
島根県隠岐郡隠岐の島町下西八王子に「和氣能酢神社」(わけのすじんじゃ)があるというので訪ねてみましたが、場所がわかんね~。。
隠岐島島後は、場所が分かりにくい神社が多すぎ問題。

実際には玉若酢命神社の脇の小道から4~500mほど奥に歩いたところにありましたが、車で探したので、大変、大変。

社号も式内社としては「和氣能湏命神社」と表記されており、一般的には「和気能須神社」と表される事が多いようですが、扁額には「和気能酢神社」とありましたので、『偲フ花』ではこれを採用。
創建は不詳ですが、明治4年の『島後旧社取調帳』松尾大明神の条には「この社は式内周吉郡 和氣能須ノ命神社なる由、旧記にしるせり。 国内神名帳にも和氣能酒大明神とあり」と記されており、 古くは「松尾明神」と呼ばれ、酒造の神とされていた一面もあるようです。

祭神は「和氣能須命」(わけのすのみこと)。
またしても聞いたことのない神名ですが、景行大君第五皇子の「大酢別」とする説があるようです。

この大酢別の子が「玉若酢」とされ、隠岐島後の開拓神だと考えられています。
そして応神大君の時に大国主系の十挨彦が隠岐国造となり、その子孫「億岐氏」(おきし)は、国造・国司になって、玉若酢命神社の宮司も務めるようになって今に至る、といいます。
これが僕には、どうしても引っかかる。

景行大君といえば、ガチガチの物部派、というのが僕のイメージです。
その子孫と、出雲系十挨彦・億岐氏がどうにも絡み合いません。
大碓(成務大君)・小碓(ヤマトタケル)のイメージはガチ物部です。

しかし玉若酢という人は、景行大君の母・日葉酢媛(ひばすひめ)のイメージが強い印象です。
玉若酢という人物が実在したなら、登美家寄りで育てられたのかもしれません。

『島後旧社取調帳』松尾大明神の条には、「人家を離れて高き所ニ在。中ノ大社ニて拝殿参籠所あり。此村の産神、并ニ八田村も此社の産子也。造営村中懸リ棟札ハ元和6年建立とあり」とも記され、社地のそばを流れる谷水が良質で酒造に最適であったため、社名を「和氣能酒」と書くようになり、それにより山城から松尾明神を勧請したと伝えられているそうです。
古代において「酒造」は国家機密でした。その製造方法は一般人に知られないように「人家を離れて高き所」に置かれたのだと考えられます。
つまり当地ではかなり古い時代から酒造が行われており、国によって秘密裏に守られ、後に松尾明神が勧請されたのだと思われます。

国造の本拠も式内社 和氣能湏命神社であったと伝えられており、隠岐国の総社とされていたのを、いつしか玉若酢神社が総社と呼ばれるようになったといわれています。
いわば、和氣能酢神社は玉若酢神社の元宮とも呼べるのです。

「酢」についてですが、その起源は非常に古く、紀元前5000年にはすでにバビロニアで利用されていたという記録もある、人類最古の調味料とのこと。
その製造過程は、酒造とほぼ同じで、両者は非常に関わり深いものとなっています。
ただし、酢の製造方法が日本に伝わったのは4世紀ごろといわれますので、和氣能酢も玉若酢も、元は「酒」だったのかもしれません。

🐥え…きのこですか(写真🐤)
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松尾さんです🍄
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🐣風流な名前ですな…
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