
車道の隣にちらりと鳥居らしきものを見つけ、立ち寄ってみました。

「八坂神社」でした。

位置的には奈良県桜井市の浅古になるようです。

鳥居から真っ直ぐ上った突き当たりに祓戸があり、

右に折れて上ると社殿があります。

祭神は、社名から「素戔嗚命」のようですが、詳細は不明。

なかなか心地よい場所。

境内の奥の、盛り上がった場所は古墳だとのことでした。



さて、桜井市山田にあるという「東大谷日女命神社」(やまとおおたにひめのみことじんじゃ)を訪ねてきました。
この東を、ヤマトと呼ぶか、ヒガシと呼ぶかは、論争があります。

山田の東大谷日女命神社に行くには、まず「山田寺跡」と呼ばれる場所を目指す必要があります。

この山田寺を開基したのは、蘇我倉山田石川麻呂という人物であると伝えられます。
石川麻呂は蘇我氏の一族でありながら、蘇我氏本家と対立し、乙巳の変で中大兄皇子らに加担したと伝えられますが、定かではありません。

641年の3月15日、大和の大豪族「石川臣家」の雄正が、葛城皇子と中臣鎌子ひきいる軍勢により殺されました。
石川臣家とは、日本の教育で教えられる蘇我氏の本当の名称で、石川臣雄正とは、蘇我蝦夷(そがのえみし)と呼ばれている人物のことです。

石川雄正の弟・武蔵(倉麿?)は、雄正を祀るために、明日香の山田道に浄土寺を造り始め、 2年後に金堂が建ちました。
それが後に、山田寺と呼ばれるようになりました。
浄土寺は、四天王寺に似た伽藍配置でしたが、講堂は、回廊の後ろに造られていました。

649年3月、石川臣山田麿(蘇我倉山田石川麻呂)が大君に対し謀反を計画している、と弟の武蔵が訴えたという噂が流され、中臣鎌子ひきいる軍勢が山田麿を追い詰めるという事件が起きました。
山田麿ははめられたと観念し、一家は25日に浄土寺にこもり自殺します。
石川臣山田麿は、石川雄正に代って実力者となっていたということです。

かくて石川臣家の最有力者が、ほとんど亡びることになり、浄土寺は山田麿が死んだ寺「山田寺」として有名になりました。



山田寺跡を通り過ぎ、

こんもりとした丘を回り込むと、

東大谷日女命神社の入口が見えてきます。

当社はもともと、八幡社と称していましたが、『大和志』によって式内社「東大谷日女命神社」に比定され、社名が変更されました。

しかし鎮座地は旧十市郡に属すため、畝傍山の東に鎮座する同名社との論争が続けられています。

僕は、真の東大谷日女命神社鎮座地は、畝傍山西麓の「畝火山口神社」(うねびやまぐちじんじゃ)であろうと考えています。
「東」はヤマトで、大谷日女はオオタニではなく、大屋姫のことだと思うからです。

畝傍山の西方には、大屋という地名も残されています。

しかし『大和志』が比定し、畝傍山を挟んで大屋地区の対面に当社が鎮座していますので、ここにも大屋姫に繋がる何かがあるのかも、と思って参拝しました。
が、これといった発見はありませんでした。

本殿両脇にある摂社は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀る「厳島神社」と、素盞鳴命 (すさのおのみこと)を祀る「八坂神社」。
二人のカップリングを祀る一族といえば、物部氏か。

石川臣家も重要な聖地だと知っていたから、ここに雄正を祀る寺を建てようとしたのだとは、思われます。
