玉若酢命神社:常世ニ降ル花 抓津夏月篇 01

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島根県隠岐郡隠岐の島町下西に鎮座の「玉若酢命神社」(たまわかすのみことじんじゃ)を訪ねました。

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西郷港や隠岐の島町役場からほど近く、アクセスの良い神社です。
地名の「甲野原」(こうのはら)は「国府の原」の転化であり、当地は古代から隠岐国の中心地で国府があったとされます。

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「まて、おぬし。さては隠岐牛を求めし者ぢゃな」

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そう言えばこの神社は、いつも会話を楽しませてもらっている狛犬さんたちがいらっしゃいません。

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そして境内から鳥居を向くと、その先に山を望み見ることができます。
隠岐の神社は、こうした山と向かい合って鎮座しているところが多い気がします。

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嘉永5年(1852年)に建立された、入母屋造茅葺の随神門は、平成4年(1992年)に国の重要文化財に指定されています。
その奥には、

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樹齢二千年ともいわれる巨大な御神木「八百杉」(やおすぎ)が聳えます。
この、写真では伝わらない感。

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八百杉は幹の太さ約20m、樹高は約30mの老巨木で「その昔、若狭の国から来た八百比丘尼が参拝の折に杉の苗を植え、800年後にまた来ることを約束したことから、その名がついた」と言い伝えられます。

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また、この杉の根元に棲んでいた大蛇が、寝ている間に根に囲まれて出られなくなってしまい、今でも幹に耳をあてると大蛇のいびきが聞こえるとの伝承があるそうです。
実際に大木の中心部分は空洞となっているとのこと。

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とある研究者は、他の土地なら山奥でしか見かけないような巨木が、こんな海抜0mに近いような平地に存在していることが不思議だと、こぼしたそうです。

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当社主祭神は「玉若酢命」(たまわかすのみこと)で、古くは「若酢大明神」「総社明神」とも呼ばれていました。

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また、出雲風の立派なしめ縄がかかっており、「大己貴命」「須佐之男命」「稲田姫命」「事代主命」「須世理姫命」を配祀しています。

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しかし聞いたこともない「玉若酢」という神。この神は誰なんでしょうか。
当社創建の年代は不詳であるとされますが、社伝によると、景行大君が皇子を各国に分置するとき、皇子のひとりに大酢別がおり、その子である玉若酢を隠岐国に派遣したとあります。

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確かに景行大君は、物部イクメと、磯城王朝の最後の大君・彦道主の娘・日葉酢姫の息子になります。
その子に母の一文字「酢」を用いて大酢別と名付け、さらにその子に玉若酢と名付けた、と捉えることもできそうです。
しかし玉若酢命は『記紀』はおろか、おそらく他の書にも一切名前が出てこない地方神で、それだけでは解明できないものであると考えられます。

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また当社は、隠岐国の総社とされており、玉若酢が隠岐の開拓神であると考える向きもありますが、『先代旧事本紀』の「国造本紀」では、観松彦伊侶止命(みまつひこいろどのみこと)の裔・十挨彦命(とおえひこのみこと)が応神大君の御代に国造へ任命されたと記されています。
観松彦伊侶止は、成務大君の頃に長国造(阿波国南部)の国造となった韓背宿禰の祖ともされ、父親は事代主だとも考えられています。

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玉若酢命神社の本殿は、屋根は大社造り、間取りや柱の建て方は神明造りを模しており、向拝(ひさし)は春日造りを取り入れた「隠岐造り」と呼ばれる独特の建築様式です。

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千木の間と鰹木の上には、丸太を渡してあり、これは「雀踊り」や「カラス停まり」と呼ばれています。

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境内に何気なく置かれているこの建物、一番左の見切れている建物が慶応2年(1866年)建立の旧拝殿だとのことです。

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本殿の横にある池は、コンコンと湧き続ける泉によるもので、神聖さを感じさせます。

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本殿の裏手の丘には、古墳群もありました。

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玉若酢命神社境内に隣接して、入母屋造茅葺き屋根の「億岐家住宅」があります。
享和元年(1801年)の建立だとのこと。

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億岐氏(おきし)は、意岐、億岐、億伎、隠岐とも書かれ、先に記した十挨彦命の子孫であると伝えられます。
当家では、十挨彦命の祖は事代主ではなく、大国主とされているようです。
億岐家は、この十挨彦命の代あたりから意岐国造となり、国造制度廃止後は国司となって代々隠岐国を治めてきたとされます。
国司となった頃から、玉若酢命神社の宮司も務めるようになったと言われており、現在でも子孫が宮司を務めておられます。
この億岐家住宅ほか、億岐家所有の隠岐国駅鈴、隠伎倉印は、国の重要文化財に指定されています。

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玉若酢命神社から10kmほど離れた島の東岸、大久の「龍ヶ瀧」と呼ばれる崖は、龍馬に乗ってやってきた玉若酢命が上陸した地であると伝えられます。

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十挨彦が隠岐国造に任命されたのは応神大君の時。
この時代、外交的にも重要であったはずの隠岐に、出雲族の十挨彦を国造に任命したのは、竹葉瀬ノ君のご意志だったのでしょうか。

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玉若酢命神社は、『隠州視聴合紀』、『隠岐国神名帳』や『隠州神名帳』には「正一位玉若酢大明神」と記され、同じ隠岐の島町に鎮座する隠岐国一宮「水若酢神社」の正三位よりも、神階が上であったということです。

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2件のコメント 追加

  1. Nekonekoneko のアバター Nekonekoneko より:

    🐥酢って何なんだろう。玉若って玉が若い…🐣考え込んでしまう名ですな…🐤

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      さぞ若々しい玉がスッとしておられるんでしょうな🌕🌕

      いいね: 1人

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