
神代の昔、大屋津媛は都万村の大津久(おおづく)の海岸に上陸し、そこにあった洞窟に住んだ。
そこでこれを「大屋のわんど」といっている。
抓津媛は佐山の湧泉「幣(しで)の池」のほとりに居を構えた。
都万村の村名は、抓津媛の名にちなむという。
のちにこの2柱の神は砂子谷(さこだに)にある霊亀山に合祀されたが、これが天健金草神社である。


島根県隠岐郡隠岐の島町都万の砂子谷霊亀山に鎮座の「天健金草神社」(あまたけかなかやじんじゃ)を訪ねました。

参道入口を振り返ると、ピラミッドのような山と、砂子谷(さこだに)集落の田園風景があります。

参拝者の影も薄く、一見淋しげな神社ですが、境内には立派な牛突き場があり、大会の際には牛を連れてお参りに来る人たちで賑わったそうです。

当社は、延長5年(927年)成立の延喜式神名帳に、「隠岐國郡三座」と列記された中の1社で、46代孝謙天皇7年の建立と伝わります。
しかしこの神の伝承としては、さらに古いものが伝えられます。

天健金草神は強い神威を持つとされ、神功皇后が二韓征伐(三韓)出兵時に、暴風を避けた際に参拝したとのことでした。
平安時代の『扶桑略記』には、新羅船を大風で退かせたという託宣により56代清和天皇13年に從四位下へ、58代光孝天皇仁和元年に從四位上へと、数度にわたって神階が上げられた事が記されます。

また社伝においても、延喜6年(906年)隠岐国坤方より猛風が吹き起きた時に、これは新羅の賊船数隻が北海にいたのを退けるために大風を吹かせたものだという天健金草神の託宣があったとしています。
この時、船の帆柱などが隠岐島に漂着し、神威の大きさを知らしめたのだと。

さらに、隠岐へ配流になった後醍醐天皇も、天健金草神社に脱出祈願を行い、それがかなったとのことで、後に正一位を贈っています。

なるほど、すごいワンっ。

天健金草神社の祭神は、「大屋津媛命」(おおやつひめのみこと)と「抓津媛命」(つまつひめのみこと)に、「應神天皇」を加えます。
配祀として「息長帯姫命」「玉依姫命」「塩土老翁」「建御名方命」の名がありますが、應神天皇以下は八幡宮を、建御名方は諏訪社を合祀したもののようです。

よって、天健金草神とは、大屋津媛と抓津媛のこととなりますが、この媛神らは、『日本書紀』の一書に登場する神で、父神を素戔嗚、兄を五十猛とします。
素戔嗚の命で五十猛と共に、全国の山々に木種を撒き、最後は紀伊国に戻って住んだとされています。

この祭神ですが、天健金草神社由緒では「五十猛と共に八十木種を植えしめてこの隠岐の国を開拓した後は、大屋津媛は大屋仙洞に坐し、抓津媛は狹山涌泉に坐し、よって地号を都萬院と称す」とあります。

大屋津媛が坐した「大屋仙洞」とは、天健金草神社の西南西約2kmのところにある海蝕洞を言うらしく、「大屋のワンド」と呼ばれています。
また、抓津媛が坐すという「狹山涌泉」は、社の北北東約3kmにある「弊之池」を指すとのことです。
そしてこの地区を抓津媛の名をとって「都万」(つま)と名付けたというのです。

現在の都万地区の広さは、島後でもかなりの面積を占めます。
これは抓津媛の名をとって地名を付けたのではなく、都万の媛巫女であったから、彼女は抓津媛と呼ばれた、とも考えられるのではないでしょうか。

さらに、寛元4年(1246年)の『都万院四至境注記写』(天健金草神社文書)には、都万院とみえ、北西の「那具」(なぐ)、東の「加茂」(かも)両地域との境相論に決着をつけるため四至を定めたとされています。
当院は古代の隠地郡都麻郷(おちぐん・つまごう/和名抄)に設置されていた正倉を中心とする地域が、国衙(こくが)に直属する独立した領域支配の単位と認められて成立したものと考えられていますが、その範囲は現在の都万地区より広く、隠岐島後の1/4を占めていたと考えられます。

ここで”オチ郡”が出てきて、僕は興奮しています。
隠岐は越智に通じるのでしょうか。

富家伝承によれば、大屋津媛は、西出雲王家・神門家(郷戸家)のアジスキタカ彦の娘「大屋媛」のことで、五十猛の妃となった人のこと、と読み解けます。
日本書紀では、五十猛と大屋津媛、抓津媛は兄妹と言う設定ですが、古語の妹背/妹兄(いもせ)とは夫婦のこと。
つまり、抓津媛は、越智族が五十猛の嫁に差し出した隠岐の媛巫女だったと、考えることができるのではないでしょうか。

大屋媛の本拠は島根県大田市の大屋姫命神社ですので、大屋のワンドは日本書紀に忖度してつけられた名称なのでしょう。
天健金草神社の真の祭神は、抓津媛一柱であったのではないかと推察します。

『神奈備にようこそ』さんのサイトでは、「由緒」として次のことが掲載されています。
「 是より先仲哀天皇の御代、神功皇后角鹿より発して西海に赴く時、颱風忽ち起こりて潮濤頻りに王船を襲ふ。この時、五十猛神現れて託宣あり、妹大屋津媛命・抓津媛命の二人をして皇后に奉侍せしめて表素碕(おもさき)に至る、即ち海風の起これる海上を吹浦湊と謂うと(今は福浦と訛れり)かくて涌井濱を過ぐる時颱風全く泙平ぬ。因てこの浦を諾浦濱といふ、今那久濱といふ。浦口に神ありて諾浦媛神と云う。
時に王船は海濱に到着す其の地を王者汀と云う。此の時又星神、天甕星神衆星と共に天降りて王船を防護せるの奇瑞あり、国司海人等を卒いて釆詣し、調物を献ず。皇后大に喜びて詔して日く『朕不徳なりと錐も神祀の霊恩を蒙り、下群臣の扶翼に頼り幸甚窮りなし』と則ち伊賀襲津彦をして五十猛神等を大山に祀らしむ。三女神は即ち大屋仙洞及び狭山涌泉に鎮座す」

この天健金草神社の由緒と思われる内容は、他では確認できておりませんが、中町に鎮座の「諾浦神社」(なぎうらじんじゃ)の謎の祭神「諾浦媛」(なぎらひめ)の事が書かれていました。
那久の岬や浜も、都万院に属します。
神功皇后の王船を守護した神の一柱として、天甕星の名も出てきました。天甕星は西出雲王家のサワケではないか、と僕は考えていますが。

ともあれ、ここにきてようやく、隠岐島と越智の繋がりのかけらを、拾い上げたのでした。

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