白旗神社と福岡氏の墓:筑秦ノ饒速日 番外

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江ノ電沿線新聞社」の社長さんに教えていただき、神奈川県藤沢市にある「妙善寺」(みょうぜんじ)を訪ねてみました。

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永正元年(1504年)に日純により創立された日蓮宗の寺院とされまさすが、延暦15年(796年)に密教寺院が建立されており、弘安3年(1280年)に日聞が日蓮宗に改宗したという説もあります。
また、開山は真言宗の寺院としてであったが、文永8年(1271年)に日蓮上人が当寺で休息したのをきっかけに、この時の住職が教えを受けて日蓮宗に改宗したとも云われます。

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いずれにせよ、天明2年の水害で、本堂ならびに書物が流出し、詳しくは分からないようです。

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ちょっと気になったのは、本堂の上に「橘」の紋が掲げられていたこと。

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さて、僕の目的は申し訳なくもこの寺院ではなく、裏のお墓の方でした。

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その一角にある、福岡家の墓。

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やや大きめな石には「天文二十三甲寅歳粛道日正 居士」と刻まれ、裏面には「故人はいみ名を粛政と称し、俗名を正兵衛という。その祖先は秦の徐福から出ている。徐福は始皇帝の戦乱を避けて海を渡航し、我が神州(日本)まで来て、富士山の周麓に場所を選んで下り住む。それ故、子孫は皆、秦を姓とした。福岡を氏と為すものは、また徐福の一字を取ったのである。且つ、近くの地に秦野の名があるのは、粛政の一族の旧蹟に係るものらしい。これは、祖先の地を明らかにするに十分である。我が子孫は、そのことを永く記憶し忘れてはならない。天文二三年甲寅(1554年)一月十一日」とあるのだそうです。

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場所が関東なだけに、富士王朝説を思わせる内容ではありますが、徐福が関東に来たとは考えられませんので、その子孫、もしくは航海途上で別れた秦族が徐福を名乗ったものだと思われます。
が、「福岡」という名称が徐福に由来するものだと改めて思わされ、大元出版の記事の内容を裏付けたのでした。

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妙善寺の近くに「白旗神社」(しらはたじんじゃ)があるというので、てくてく歩いてやってきました。

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紅葉が美しスィーネー♪

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モデル体型の狛犬さんと、

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ウルトラマン。

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創立年代は不詳ですが、荘厳寺を別当とした神社で、「寒川神社」と称していたといいます。

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享保年間(1716年-1735年)に正一位に叙せられ坂戸町の総鎮守となり、宝暦2年(1752年)に社殿が再建され、「白旗神社」と称するようになりました。

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祭神は相模国一宮の寒川神社と同じく「寒川比古命」(さむかわひこのみこと)ですが、もう一柱「源義経」(みなもとのよしつね)を合祀します。

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これは文治5年(1189年)閏4月30日に、奥州平泉の衣川館で自害した義経の首級が鎌倉へ送られ、6月13日腰越で首実検が行われた後、この神社の付近に義経と弁慶の首級が葬られたという伝承によるものだということです。

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江戸時代前期に浅井了意によって著された仮名草子作品『東海道名所記』(とうかいどうめいしょき)には
「よしつね弁慶がくび鎌倉に上せけるに。夜の間にふたつのくび此処に飛び来れり。里人これをミれば大なる亀の背中に乗りてこゑをいだしてわらひければ。かまくらへ此よしを申しつかハし。すなハち神にいはひて白旗明神と申すと。その前に弁慶の塚があり」
と書かれているとのこと。

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当社の相殿には、別に「天照皇大神」(あまてらすおおみかみ)、「大山祇命」(おおやまつみのみこと)、「国狭槌尊」(くにさつちのみこと)が配祀されています。

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白旗神社は、関東地方・東北地方・中部地方を中心に分布し、全国に70社あまりが鎮座しています。
社名は源氏の旗である白旗に因むものであるとされ、その多くは「源頼朝」を主祭神とし、他に源源氏の武将、源氏の氏神である八幡神を主祭神とするものも多く存在します。

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「藤沢の河辺に金色なる亀、泥に染たる首を甲に負ひ出たり、里人驚ろき怪しみけるほどに、側らにありける児童忽ちに狂気のごとく肱を張、我ハ源の義経なり、薄命にして讒者(ざんしゃ)の毒舌にかかり、身ハ奥州高館の露と消るのみならず、首をさへ捨られて、怨魂やるかたなし、汝等よきに弔らひくれよ、といひ終りて倒ぬ、諸人恐れて、これを塚となせり、これより鎌倉御所に於て義経の怨霊さまざまの祟りをなして右大将を悩ます、これに依て、首塚の北山上に社をいとなみ、神として尊とみ御法楽ありける、その時鎌倉の在勤の諸侯もこれを尊信し社の東にハ諸木、西にハ松を植て奉納ありしよし社説に見ゆ」

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江戸後期-明治時代の医師で日蓮研究家の小川泰堂は、白旗神社の社説を引っ張って『我が棲む里』(我棲里)に上記のように書いています。
金の亀が泥にまみれた義経の首を背負ってやってきて、そこにいた子供に義経の霊が乗り、くるったように肱をはって言いました。
「私は源義経なり、若くして命をなくしたのは、(梶原景時の)讒言によるものだ、身は奥州平泉高館で露と消えてしまった。さらに首は捨てられ、怨恨やるかたない、汝らよく弔ってくれたまえ」
と。

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そしてこの白旗神社の鎮座する丘は丸く、とても亀の甲に似ているのでした。

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1件のコメント 追加

  1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

    今や、イワシも高級魚ですからね。

    いいね

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