
対馬1番の繁華街、厳原(いずはら)の細い路地にある「池神社」(本主神社)に立ち寄りました。

以前、
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さんのこんな記事を見て、ずっと気になっていた神社です。

祭神の「建彌己己命」(たけみここのみこと)は、『先代旧事本紀』の 「国造本紀」に記載があり、橿原朝の御世(初代天皇期)に高魂尊(たかみむすびのみこと)の5世孫である彼を対馬縣主にしたとあります。
また同書の「天神本紀」によると、天日神命(あまのひのかみのみこと)は対馬県主等の祖とも記されています。

ただ、対馬の縣主(あがたぬし)に関しては書物によって違った内容が記されており、
『古事記』では「天穂日命」(あめのほひのみこと)の子・「建比良鳥命」(たてひらとりのみこと)が、
『新撰姓氏録』では「天児屋根命」(あめのこやねのみこと)の14世孫である「中臣雷大臣」(なかとみのいかつおみ)が、対馬縣主の祖であるとしています。
古事記のヒナドリはあり得ないだろうと思うのですが、対馬縣主らは本来は天日神命の末裔を称していたが、中央への進出を有利とするために、卜部を統轄する中臣氏の一族であると系譜を操作した、という説もあり、そうかもしれないと感じるところはあります。

ただ、最も気になるのは、
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さんが紹介してある、建彌己己の系譜です。
八束水臣津野命
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赤衾伊能意保須美比古佐和気能命
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伊佐我命(櫛八玉=伊勢津彦)
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建弥己己命(対馬県主=漆嶋=漆部)
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伊奈久比命(対馬の伊奈の伊奈久比神社)
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阿比留氏
とのことです。

「天神本紀」にある天日神は、小船越(こふなこし)の「阿麻氐留神社」(あまてるじんじゃ)の祭神で、別名を「天照魂命」(あまてるみたまのみこと)ということから「天照国照彦火明命」と同神であると考えられている神です。
つまり、『先代旧事本紀』に従えば、対馬縣主は徐福の子孫ということになります。

ところが、
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さんの示される系図が正しいなら、対馬縣主は、徐福よりもさらに古い、出雲王家「郷戸家」の子孫ということになります。
これは個人的にはすごい朗報です。
ただ、どう探しても、僕には建彌己己と八束水臣津野命、もしくは佐和気へとつながる系譜を見つけることができませんでした。
出典もしくは根拠が知りたいところです。

この池神社は、室町時代に築かれた対馬島主である宗氏の幻の城跡「池の館跡」とのこと。
池神社にはかって女池と男池があり、そこに祀られる池の神は、「対馬開闢よりの神」であったと云われていました。

narisawa110
ふふ、これですね
関東の国造(伊勢津彦裔)の系図抜粋
ttps://古代出雲への道.jp/category2/entry10.html
サワケ氏をホヒと入れ替えた系図という事でしょうかね?
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そう、それです。
ただ、僕が見せていただいた系図には、彦健忍雄心命と美志卯命の間に、建彌己己命とその下に伊奈久比命の名前がありました。
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narisawa110
おおー、先生もホヒに辿り着きましたか。このホヒが何気に面白いですよね。
どうにも気になりすぎてしまい、調べて居たら面白いものを見つけました。
まず、伊佐我命ですが、ホヒでありますよね。そして、イセツヒコは実際には兄弟の出雲タケコ。このホヒの使われ方が、関東国造に関しては、磯城登美家のサマナ姫を利用してタケヒナドリやホヒの子孫を名乗り、誤魔化して居ます。つまり、出雲や海部はホヒを利用して迫害を逃れようとしてるわけです。
果たして、それは他の豪族も使っては居ないか、と言う事です。奈良の石上神宮は実は、神武に圧迫されて居たと伝承があります。つまり、第一次物部東征は、磯城王朝側の物部氏に取り込まれたわけですから、王朝側の物部氏は第二次東征のウマシマジ(佐野命)側に圧迫されているわけです。トオチネは第一次物部東征から九州に帰った組でしたっけ?
あの系図に物部氏が居ないことがおかしく、鉄の権益から神功皇后期の成務の出兵から言ったら、出てこないことがおかしいわけです。
こちらの系図をご覧ください
ttps://jp248.exblog.jp/28848226/
なんと、亀岡のヒコイマスの系譜に、伊佐姫。その次の代に、物部タケコが出てきますwwほんでもってタケコの系譜がトオチネと再合流w
イセツヒコは物部氏だとしたら、親戚の八坂神社と一緒に来たのは女系物部イセツヒコかもしれないと言う不思議な系図になって居ます。
興味深いのは開化の後の磯城王朝の子孫は物部氏を名乗り、諏訪の神長官の分家と同じ事をやってるんです。
いやー、今回もとても興味深いブログでございました。いつも有難うございます。
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なるほど、迫害を逃れるためのホヒ化であり、物部化だと。やっぱあったんですかねぇ、迫害は。
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タケミカヅチは古事記では建御雷神、書紀では武甕槌や武甕雷男神、建雷命と書かれており、どれも同じ。古事記では別名を建布都神、豊布都神としています(物部=中臣家)ので、これら阿波的な盛り方は、後付けしても記紀のルールに反して居ないことになります。
イソラ伝承はこのことから同一神化された存在と思われます。
中世に書かれた八幡宮御縁起も、この影響を受け後付けで「志賀島の明神(イソラ?もくは尾張家)、鹿島大明神(ミカヅチ)、春日明神(雷大臣)、すべて一躰分身、同躰異名」と記されています。(イソラ=雷大臣)
『八幡愚童訓』では、磯良は春日大社に祀られる天の児屋根と同神であるとしています。
八幡愚童訓や太平記では磯良は常陸の鹿島にいたとしています。まるで宮下文書の様な徐福中臣家の同一論ですね。(物部=中臣家=イソラ)
神功皇后期の主要な部下は中臣家の雷大臣と、イソラですが、同格に書かれ、共に人の姿では無かったとあります。
イソラ(対馬の霹靂神社)と雷大臣は対馬の主要な神様です。
つまり、阿比留氏は常陸の竹内宿禰の子孫であり、紀伊家でもある事から、記紀服属で九州に五十猛を持って来れます。また、竹内宿禰は崇神が大王家になったことにより、物部の血が入った後の大王家と書いても記紀のルールに抵触しません。
つまり、今回の系図は出雲口伝的に考えた場合、血縁の系図を表すのではなく、もしかしたら主要な支配者の順番を示すものかのかもしれません。
どのみちイソラは4世紀頃の人なので、遠くの竹内宿禰の子孫の事を指しているのではと考えます。イソラは出雲の五十猛とは無関係と考えます。
イソラ伝承は、阿比留氏が入った後になって作られた可能性があります
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“主要な支配者の順番”、確かに、そう考えると多くの矛盾が解決しますね。
根拠となった系図を見せていだたきましたが、建彌己己命の祖となっているサワケは、ホヒの別名になっていました。つまり古事記の系図を踏襲しつつ実はこうなのだ、というような系図になっています。
その点でも、narisawaさんの説は説明がつきそうですね。
イソラは僕も、架空の神で、阿曇族や時の勢力が都合よく使ったのではないかと思うようになりました。伝承地を回ってみても、彼の実在感が湧いてこないのです。神功皇后を導いた阿曇人はいたのでしょうが、イソラは彼に被せられただけかと。
なんでも神功皇后でんしょうにすれば箔がついたように、イソラも利用されたのでしょう。
イソラ伝承は、阿比留氏が入った後になって作られた可能性、なるほど確かにそうかもしれません。
この辺りのことは、(他もそうですが)広く俯瞰しないと、ミスリードしてしまいそうです。
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narisawa110
姫様のブログを最初から頭に叩き込んでみました。カムロギ=イサナギ。どうも経緯を咀嚼しますと土着の氏族を抜いて考えると、安曇の色彩なのか?という事。そして、九州と千葉の両端の鹿島で、中央構造線を押さえた中臣に対し、日本海側に九州からグンマーまでのもう一つの勢力が見えるかのようです。それが高橋。
安曇と大彦は九州から陸奥までの日本海側を押さえたかのようです。実は、宍道湖湖畔には前方後方墳が存在します。相島や宮地嶽に阿部の色彩がある事がようやく理解できるような気がしてきました。
そしてイザナミの一族は・・w
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narisawa110
うおおw是非ともこうあって欲しいと願望がダダ漏れのお話ですが、存在が確実で、考証可能な阿比留氏を見ると、何と中臣家かと思ったらまさかの蘇我系になって居ますね。上総国から9世紀に移転とあります。
竹内宿禰系とすれば基本的には女系が富家になろうかと思われますので、ここで神戸家は違和感があります。
ではと言うことですが、出雲口伝的には、半島の鉄の利権を持って居たのは物部氏。その後大伴氏。この大伴氏は四国でもある様に、神戸家か、阿部家のどちらかの解釈になります。そして大伴氏が失脚してからは、半島の利権を握ったのが武内宿禰の子孫系。
対馬は色々な士族が関係しており、解釈が難しい土地です。私的にはもはや架空の神である阿曇イソラですが、鎌倉時代でしたっけ、八幡愚鈍訓では、住吉などと同体。つまり、コヤネなどと同じとされ、元祖阿波の様な事がなされて居ます。
後年の伝承としては出雲族も入って居た様で、イソタケルと事代主が一緒になって半島とを行き来したと伝承があります。
つづく
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