五十猛神社からさらに内陸に入ったところに「大屋姫命神社」があります。
この一帯は地名が「大屋」であることから、姫を敬愛した人々の思いが伝わります。
辺りは民家もまばらな、過疎の山村です。
しかし大屋姫命神社はとても清浄に保たれていました。
こんもりとした杜に白い鳥居が新鮮です。
大屋姫、日本書紀は全くのデタラメを記していますが、彼女は大国主の孫、アジスキタカヒコの娘です。
大国主の娘「高照姫」が、火明・徐福に輿入れするのに、そのお世話係としてこの地にやってきました。
ここは大屋姫の屋形があった場所と聞いています。
苔むした、急な階段を登ります。
大屋姫が親元を離れて、高照姫のお世話係にやってきたのは、おそらく幼い頃でしょう。
今で言うなら、10歳くらいではないでしょうか。
そうこうしているうちに高照姫は身ごもり、五十猛を出産します。
幼い五十猛を大屋姫は甲斐甲斐しくお世話したことでしょう。
やがて青年へと成長する五十猛には、大屋姫に対する恋心が芽生えました。
10歳ほど年上のお姉さんにプロポーズをする五十猛。
「君じゃなきゃ、ダメなんだ。」
「え、そんな、私はあなたよりずっとお姉さんですよ。」
「君なしでは生きていけないんだ。」
「じゅん、わかったわ、私も好き。」
なんてロマンス。。
僕はこの五十猛と大屋姫のラブロマンスは、記紀のウガヤフキアエズと玉依姫の話のモデルになったと思っています。
https://omouhana.com/2017/05/01/佐野原聖地宮浦神社/
大屋姫命神社の境内は、こじんまりとして、本当に私宅の庭のようです。
彼女はやがて丹波に移る五十猛に付いて行きます。
そこで二人は幸せに暮らすはずでした。
しかし五十猛はもう一人、妻を迎え入れます。
それは遠く九州の佐賀地方の娘。
そう、決して忘れることのできなかった父、徐福と、宗像の市杵島姫との間に生まれた娘「穂屋姫」です。
異母兄妹の姫を丹波に呼び寄せ、結婚し、子を儲けました。
その秦の血を濃く受け継いだ御子こそ「天村雲」、のちの大和王朝初代大王です。
彼女との結婚は、おそらく政略的な意味合いが強かったでしょう。
父への複雑な想いも絡んでいたと思います。
大屋姫との恋はとても純粋なものでしたから、彼女への思いが陰ることはなかったと思います。
しかし、それでもやはり、大屋姫は傷ついたのです。
やがて大屋姫は一人息子とともに紀伊国へ去って行きます。
その息子は「高倉下」(タカクラジ)、紀伊国国造の始祖として名を馳せる男でした。
ついに私もここにこれました〜
確かに来るまで行くには、ほっそい道でしたね
五十猛?はここで暮らし、大年神社も近くにあるので、大年彦は出雲で名乗った名前なのでしょうね
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八千矛王も健在の、平和な頃が窺い知れる長閑な農村です。また行きたい。
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国譲り事件以降、後ろ盾を失った五十猛を守ってきたのは母親と大屋姫だったと思います。
辛い事を忘れるかの様に大歳の教えで守り、和名である大俊彦まで与えたのは、彼の未来を思ってのことと思います。
穂屋姫との結婚は、出雲の本家の指示の可能性も考えられますし、叢雲に娘を嫁がせたのも戦略背を感じないわけではありません。
一つ言えるのは、大陸の男系の武力と出雲の血筋とで戦い方の違いがあり、少なくとも氏素性が全ての考え方は、記紀の時代までは続いていたということでしょう。
紀伊氏が2回目の和名、香久山ではなく元の名の五十猛を祀るのには何かの象徴的な意味と強い気持ちが入っている事だけは確かだと思います。
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海部家は祭祀を見ても、出雲の影響が大きいことが窺えます。穂屋姫にしても半分は宗像なので、大和大君家のことまで見据えて、出雲の血を濃くしようとしたのかもしれません。
血縁で国を統治する、というのがサイノカミ的な出雲王家の戦略の一つだったのでしょうね。
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