
千葉県館山市布良鎮座の「布良崎神社」(めらさきじんじゃ)を訪ねました。

ノスタルジックな漁村にあり、ここは天富命と由布津主命が阿波忌部を率いて上陸した地とされます。

「ああーん、テメェ、いつもうなぎばっかり食いやがって💢」

へえへえ、すんませんね。
狛犬さんに、程よくガンつけされたところで、石段を登っていきます。

境内に一際高く積み上げられた玉石垣は、伊豆稲取の石だそうです。
三州瓦の職人が石瓦を積み上げる工法で積み上げたもので、丸型の不安定な石を風雨の浸食を利用して泥岩を削り凹ませ、安定させています。
地震でも逆に揺れて山の泥岩が浸食され、雨水が回ってより安定して反りを出すのだそうです。
伊豆諸島・伊豆半島でもよく見られるこの玉石垣は、関東大震災でも一個の石も落下しなかった、といいます。

布良﨑神社の伝えるところでは、初代天皇の勅命で四国から天富命が、天日鷲命の孫である由布津主命を率いて、肥沃な土地を求め、房総の地に来られた時に上陸した場所が布良の一角の駒ケ崎であったとされています。

この駒ケ崎に聳える男神山、女神山に、祖神・天太玉命と御后・天比理乃咩命を祀り、天富命はさらに肥沃な土地を求め、布良本郷に転居し、「上の谷」(かみのやつ)に太玉命、「下の谷」(しものやつ)に、天忍日命の仮宮を建て、それぞれを上の宮、下の宮と称したとされます。

天富命は、ここを出発点として房総開拓を進めましたが、 命が安房を去ったのち、里人が命の徳を忍んで社殿を造営したものが布良崎神社といわれているそうです。

主祭神に「天富命」(あめのとみのみこと)を祀り、後に「素戔嗚尊」(すさのおのみこと)・「金山彦命」(かなやまひこのみこと)を合祀し、安房神社の前殿(下社)となりました。

境内には大山津見神社がありました。

富士山を遥拝しているのかと思いましたが、社殿の向きが全く違っています。
当地では明治9年に大火があり、社殿が燃えてしまったそうです。
その後、建て替えにあたり、裏山を削り取ったそうですが、この時に大山津見神を祀ったようです。

あと境内には磐座があったようですが、全く気がつきませんでした。
一の鳥居と二の鳥居の先には富士山も見れるらしく、特に5月下旬と8月上旬には富士山の頂上に夕日が沈み、布良崎神社のダイヤモンド富士として絶景スポットになっているそうです。



南房総市白浜町滝口に鎮座の「下立松原神社」(しもたてまつばらじんじゃ)も合わせて参拝しました。

境内周辺は横穴だらけ。

参道入口に「滝口の井戸」と呼ばれるものがあります。

井戸とはありますが、上からも清水が流れ落ちています。
正月15日に行う筒粥神事の際、白米を清めた神水であるといいます。

当社は天富命とともに安房に渡り開拓した天日鷲命の孫「由布津主命」(ゆふつぬしのみこと)が、初代天皇元年に天日鷲命を祀ったのに始まると伝えています。
実は同名社が他に旧千倉町にあり、同じ伝承を伝え、式内社「安房国朝夷郡 下立松原神社」の論社として長らく争われていましたが、結局どちらにも決め手がなく、そのままとなっているそうです。

当地には源頼朝の伝承もあり、『義経記』には、石橋山の合戦に敗れた頼朝は安房に逃げのびたが、まず洲崎神社に参拝した後、瀧口大明神(当社)で一夜を明かしたと記されます。

階段を登り終えると、后神社(きさきじんじゃ)がありました。
由布津主命の后で、天富命の娘「飯長姫命」(いいながひめのみこと)を祀った社殿となっています。
祖父神を祀った神社に、妻も祀ったというのは、少々変な感じです。本当は祭神が違うのでは。

ここで、安房忌部族の系図を見てみます。

忌部氏の系図とされるものは、安房神社に伝わったとされる「安房国忌部家系」、下立松原神社に伝わったとされる「忌部岡島家系」、「斎部宿禰本系帳」の3種があるそうですが、どれも正確性に難があるようです。
いくつか僕も見てみましたが、矛盾もあり、半ば強引に作られている印象でした。
それを踏まえて、家紋の情報を提供される『播磨屋.com』さんの紹介する『阿波忌部氏参考系図』を見ると、天背男の子「天日鷲」(あめのひわし)系と、「天太玉」系の2系統の忌部氏があることになります。

天太玉はクシヒカタと共に大和に移住してきた、いわゆる出雲系忌部族の祖神であるといえます。
それに対し、四国に伝承が多い天日鷲を祖神とする、阿波系忌部族が別系統で存在していたということが読み解けてきます。
つまり阿波忌部は、天太玉が四国に渡ったとされるよりも前から、存在していたということです。

天比理乃咩(あまのひりのめ)は天日鷲の娘とされていますので、阿波系忌部族となりますが、先の「洲崎神社」での考察から、太玉の后となったと考えるよりも、南房総の戸畔巫女であったと考える方が自然な気がします。

イメージする支配域は、ピンクの部分が天比理乃咩系で、緑の部分が天太玉系です。

四国の阿波族は、黒曜石の時代にすでに伊豆諸島の神津島まで来ていた可能性が濃厚でした。
そこからそのまま、南房総まで勢力を拡大していたとしても不思議ではありません。

天富命は娘の飯長姫を、由布津主に嫁がせることで、安房国での地位を得たのではないかと思うのです。

思いのほか広い境内をグイグイ歩いてきましたが、平たい顔の狛犬がいらっしゃいました。

愛嬌溢れる彼らは、寛政6年(1794年)に、滝口村の若者たちが奉納したものだそうです。

下立松原神社の祭神は「天日鷲命」のほか、「天太玉命」「天富命」「伊弉諾命」「伊弉册命」を主祭神とし、「阿八別彦命」「須佐之男命」を配祀するほか、近隣の神社の合祀により他18柱の神をあわせ祀るとされますが、

元々は天日鷲のみを祀っていたのではないかと思われます。

本殿の前には、白い狛犬。
頭の角と宝珠がでかい。

拝殿の隣の建物は、「天神社」(あまつかみのやしろ)といい、延喜式の式内社小四座のひとつとされています。
祭神は「高皇産霊命」(たかみむすびのみこと)と「神皇産霊命」(かみむすびのみこと)で、紆余曲折の末、昭和12年(1937年)に現在地に遷宮されました。

下立松原神社では、天富命らが安房に上陸したとき、当地には鹿が多く住民が困っていたので鹿狩りをしたという伝承があり、それに因んで旧暦11月26日から10日間「ミカリ神事」(御狩神事)が行われます。
これは収穫期の農作物を荒らす害獣を狩り、神前に供えて五穀豊穣を祈願する神事となります。

ミカリ神事の初日は「イチノビ」と呼ばれ、注連縄を綯います。
12月1日には、この注連縄を本殿奥から鳥居まで、参道に沿って千鳥掛けに張ります。

最終日は「夜明かし祭」と呼ばれ、参道に篝火として大火を焚き、輿に遷された御霊が猿田彦の先導で鳥居まで渡御します。

祭りに参加した人々は、この時の大火にあたると、一年風邪をひかないということです。


千葉県に越してきてから、「忌部だろう」で安易に片付けてしまっていて、実は謎だらけにうーん…😅 と思っておったところです。 勢力マップは目からウロコ、面白いです。実際県民とは言え、高速道路の存在しない外房民は100キロ以上離れていると東京より遠いゆえに滅多に館山市や南房総市はハードルの高いところ、地道に考察は時間がかかりそうです。郷土史を置いている図書館でも頼朝関係は随分出てきます。木更津の八剱八幡神社などはそれを売りに観光振興してますし; narisawa110様が仰るように女系も物部の裏も潜んでいそうで、 このあとの記事に書かれるであろう物部由来の神社もあの方は物部本家筋とは思えず、祭祀関連でうち同様他家から??ではとずっと感じていました。
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勢力図は僕のふんわりとした印象なので、あまり参考にはならないかもしれません😅
母系、気になりますね。
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narisawa110
家紋のところで飛んでびっくりなのが、何故か忌部氏の家紋が立ち梶で諏訪のそれになってる点です。それも分社の一本梶。これは本当のことなのでしょうか?三柏との関係が気になるところではありますね。
四国祭祀の諏方化以降にこうなったのでしょうか?やっぱり地元情報の補完が重要かもしれませんね。
高皇産霊命と神皇産霊命が2系等ある忌部氏の系図になってるので、右側本殿は元々本殿の真ん中であった可能性を私は感じます。
橋本姓や、金子様のように、忌部氏母系は不明なままですね。母系を遡ってあのふたつの系図になったとも推測できますが、そのメリットや目的は今のところ編集長のおっしゃる物部偽装以外にも何か事情がある気もしてきます
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四国では梶紋をよく見かけますね。
忌部社と諏訪社の紋は似ています。
母系は敢えて、隠されているような気がしますね。
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🐥筒粥神事…粥の中に竹筒をぶち込んで中に入った粥の量で占うやつですかな…粥の中に竹筒以外のものを投げ込んだりしてなかったかどうか疑問ですなぁ。鹿とか奴隷とか竹筒の代わりに投げ込んでたらどうなっとるのか🐤
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鹿奴隷粥鍋ができあがりますな🍲
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🐥神事で鹿奴隷粥鍋…どんな祀りですかな🐤
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酒池肉林と言わざるを得ないでしょうな🍲
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