
松江市宍道町伊志見、田園の先にある「伊甚神社」(いじみじんじゃ)を訪ねました。

『出雲風土記』にある「伊自美社」(いじみのやしろ)に比定され、かつては「三社大明神」と言われていました。

社記によれば、往昔に伊志見國造の祀った神社で、出雲大社と特別の関係があって、維新前までは遷宮毎に出雲大社の古材を受けて造営することになっていた、と伝えているそうです。

キリッとした狛さんに対して、ちょっとくたびれた牛さん。

当社祭神は「大年神」(おおとしのかみ)、「倉稲魂命」(うかのみたまのみこと)、「武御名方命」(たけみなかたのみこと)となっていますが、宮司家(秦家)の言い伝えでは諏訪神一柱だと聞いています。

伊甚国は千葉南部にありましたが、そこに鎮座する「国吉神社」は伊甚国造と関連した神社で、主祭神は諏訪神でした。
伊甚国造は伊勢津彦系といわれ、表向きはホヒの子孫となっていますが、本来の血筋としては神門系(郷戸家)となります。

その神門家の子孫が富家の神を祀るというのも謎ではありますが、神門家と富家は深い姻戚関係がありますので、伊甚家は富家寄りの神門家という立ち位置なのでしょうか。

富家伝承では、第2次物部東征後、出雲族は物部王家の兵として力を貸すようになったと云われています。
伊甚国造の出雲本拠地である当地は、出雲郡建部郷でした。
建部は物部王家の兵の役割を担った部民と考えられ、吉備と出雲、美濃、伊勢などに点在しています。

当社の境内社に美濃神社がありましたが、美濃の建部とも関連があるのか。

伊甚神社の背後には、ちょっとした杜があり、参拝したこの日は晴れていてとても気持ちが良かったです。

当社が江戸時代に現在地に移る以前は、現在地よりさらに南へ約700m程登ったところにあったそうですが、当時もここは重要な場所だったのではないでしょうか。
古墳のように土が迫り上がった場所もありました。

伊甚国造が支配していた地域には、古い豊玉姫の祭祀があり、豊国造との繋がりも重要になってきます。
伊甚国造は相武國造=漆部直(漆間)と親族関係にあり、『先代旧事本紀』によれば、豊国造と伊甚国造は同祖ということになるようです。

『宍道町史』には「雨乞石 降雨のない時、境内地の手水脇にある石に注連縄を張り、これを伊志見川河口まで担っていき、川中に沈め雨乞いをする。最近では1930年(昭和5)に行われたという」とあるそうで、ここもまた水神と深い関わりを思わせるのでした。

あの國吉神社に繋がる伊甚のもと。出雲空港からわずか2-3キロのところにあったんですね。
豊国造~漆部・漆間までリンクしてくるとジワジワ来ます😅
神門&富家は他人事じゃないですし…
こりゃ次回島根訪問時行ってみたら何かありそうな予感です。
いじみ~ならぬ じみ~な神社に深いヒントが埋まってる可能性にゾクッときます。
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Kaneko家のルーツにも繋がりそうですね😊
あと、もう一度椎葉村に行かなければなりませんが、桑野内〜鞍岡あたりも、キハチとかイツセとか、関わり深い気がしますよ😌
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ルーツ関連ではブログ始めてから石のMさんがすぐご近所だったり関係ありそうですし、随分色々出てきました☺️ 出雲石見の国境地帯は複数家ハイブリッド(Mさんの表現)がキーになってます。
以前鞍岡の民宿に泊まりました。桑野内もまた行かねばならんな、と思っています。馬見原のかのB級めしはだいぶ前から知ってるわけですし🤭
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ももちゃんとも絡み始めましたか😁
前お話しした静之窟の藻塩は、彼女と塩爺が作っておられます。
鞍岡の祇園社がイツセの命の里ではないかとニラんでいます。
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はい☺️ご出身地とうちのルーツの地が5キロも離れてませんでした💦10キロ圏内に佐比賣山も物部神社も邇摩も静之窟も全部納まります…世間狭っ! お塩づくりのお話も伺いました。 祇園神社は高千穂の秋元地区を訪ねた時に山の反対側が気になって訪問、予想通り、凄い秘めたるものある山、妙見社側にもまわり正式勧進以前からの信仰の形も窺えました。
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