小茂田浜神社

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一.
頃は文永十一の 浪の花立つ神無月
傲慢無礼の蒙古勢 海をおおうて寄せ来る
助國公を始めとし 一族郎党おしなべて
忠義一途の對馬武士 頼む心の一すじは
霰たばしる真剣ぞ 踏み迷わじ弓張の
月日照りそう神州に 一歩も入れじとたゞ進め
進め勇めの号令に 吶喊一声いかずちの
天地にひゞくばかりなり
二.
智勇仁義の名将の 下弱卆のあるべきぞ
忠臣心をあわせるゝ 國の御陵威を楯となし
きらめく剣に将を斬り とゞろく蹄に旗を抜き
死して忠戦の鬼となるも 生きて異國の奴となるな
寸歩も去らず戦えど 敵は竹葦と攻めかこみ
流石勇武の英将も いとも手痛き戦に
五丈原頭景落ちて 晝なお暗くなりにけり
三.
中にも斎藤資定は 二つの腕はたゝれても
忠義の二字は凛然と 大喝敵をしりぞけて
頭を岩にふれて死す 散りぎわ潔き山桜
大和心にえみしらは 小茂田の浜を落ちて行く
わが日の本の光こそ 実に國民の亀鑑なれ

-「小茂田浜の歌」樋口正毅 作

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長崎県対馬市厳原の、対馬西南に鎮座する「小茂田浜神社」(こもだはまじんじゃ)を参拝しました。

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境内のすぐ横には、小茂田浜という美しい海岸があります。

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この一帯は佐須浦(さすうら)と呼ばれており、文永11年(1274年)10月5日、元寇(文永の役)の際に元・高麗連合軍が上陸した地にあたるとされます。

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国府(厳原)で異国船来襲の知らせを聞いた「宗助国」(そうすけくに)は68歳の老体で馬を駆り、80余騎を従えて佐須浦に急行します。
蒙古軍は2万5千人の軍勢と900隻の大船団を引き連れて対馬にやってきたとされますが、助国らは約1000人の蒙古兵を相手に奮戦。

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翌6日の早朝から戦いは始まりますが、多勢に無勢、助国らは全滅し、午前9時頃には終わったといいます。

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小茂田浜神社の参道には、幾つもの石碑が立ち並んでいました。

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「対馬」という地名が世界史で聞かれるのは、日露戦争の日本海海戦におけるものが多いのですが、日本史においては、やはり「元寇」。

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コミック『アンゴルモア』でも、その凄惨な事実を窺い知ることができます。

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近年では、ゲームソフト『ゴースト・オブ・ツシマ』によって、世界でも「元寇の対馬」というイメージが定着してきているとの話です。
小茂田浜神社も『ゴースト・オブ・ツシマ』の聖地となっています。

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小茂田浜神社は、初めは資国公戦死の地に「軍大明神」と号し、村人が小祀を建てて祀っていたものだったそうです。
後に南北朝の頃、宗経茂が現在地に遷し、神領を寄進して宗家の祭祀としたと伝えられます。

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祭神は「宗右馬允助國」(宗助国)公、及び元寇で戦死した将士の霊。

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「国難事変に際して神威を顕し命を賭して戦い、平時においては国家の平和を護り給う」神、それが宗助国公なのだといいます。

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対馬島民は、小茂田浜神社の管理を進め、元寇の650年後の大正13年(1924年)に鳥居の新設や元寇650周年記念碑を建設。

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昭和49年(1974年)には元寇700年記念碑が、令和2年(2020年)には元寇750年宗助国公騎馬像が建立されました。

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11月第2日曜日 (元は11月12日)には例大祭本祭が行われており、この小さな集落も賑わいを見せます。

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神事の後、「命婦の舞」や、地域の女子小中学生による「浦安の舞」が行われます。そして鎧武者を先頭にした「武者行列」が浜まで歩き、御旅所で神事と弓射りが行われ、海に向かって武士大将が「エイエイ」と采配を振るい、太鼓と武士が「オーオー」と勇ましく呼応するのだそうです。

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元寇は国境の島にとって悲惨な歴史の一つではありますが、果敢に立ち向かったご先祖に、対馬の人々は深い感謝と熱い誇りを抱いているのでした。

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ところで佐須浦は、今のような美しい砂浜ではなく、かつてはもっと内地まで海水が入り込んだ、複雑な入江だったといいます。
つまり、実際の戦地は、もう少し内地に入り込んだ場所だったようです。

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そこには、助国公の「御首塚」がありました。

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謎の神社と、

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ユニークな表情の狛犬。

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ちょっと宇宙犬っぽい?

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そしてその奥に、御首塚があります。
ここが宗助国公の墓だとは思うのですが、実はちょっと不思議なことがあります。

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実は宗助国公の墓は、他に「御胴塚」、そして「手足塚」があるのです。

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なぜ、助国公がハイヌウェレ型神話化しているのか。

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御胴塚は、法清寺というお寺の境内にありました。

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実は、68歳の宗助国が80余騎で1000人の蒙古兵を相手に奮戦したという話ですが、これは石清水八幡宮の神官が異国撃退に果たした神徳を強調し、幕府の恩賞を得る目的で作成した『八幡愚童訓』に書かれたものとされており、さらにその元ネタは、筥崎宮の社官が書いた『八幡蒙古記』であるということです。

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九州北部沿岸も壮絶な蒙古軍の襲来を経験していますが、果たして筥崎宮の社官が対馬の戦の詳細を、どの程度まで把握できていたのか。
実際は戦地を知らぬ者が、想像逞しく書いた話であると言わざるを得ない、といったところのようです。

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唯一、当時の佐須浦での戦いの史料となるものは、久根の斎藤家に伝わる、先祖・斎藤資定と宗資国が佐須浦の戦いで討ち死にしたことを伝える文書だけだとのこと。
壮絶な戦いであったことに間違いはないのでしょうが、元寇の真実は、まだまだ研究が必要だと感じます。

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さて、害獣避けの柵を苦心して乗り越え、やってきたのは「佐須乃若御子神社」というところです。

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ここに手足塚があるというのですが、どこでしょう?

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もっと奥の方か、と思わず足を乗せそうになった、この石がそれのようです。
あぶないあぶない。

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奥には石はあれど、塚という感じのものはありませんしね。

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御胴塚と手足塚の間に、「銀山神社」がありましたので、ついでに参拝しました。

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対馬の銀山に関しては、厳原町久根田舎にも「銀山上神社」が鎮座しています。
当時、対馬の銀山のことは中国でも知られており、寛仁3年(1019年)の「刀伊の入寇」(といのにゅうこう)においても、佐須浦や銀山が襲われていました。
その後、銀山は閉山していますが、元寇において、対馬上陸地が佐須浦に選ばれたのは、彼らが銀を求めたからかもしれません。

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銀山神社には宗助国公の「太刀塚」がありました。
助国公の三つの塚と太刀塚は、彼がバラバラに切り刻まれたことを意味するのではなく、彼と共に戦った対馬の武士たちの討死の様を表しているのではないかと思います。
仲良くするに越したことはないのですが、歴史を見れば、我が物顔でやってくる隣人には毅然とした態度で臨むべきです。
明治以降、とんとダメな外交ですが、近年は特にひどい有様で、安く国を売るような輩は呪われてしまえとさえ思えてきます。
勝ち目の見えない戦であっても国を守るために命を散らせた英霊たちに、心から崇敬と感謝の気持ちを抱かずにはいれないのです。

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元寇で壊滅的被害を受けた対馬ですが、当地では塩竃が作られ、製塩業が営まれてたとあります。
その後、17世紀ごろから佐須浦は干拓が盛んになり、厳原一の米所となります。
ところが今度は昭和48年(1973年)年ごろ、東亜亜鉛対州鉱業所による重金属汚染(カドミウム汚染)が報じられ、米作はおろか、漁業にも深刻な影響を与えました。
現在は絶え間ない住民らの努力の末、農業も漁業も再び盛んになりつつあります。
汚染された水田をもとに戻すためには、壱岐からの客土で土地改良を行い、 現在も汚染が起きないように監視機関が置かれているということです。
たとえ果ての島、果ての地であっても、先人たちが命をかけて守ってきた日本の土地、そこを訪ね、歴史を知り、今の有り様を実際に目にすることは、大切なことだと改めて思わされたのでした。

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2件のコメント 追加

  1. ゴーストオブツシマ、武士ゆえの心の葛藤が描かれた名作だと思います。

    国を安く売ってしまう輩たちはなんなんでしょうかね?

    育ってきた環境で、国を恨んでいるのでしょうか。

    理解しがたい…

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      理解しがたいです。
      ゴーストオブツシマ、やってみたいけど、環境がないんですよね🥹

      いいね: 1人

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