岩屋城跡

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「鬼の腰かけ石」を探して四王寺山に登って来ましたが、せっかくなのでちょいと寄り道します。

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四王寺山(しおうじやま)とは、福岡県太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町にまたがる標高410mの山で、大城山(おおきやま/大野山)を中心に岩屋山・水瓶山・大原山と呼ばれる4つの山から構成されています。

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白村江の戦いで惨敗した天智天皇は664年、大宰府を守るための絶対防御ラインを造成しました。
その一つが四王寺山の最高点、大城山山頂に作られた古代山城・大野城でした。
時を経て宝亀5年(774年)、大野城があった場所に外敵撃退を祈願して四王寺が築かれました。
それにちなんで大城山を中心とした4つの山を、後に「四王寺山」と称するようになったということです。

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中世に入ると岩屋山山腹に岩屋城が築かれました。
戦国時代末期の天正14年(1586年)、島津氏と大友氏はこの岩屋城で激しい攻防戦を行い、大友方の岩屋城城主「高橋紹運」(たかはしじょううん)以下、多くの将兵が悉く討ち死にしました。

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その「高橋紹運公ならびに勇士の墓」が、岩屋山の山中にあります。

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高橋紹運は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で豊後大友氏の家臣でした。
天正14年(1586年)、島津氏が大友氏を滅ぼすべく岩屋城・宝満山城のある太宰府まで北上し、紹運はこれを防御の薄い岩屋城にておよそ763名と共に迎撃します。

「終日終夜、鉄砲の音やむ時なく、士卒のおめき叫ぶ声、大地もひびくばかりなり。城中にはここを死場所と定めたれば、攻め口を一足も引退らず、命を限りに防ぎ戦ふ。殊に鉄砲の上手多かりければ、寄せ手楯に遁れ、竹把を付ける者共打ち殺さる事おびただし」(筑前続風土記)

紹運は島津軍の度々の降伏勧告を拒絶し、半月にも及ぶ戦い(岩屋城の戦い)の末、敵兵多数を道連れに玉砕(享年39)。岩屋城はついに陥落したのでした。

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岩屋城の戦いでは、島津軍も戦死傷者3,000人とも言われる甚大な被害を受けます。
結果、島津軍は軍備立て直しのため時間がかかり、九州制覇はならず、豊臣軍の九州上陸を許してしまうことになりました。

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岩屋城落城後に、紹運以下の首実検が行われましたが、敵の総大将・島津忠長は床几を離れ地に正座し、

「我々は類まれなる名将を殺してしまったものだ。紹運殿は戦神の化身のようであった。その戦功と武勲は今の日本に類はないだろう。彼の友になれたのであれば最高の友になれただろうに」

と諸将とともに涙を流し手を合わせたと伝わっています。

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天正15年(1587年)、豊臣秀吉は薩摩国に入り島津氏を降伏させました。
帰途、太宰府の観世音寺に紹運の息子「立花統虎」(たちばなむねとら/立花宗茂)を呼び、

「この乱れた下克上乱世で、紹運ほどの忠勇の士が鎮西にいたとは思わなかった。紹運こそこの乱世に咲いた華である」

とその死を惜しんだと伝わっています。

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「高橋紹運公ならびに勇士の墓」から少し登ったところに、岩屋城本丸跡があります。

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嗚呼壮烈

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岩屋城本丸から望む筑後平野の素晴らしいこと。

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宝満山と大根地山、背振から油山まで、福岡の聖なる神奈備を、ほぼ見渡すことができるのではないでしょうか。

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岩屋城ができる前は、ここは重要な祭祀の場だった可能性があります。

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「屍をば岩屋の苔に埋みてぞ 雲居の空に名をとどむべき」

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自ら薙刀を取り敵中に入った高橋紹運はやがて力尽き、敵陣に矢止めを乞うたのち高櫓(たかやぐら)の上に登り自害しました。
紹運が高櫓の扉に書き残したとされる辞世の句には、今日と同じ空が詠まれたのでしょうか。

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人はどうしても、争わねば生きていけないのか。
人の歴史とは戦争の歴史でもあり、平和主義を唱えていても、どこか虚しく思えてきます。

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高橋紹運が若かりし頃、斎藤鎮実の妹・宋雲院との結婚が決まっていましたが、度重なる戦で婚儀が延び、その間に宋雲院は疱瘡を罹い、容貌が悪くなってしまいました。

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鎮実は破談を申し出ましたが、紹運は「私は彼女の容姿に惚れて婚約を決めたのではない、心の優しさなど内面に惹かれて婚約を決めたのだから、容姿が変わろうとも問題はない」と、そのまま正妻として迎え、二男四女を儲けました。
その長男が高橋統虎(立花宗茂)です。

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紹運の位牌は現在、柳川市天叟寺にて妻・宋雲院との比翼の位牌となっており、墓所も夫婦合葬されているとのことです。

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