
最初に島に住み着いた人々は「木の葉人」と呼ばれていた。
彼らは乾いた木の葉で覆った衣類を着ており、それは葛や川柳の皮で締められたものだったことが伝えられている。
木の葉は雨水や塩水をはじき、着る者が濡れることを防いでくれた。
木の葉人は髪を切らず髭も伸ばしており、恐ろしい風貌だった。
- 「木の葉人伝説」隠岐に最初にやってきた人々


島根県隠岐郡隠岐の島町の伊後地区に「捧羽山神社」(ぼうばさんじんじゃ)という聖地が、ひっそりとあります。

場所は白島の岬の近くで、耕作地の中にポツンとある小丘のようなところで、車で行くのであれば畦道に毛が生えたような細道を進む勇気が必要です。

だが、素晴らしい。
小さな社があるだけですが、それだけで尊いと感じさせる場所です。

祭神は「水若酢命」(みずわかすのみこと)。

隠岐一宮の「水若酢神社」の元宮だと伝わる場所が、ここです。



捧羽山神社から約700m、

同じく伊後地区に鎮座する「伊後神社」(いごじんじゃ)も、「水若酢神社」の元宮だと伝えられる神社です。

「隠岐牛を求めし者、隠岐牛は喰ろえたのか?」

「そう簡単には喰ろえぬであろう。おぬしはまだ、レヴェルが足りておらぬわ」

ええ、ええ、昨年に島前の中ノ島で食べ損なって以来、未だ口にできていませんよ。

伊後神社の主祭神は「伊耶那岐命」「速玉男命」「祭神不詳」となっており、配祭神として「蛭児命」「大山祇神」「手力男命」「事代主神」「和太須神」「若宮神」を祀ります。
隠岐島の伝承では水若酢の神は、海中から伊後の地に上がり、そこから捧羽山(芳葉山)を経て山田村、一宮村宮原と移り、さらに江戸時代の洪水の際に現社地の郡村犬町に遷座したとされていました。
主祭神の伊耶那岐と速玉男は水若酢神との関連は薄そうなので、不詳の神というのが気になります。
が、むしろ面白いのが配祭神の方です。

主祭神も含めて出雲系が目立つ中で、異彩を放つのが蛭児神と手力男命、そして和太須神です。
蛭児神(ひるこのかみ)は「ゑびす神」と同神であるとする場合もありますが、ひょっとすると越智系の神なのかもしれません。
岩戸神話の怪力神・手力男(タヂカラオ)は、越智の祖神であると考えています。
さらに、和太須神(わたすのかみ)。

ワタスの神で思い出すのは、イカ娘「由良比女大神」(ゆらひめおおかみ)のことです。
『延喜式神名帳』には、隠岐・島前の西ノ島に鎮座する「由良比女神社」は「元名 和多須神」(わたすのかみ)であったと記されていました。
また、由良比女大神は、は「海童神」とも「須勢理媛」(すせりびめ)だとも、「ちぶり神」とも云われています。

由良比女の伝承としては、媛が苧桶に乗って、手で海水をかき分けながら浦に向かって来る途中、イカが媛の手を引っ張ったりかみついたりした。
そのお詫びとして、毎年秋になるとイカの大群が神社の正面の浜辺に押し寄せるようになった、とのことでした。
この西ノ島に鎮座する由良比女は、元々は知夫里島の古海に鎮座していたのが移されたもので、それ以来、知夫里島にイカが寄らなくなったとも伝えられています。
知夫里島での元宮は「姫宮神社」というのが一般的な説ではありますが、僕が実際に訪ねてみた感じでは、イカ寄せの浜は「渡津神社」の方が相応しいと思いました。
「渡津神」(わたつのかみ)=「和多須神」(わたすのかみ)と考えられます。

この和多須神と伊後神社配祭神の和太須神は、同一の神であると考えて間違いないでしょう。
さらには、この”ワタスの神”が、”ワカス(若酢)の神”へと転じていった可能性が高いのではないか、と僕は考えています。

国土交通省内の観光庁サイトに、『隠岐に最初にやってきた人々』というタイトルで、当地に伝わる「木の葉人」(このはびと)の紹介が為されています。
こちらでも、およそ3万5千~4万年前に到着した初期の日本定住民族が、隠岐諸島へも同時期に住むようになり、それは黒曜石が重要な鍵であったと書かれています。
隠岐の黒曜石は、遠く離れた兵庫県の3万年前の遺跡でも見つかっており、これは、その時代までには島に住民が定住していたことのみならず、島民たちが交易ともしかすると鉱業を行っていたことを示している、とのこと。

地元の伝説によると、最初に島に住み着いた人々は「木の葉人」と呼ばれており、彼らは葛や川柳の皮で締められた、乾いた木の葉で覆った衣類を着ていたと伝えられているそうです。
木の葉は雨水や塩水をはじき、着る者が濡れることを防いでくれた。木の葉人は髪を切らず髭も伸ばしており、恐ろしい風貌だった、と。
“伝説では、最初はほんの少数、恐らくたった一組の木の葉人が島後の北側の湾に到着したという。彼らは火起こしの道具や原始的な漁具を持って来ていた。やがて彼らはさらに西にある西ノ島へと移住した。ある日、島の南端へ渡ろうと決めた彼らは、島前で最も高い場所へと登って土地を調査した。間もなくすると、木の葉人の第2集団が遠く南へ上陸した。彼らには火をおこす手段がなく困窮していた。第2集団は北の高い山に炎が上がるのを見て、思い切ってそちらへ向かった。山の頂上でこの2つの集団は一緒になった。伝説では、これが焼火山の名前の由来であると記されている。
まもなく、他の集団も島へと到着し、この中には本州の出雲地域から来た刺青を入れた海人(うみびと)もいた。最終的に、木の葉人の言語と文化は海人のものと一緒になってしまった。”

隠岐の木の葉人伝説は、遥か太古の事柄であるにもかかわらず、詳細でリアルな内容に違和感を抱きますが、しかしドラヴィダ人が出雲に王国を築く以前から、隠岐諸島には採掘民族が定住していた何らかの根拠があったことが、この伝説を生み出したと考えられます。



隠岐でも特に良質な黒曜石の産地として有名な久美地区。
その集落の路地裏に、ひっそりと祀られる聖地があります。
それが「和多洲神社」(わたすじんじゃ)。

僕の知る限り、「和多洲」の名を冠する神社はここだけで、情報は皆無と言って差し支えありません。
この神社の存在と場所を、僕がどこの情報から得たのかさえ、すでに曖昧となっています。

しかし、久美地区に和多洲の神を祀る神社があるというのは、大変貴重なことで、この小さな神社がよく合祀もされず今日まで残っていたものだと感心します。
ワタスの神は、ワケノスの神(和氣能酢神)、ワカスの神(若酢神)へとなっていったのではないでしょうか。
まさに隠岐の開拓神に相応しい経歴かと思います。

「木の葉人」の伝説は、隠岐に来た”ワタス族”が、採石に長けていたのと同時に、植林にも才があったことを物語ります。
植物の特性をよく知る彼らに、原始人・縄文人的な後世のイメージを重ねたものが、この伝説なのではないでしょうか。
黒曜石を採掘する傍ら、彼らは植林によって土地を豊かにし、あるいは農作までも行なっていたのかもしれません。

紀元前3世紀ごろ、この「木の葉人」的性質の一族の中から、海家の皇子に妃が送られることになった、それが「抓津媛」(つまつひめ)だったのではないか。
やがて夫である五十猛(いそたけ)を含む3人の子孫が本州の南部に移住し、そこは木の国(紀伊国)と呼ばれるようになった、と。

和多洲神については、知夫里島の渡津神社と同名の神社が佐渡島にあり、両社の祭神が現在は五十猛であると考えられていることや、『伊予国風土記』残欠に、伊予三島の大山積神のまたの名は「和多志の大神」(わたしのおおかみ)である、と記されていることも気になります。
大山積神(大山祗神)と言えば「クナト王」のことだと、僕はこれまで考えていましたが、伊予三島の大山積神に限っては、「タヂカラ王」なのではないかと、思い始めている今日この頃なのです。
