
嗚呼、神よ。青い天と地の狭間に僕はいる。

左手には、いにしえに「玉の浦」とたたえられた九十九里浜が見え、

右手には日在(ひあり)、和泉浦(いずみうら)の海岸がありました。なんと美しい。

KANEKOさんが「ぜひお連れしたい」といって案内してくれたのが「太東岬」(たいとうみさき)、または太東埼(たいとうざき)と呼ばれるこの岬。
愛称は恋のヴィーナス岬。

この沖では、黒潮と親潮がぶつかり、良い漁場となるとともに、エネルギーもすごいのだとか。
素晴らしい!



太東岬から車で10分、5kmの道を走ったところにある「神洗神社」(かみあらいじんじゃ)を訪ねました。
神社は辺鄙な場所にあり、最後の数百メートルは地獄の細道でした。
でも、KANEKOさんが運転してくれたから、楽ちん楽ちん。

神洗神社は上総国一之宮である「玉前神社」(たまさきじんじゃ)の元宮だと云うことです。

「神代の昔、ご祭神が海から上陸された時その身体を洗われたと伝えられる池が参道左に見え神洗池と称されている」
と案内にありましたが、

これが神洗池かー。。。

曇りなきまなこで見ようとすれば、清らかな神池に、見えなくもなくもなくない。

明治初頭頃迄の神洗神社の例祭では、芝居小屋が建つほどの賑わいであったとか。

今は寂しそうに、小さなお社が建っているだけです。

祭神は「玉依姫命」と「鵜茅葺不合命」、それに「豊玉姫命」と「日子火々出見命」となっています。
新天地を求め女系集団を率いて釣ヶ崎に上陸した玉依媛は、陸に上がって、山中のこの池で身体を清めました。
そして媛は当社を元宮として新たに玉前神社を創建、一帯を開拓したと伝えられているそうです。

この社地は地元在住の鵜澤平氏より平成6年に奉納を受け、さらに小さいながらも屋根付きで立派な社殿は、平成17年に玉前神社氏子有志により奉納されたものだそうで、隣の地べたに置かれた石の祠は、それ以前の社だったものだそうです。
それで、こちらにも、たくさんの榊が添えられていたのね。
社地を奉納された鵜澤さんって、ウガヤフキアエズみたいな名前ですね。

さて、実は一之宮・玉前神社には、元宮(本宮)と云われている神社がもうひとつあります。「玉﨑神社」です。
そもそも、玉前神社は、玉依姫の時代から、あったのだろうか。
それをおっしゃるのが、KANEKOさんです。

往古の千葉の海面水位は、今より15m高かったといわれています。
その状況を確認できる、面白いサイトがあります。JAXAが提供する「海面上昇シュミレーター」です。

ちなみにこのシュミレーターで、「かつて博多湾と有明海が繋がっていた!」という話を検証すると、

海面が今より、40mも上昇していなければならないことが分かりました。
これはかなりなものです。日本の平地が、ほぼ失われる海面の高さ、そんなことがありうるのでしょうか?

さて、話を千葉に戻しますと、海面が15m高かった場合、

確かに玉前神社鎮座地は海であったということになり、神洗神社、玉﨑神社は大東岬の根本の高台に鎮座していたことになります。
玉﨑神社の祭神は豊玉媛ですので、神洗神社の玉依媛と、親潮と黒潮がぶつかる大東岬に並び祀られていたというのは、興味深いものがあります。

ただ、「東京江戸博物館」が展示したというこの資料を見ると、海面水位が15mほど上昇したシュミレーターの結果とほぼ同じなのですが、これは約6000年前の図だとされています。
和国大乱が紀元168年~189年あたり、第二次物部東征が250年くらいだと考えると、海面水位はもっと低かったと思われ、玉依媛の時代には、玉前神社鎮座地はすでに陸地化していた可能性が高いと思われます。

しかしながら、陸地化したとはいっても、地盤は安定していなかったことでしょう。
房総半島も今ほど隆起していなかったことを考えると、海面水位はやはりそこそこ高かった可能性があります。
こと古代において、大切な聖地を定めるにあたって、そうした人々が建物がすぐ被災するような不安定な場所を選ぶでしょうか。
特に海側では、地盤のしっかりとした高台に、神社を建てたはずだと思われます。

神洗神社は確かに、上総国一ノ宮玉前神社の元宮というべき社で、かつてここには、広大な境内と立派な社殿があったのではないかと、想像してみたのでした。

あらためまして先日はありがとうございました🙇♂️ この太東岬だけが標高50m越え、刑部岬から御宿までの合わせて70キロほどの砂地平地に唯一出っ張っている場所で潮目になり、近年も伊勢海老漁獲量日本一が21・23年等断続しています。お伊勢様に配慮(😅)ではなく外房エビじゃ~売れないので”外房イセエビ”と勝手ブランド付けています。神洗池の水は昔はきっと澄んでいたことと思います。夷隅川の流れも今とは違い、引き込んで堰となっている椎木堰、中原堰、海側に和泉沼、灯台すぐ下が大正堰など支流から海への流れに現存するものも多数で、椎木中原両堰の高台は土岐氏の鶴亀城という時代も経験し後年の農業用灌漑用とも言えない歴史がありました。神洗神社脇から国道までの削られた丘ともども神社の敷地、それもかなり遠くまで丘陵が繋がっていたのだったとしたら納得できます。
https://photos.app.goo.gl/Rd2jWdfuyayq4UZH8
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標高について郷土史資料をもう少し精査してみたら、元禄地震の隆起以前1000年-1500年前とすると玉前神社付近は6-7mの水位差のようでした。今の駅や商店街辺りが浜辺だったようです。
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それでも6〜7mの水位差はあったのですね。参考になります🤔
Xで知り合ったアシュラさんによれば、地震で倒壊した阿蘇神社は、そもそもあんな場所に重要な神社を建てるはずがない、とのことでした。阿蘇神社周辺は湧水地で地盤が弱く、低地に盛り土をして社殿が建っていると。
本来重要な古社は国造神社で、地震でもびくともしなかったようです。
それでいくと、やはり一之宮の現鎮座地は、古代人が社を築く聖地と定めるには弱いと思われます。
元禄地震でそうだったように、度々津波の被害もあったのでしょうし。
そういえば、宮崎も伊勢エビの産地でしたね。もはや伊勢エビは固有名詞なのでしょう。
美味しくいただけるなら、外房エビでも日向エビでも、僕は構いませんけどね😋
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