…(三島神社勧請説と三島=久伊豆説は、平田篤胤が越谷滞在中に土地の人々から聞き書きしたものの中にあるそうですが現在は閲覧不可とのこと)”

とコメントで教えていただきました。

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久伊豆神社の総本社「玉敷神社」は、元々玉敷だったのがいつの時代かに久伊豆に変わって、明治以後に総本社だけが元の名称に戻したという経緯があるそうです。
これらを考えると、大巳貴系と大国主系、伊勢・伊豆系とそうでない系の複数系統の久伊豆神社があるのかもしれません。

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袋山久伊豆神社の本殿裏にも、境内社群があるのですが、

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そこに「白山社」があったのには、少し胸熱でした。
クスノキと白山、ムフフ。

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17件のコメント 追加

  1. 不明 のアバター 匿名 より:

    OSAMARUです。

    久伊豆神社の記事興味深く読ませていただきました。ありがとうございます。

    久伊豆神社に加えてもう一社、埼玉の神社で出雲族の進出に関係していそうな神社に参拝してきましたのでコメントします。

    ・出雲伊波比神社(埼玉県入間郡毛呂山町) 祭神 大名牟遅神(大国主命)、天穂日命

    ・出雲祝神社(埼玉県入間市宮寺一(宮寺村字寄木森)) 祭神 天穂日命、天夷鳥命

    社伝/社記として”開拓祖神である大名牟遅神を奉斎”とか”毛呂周辺を領有していた出雲臣一族/この辺の氏族は出雲系で”と伝わっていますので、大名牟遅神(大名持)の末裔がこの神社の辺りを開拓していそうです。

    また、出雲伊波比神社の祭主に命じられた”侍臣武日命”(タケヒ命=大伴武日)ですが、武日命の系図を辿っていくと、道臣命と御行が出てきます。伝承の日本史では”イズモ王族の道臣”とか御行の説明として”大伴氏は出雲出身と言われる”と書かれていますので、道臣命の子孫/御行の先祖と言われ、出雲伊波比神社の祭主となった武日命はイズモ王族と関係していそうです。

    以下参照した原文です。

    ■神社由緒

    ◆出雲伊波比神社(埼玉県入間郡毛呂山町)、「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)記載の由緒

     「社伝によれば、当社は、景行天皇の四三年に、日本武尊が東夷征伐からの帰途、この地に立ち寄った際、天皇から賜った比々羅木鉾を神体として、侍臣武日命を祭主に命じ、開拓祖神である大名牟遅神を奉斎したことに始まるとされる。<中略>
    成務天皇の代には、出雲臣武蔵国造兄多毛比命が殊に当社を崇敬し、祖神である天穂日命を合祀した。武蔵国造家は、出雲臣という姓からも察せられるように出雲と関係が深く、また、大名牟遅神は出雲大社に奉祀されている大国主神であることから、ここにおいて「出雲の神を斎う」という意味を持つ「出雲伊波比」の社号がついたものである。」

    ◆出雲伊波比神社(埼玉県入間郡毛呂山町)、境内に掲示

     「古く出雲臣が祭祀する社であった。景行天皇の五三年に日本武尊が<中略>侍臣武日命(大伴武日)に命じて社殿創建・・・」

    ◆御手洗池、俗称:ミタラセ(毛呂山町、JR毛呂駅前)に掲示(出雲伊波比神社が掲示)

     「このミタラセは当神社の由来を記した「臥龍山宮伝記」にも「倭健命が景行天皇五三年ご東征の折、山麓のこのミタラセでみそぎをされてから毛呂周辺を領有していた出雲臣一族の祖神を祀る山上に詣で東征成功を祈られ、やがて龍が戦陣に出現、その力をえて東国を鎮定。その龍がこの山に臥したという伝説があり、臥龍山の名がついたとする。命は凱旋の際もここでみそぎののち山上に社を建てられ大名牟遅神を祀られた。と記されている。」

    ◆出雲祝神社(埼玉県入間市宮寺一(宮寺村字寄木森))、「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)記載の由緒

    「当社創建を語る社伝も古く、景行天皇の代、日本武尊が東夷征伐のとき、当地小手指ヶ原に至り、天穂日命、天夷鳥命を祭祀して出雲伊波比神社としたという。<中略>地名にも残る「寄木」については、社記に「この辺の氏族は出雲系で、出雲の国杵築湾に漂う木を取りあげ造られたのが出雲大社であり、天穂日命が東国に下ったとき杵築湾に漂い寄った樹種を携えてきて播種したのが、当寄木の森」と伝えている。<中略>当社には石棒があり、社記に「当社の神体は(以前)一個の石であった。長さ七寸(二三センチメートル)ほどの石棒の断片で、上半分は出雲大社に、下半分は当社に天穂日命が持参されたもの」とある。」

    ■伝承の日本史

    ◆「出雲と大和のあけぼの丹後風土記の世界」斎木雲州著 第8章

     「古事記<中略>「神武紀元年」に道の臣命が、大クメ部をひきいて・・・大クメを、畝傍の山の西の川辺の地にはべらせた。<中略>」と書かれている。この文には、イズモ王族の道臣の名前が借用されている。」

    ◆「お伽話とモデル-変貌する史話-」斎木雲州著 第十九話 竹取物語

     「大伴家は古くから、武将の伝統を持つ家柄だった。大伴の御行は壬申の乱で戦功があった。<中略> 大伴氏は出雲出身と言われるから」

    ◆「出雲と蘇我王国-伝承の日本史-」斎木雲州著 第3章

     「オオタラシ(大垂)彦大王は、九州と東国への遠征を行った。<中略> 東国遠征を計った大王は、イズモ国に兵力の派遣を求めてきた。<中略> イズモ軍は豊国出身者を攻撃して、東国に追いやりながら進軍した。<中略> 出雲軍は関東南部に落ち着いた。<中略> イズモ軍は農民になり、開拓した。」

    「国造の多くは、旧王家・向家と神門臣家の息子たちであった。しかし物部王朝から暗殺されることを恐れて、ホヒ家の子孫らしい名前に変えたという。<中略> 旧事本記に、安房(阿波)国造家は穂日命の後の大伴直大滝が国造になった、と書かれているが、正確には「神門臣家大伴の後」である。<中略> 初めは大伴臣であったが、子孫は海部氏の血が濃くなったので、「」の姓になった。」

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      完全に出雲系ですね。
      祭神に見えるホヒ系はカモフラージュなのでしょうね🤔

      いいね

  2. 不明 のアバター 匿名 より:

    (まゆら)

    旧暦新年明けましておめでとうございます。

    お礼が遅くなりましたが、越谷にお越しいただきありがとうございました。

    ちょっと「ムムッ」という感じがする最初の神主家の七星氏ですが、このあいだ越谷市の電話帳で調べたところ市内に七星姓はありませんでした。武蔵七党などでよくあることだそうですが、頻繁に姓を変えるので家系の流れが分かりづらい、ということがあってもしかしたら同じような感じかなとも思います。(七星さん全員I P電話という可能性もありますが. . .)

    ちょっとあやしいなぁと思うのは、越谷久伊豆神社の参道脇に「アリタキ植物園」があって、ここは越谷の古くからの大地主である「有瀧氏」が寄贈された所で、高校の教師をしながら在野の植物学者として活躍された方が自分の研究用に植栽された所だそうです。反対側の参道脇にも有瀧姓の家が何軒かあって、もしかしたらこの家系が神社に関係していたのかなぁと想像しています。(郷土史料などにも特に記載はないのですが)

    「有瀧」にはちょっと出雲を感じてしまう私です。

    皆さんが「ホヒ」に関しておっしゃっているように、七星氏にもカムフラージュ的な要素があったのかもしれないです。

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      まゆらさん、こんにちは♪
      あの植物園の存在感は無視できませんね。
      先に神社があったのでしょうから、何か関係があると考えるのが普通かと。
      七星とはいかにも秦氏的ですね。カモフラージュなのかもしれません。

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      1. 不明 のアバター 匿名 より:

        先日、三九郎さんが話題にされていた東京・あきる野市の阿伎留神社の宮司家は「阿留多伎」さんで読みが同じみたいですね。

        こちらも出雲系の神社なので関係があるのかもしれません。

        (まゆら)

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        1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

          コアな情報、ありがとうございます😊

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          1. 不明 のアバター 匿名 より:

            (まゆら)

            アリタキ、アルタキで読み同じじゃないですね。

            失礼しました😅

            いいね: 1人

          2. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

            いやでも、誤差の範囲内では?

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  3. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110

    花田家。うーむ。富神社の宮司さんの系統は神門臣に切り替わってる可能性を考えると、もしかしたらと思います。

    また、萩の宮も土師氏だったりするのかなとも思い始めて居ます。

    土師氏の色彩が強い神社にホヒを祀るケースが散在するのかなと。菅原天満宮の様に。

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      萩=土師、なるほど。
      そう言われれば、確かに天満宮にやたらホヒの姿を見かけますね🤔
      神門・土師氏は、ホヒを隠れ蓑にしたのかもしれません。

      いいね

  4. 私の地元の方にも来られてたんですね!嬉しいな。

    雷電社と聞いて、江戸時代の最強力士を思い浮かべました。信州出身の松江藩お抱え力士です☺️

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      雷電社の元地はわからなくなってしまったようです。
      気になる名前ですよね😊

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  5. Tomi Kaneko のアバター Tomi Kaneko より:

    なんとまたご縁でございます、関東へお越しになられ、まさか久伊豆神社とは驚きです。先月下旬島根に参りました際同行の友人が越谷市出身、久伊豆神社の氏子です。ご指摘の通り出雲国と深い関係があるのも踏まえ、その友人と何度も一緒に久伊豆神社に参っておりました。先代宮司さんが書かれた氏子や近隣の方向けの冊子がなかなか面白く、戴いております。 https://modeldigitalphoto.fc2.net/blog-entry-4.html 
    大己貴命は大国主神の若年期名では無いのではないか?と思うこと各地で感じておりました。

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      今回、越谷と神奈川藤崎方面を巡りましたが、あらためて東国の、出雲深さを実感しました。
      旅は良いですね😊

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  6. Nekonekoneko のアバター Nekonekoneko より:

    🐥シャア専用イナリ(稲荷)

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      「それは私のおいなりさんだ」byシャア・アズナブル🍣

      いいね: 1人

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