調神社:八雲ニ散ル花 東ノ国篇 20

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浦和の入口に月よみの宮あり。いさゝかの森なれど、いとよく茂りぬ。
 ~ わる眠い 気を引立る わか葉哉

- 小林一茶『寛政三年紀行』

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埼玉県さいたま市浦和の「調神社」(つきじんじゃ)を訪ねてきました。
当社には七不思議が伝わっており、その一つが「鳥居が無い」というもので、代わりに境内入口には注連縄が張られています。

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これはヤマト姫の命で、伊勢神宮に武蔵野の穀物を奉納するとき、その運搬の妨げとなるため、神門・鳥居を除いたからだと云われています。

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社名は調神社と書いて「つきじんじゃ」と読むように、地元からは「調宮様」(つきのみやさま)と呼び親しまれてきました。
この「調」(つき)が「月待信仰」と結びつき、神使が「兎」となっています。

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創建は、社記にあたる寛文8年(1668年)の『調宮縁起』によれば、第9代開化大君の乙酉年3月に奉幣の社として創建されたと記されます。
また第10代崇神王の時に伊勢神宮斎主のヤマト姫命が参向し、清らかな岡である当地を選び、伊勢神宮に献上する調物(貢ぎ物・御調物)を納める倉を建て、武総野(武蔵、上総・下総・安房、上野・下野)すなわち関東一円の初穂米・調の集積所と定めたとされています。

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しかし実際には、ヤマト姫は崇神(物部イニエ王)の子・イクメの娘ですので、時系列的に後半の由緒には矛盾があるということになります。崇神王の時代には、当然のことながら、伊勢神宮も存在していません。

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このような違和感のあるところには、裏に人の思惑が隠されているものです。
社記の前半を信じるとして、月神信仰は豊族の専売特許ではありませんから、先住の出雲族あたりが当地で月神を祀っていたのかもしれませんし、大和への調物奉幣の社として創建されたのかもしれません。
そこへ物部イニエに騙されて追い込まれた豊彦(豊来入彦)が東国入りし、彼らの一族が正式に「月宮」として当社を祀ったのではないか、と僕は考えてみます。

この、「兎が神使であること」というのも、調神社の七不思議の一つとされていますが、他には「松が無いこと」「御手洗池(ひょうたん池とも、現在は消滅)の池に魚を放つと、その魚は片目になること」「日蓮聖人駒つなぎのケヤキ」「蝿がいないこと」「蚊がいないこと」があります。

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当社祭神は「天照大御神」(あまてらすおおみかみ)、「豊宇気姫命」(とようけびめのみこと)、「素盞嗚尊」(すさのおのみこと)の三柱となっています。
僕はこの三神は本来、「月読命」「豊来入姫」「豊来入彦」ではなかったか、と思っています。

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まず物部王朝期のヤマト姫の時代、当地は大彦勢の子孫や豊彦勢といった、大和・物部政権と敵対した勢力の本拠地でした。彼らはエミシと蔑まれた名称で呼ばれました。
そこに神宮に納める調物の倉が建てられたとは、およそ考えられません。
故に「調」の名は本来「月」であり、当社が月神を祀っていたことを隠すために、後世にその字を変えたのではないかと推察します。

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また、七不思議のひとつ「松が無い」ということの由来として、次の話があります。

「当地に姉神・弟神がいたが、そのうち弟神は大宮にいってしまい姉神が待っても帰ってこなかったため、姉神がもう待つことは嫌いだと言ったことに由来するという」

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この伝説に見える姉神と弟神は、天照大神と素盞嗚尊(大宮の氷川神社祭神)にあたるといわれていますが、鈴鹿の椿大神社で命を絶たれた豊姫を偲ぶ、豊彦の話が根底にあるのではないかと感じます。

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ともあれ、どれもこれも僕の勝手な想像であり、何の確証もありません。
ただ関東に豊来入彦(豊城入彦)を祀る神社はいくつか残されているのに、月神を祀った痕跡がほとんどないのには疑問が残ります。
豊族の本拠である九州でもそうですが、かなり念入りに消されてきた印象を受けています。

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調神社の境内はさほど広くはないのですが、

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裏手に美しい神池がありました。
池の水鏡が、辺りをよく映しています。

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池の中にもうさぎさん。

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その一角に何とも味わいのある石像がありましたが、このお方はスサノオさんでした。

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鳥居が無いといいつつ、唯一鳥居のある境内社が稲荷社です。

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稲荷社にしては様子が異様です。

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この覆屋に囲われた社は、調神社の旧本殿になるそうです。

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一間社流造で、屋根は柿葺き(こけらぶき)。
棟札によると享保18年(1733年)の造営で、安政年間(1854年-1860年)まで本殿として使用されたとあり、とても荘厳なものでした。

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この旧本殿にも兎の彫刻が施されており、月神との関連性を物語っています。

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江戸時代から昭和初期にかけて日本各地で盛んに行われたという「月待信仰」とは、十七夜、十九夜、二十三夜など、特定の月齢の夜に人々が集まり、月の出を待って拝む民間信仰です。

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月待は身体の潔斎や男女同衾の禁止など、物忌としての性格も強かったそうですが、集まった人たちで飲食をしながら月の出を待つ、何とも日本人らしい情緒ある慣習でした。

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調神社は、延元2年/建武4年(1337年)に足利尊氏の命で社殿の復興がなされましたが、天正18年(1590年)の小田原征伐に伴う兵火で、その多くが焼失してしまいました。

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慶安2年(1649年)には徳川家光から朱印地7石が寄進され、その朱印状には「月読社」と記されていました。
『調宮縁起』ではこの社名は誤りと記されていますが、実際にはその後の朱印状にも月読社の名は継続して使われています。

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別当寺は月山寺であり、二十三夜堂が設けられ、月天子の勢至菩薩が本尊として祀られていたそうです。
俳人の小林一茶は、寛政3年(1791年)4月11日にこの深い森の中に鎮まる「月よみの宮」に訪れ、句を詠んだことが『寛政三年紀行』に書かれています。
また享和2年(1802年)4月6日、
「左に若葉の林しげりあひて、林の陰に茶屋の床几などみゆ。月の宮廿三夜堂なりとぞ」
と、『壬戌紀行』で太田南畝が記しました。
江戸時代には、多くの文人もこの社に祀られるのは「月読の神」であると知っていたのでした。

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2件のコメント 追加

  1. 我が地元へようこそ〜!

    毎年12月12日の12日まちという祭りを楽しみにしてました。神社の中にお化け屋敷とか、見世物小屋とかできて、活気に満ちていたなぁ。いまはどうなんだろう。

    ちなみに、大宮の氷川神社では12月10日に10日まちが行われます。

    改めて、月読みの神社だと実感しました。子供の頃でしたが、当たり前のように通っていると気づかないものですね。

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      訪ねた時は、社務所にスーツ姿の男性の列ができていて、たぶんその12日まちで祭祀を受ける申し込みの列だったんじゃないかと思います。
      あのしっとりとした神社の祭り、見てみたいですね。

      いいね: 1人

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