
佐渡も流刑の島でした。

先ほどまで降っていた大雨で、小川の水が激しく流れています。

激動の鎌倉時代、承久3年(1221年)、後鳥羽上皇は権力の奪還を狙い、討幕の狼煙をあげました。
世にいう「承久の乱」(じょうきゅうのらん)です。
しかし2年の争いの末、後鳥羽上皇は敗れて隠岐島へ配流となり、討幕に積極的に関わった息子「順徳上皇」はここ、佐渡島に配流となったのです。

新潟県佐渡市真野に鎮座する「真野宮」(まのぐう)は、順徳天皇を祀る宮となっています。

祭神は他に「菅原道真朝臣」と「日野資朝朝臣」が合祀されています。
菅原道真は讒言により太宰府に流されました。
日野資朝(ひのすけとも)は、後醍醐天皇の側近で、元亨4年(1324年)に鎌倉幕府の朝廷監視機関である六波羅探題に倒幕計画を疑われ、佐渡島へ流罪となりました。
元弘2年/正慶元年(1332年)、元弘の乱の翌年に佐渡で処刑されています。

真野宮はもともとは「真輪寺」といって、国分寺の末寺として順徳上皇の御火葬塚の管理をしていました。
明治元年廃仏毀釈により寺僧は神職となり、本堂を改修し宮とし、明治7年県社に認められ「真野宮」と改称した経緯があります。

神体とされていた順徳上皇の木像は、明治7年、後鳥羽上皇とともに祭神となっている大阪府の水無瀬神宮に遷されています。
今は御霊代として、明治天皇御下賜の御剣が奉安されているとのこと。

他に社宝として、順徳天皇御遺品と伝える短刀、硯、扇子、釣花生などが保管されています。

順徳天皇は後鳥羽天皇と、寵妃藤原重子(修明門院)の皇子として生まれました。
正治2年(1200年)4月に土御門天皇の皇太弟となり、土御門天皇の譲位を受けて14歳で即位します。
しかし以後も後鳥羽上皇による院政が継続されており、順徳天皇即位後の内裏は閑院であったと云われています。

直接政務に関わることのない天皇は、王朝時代の有職故実研究に傾倒し『禁秘抄』を著します。
和歌や詩にも熱心で、藤原定家に師事して歌才を磨き、藤原俊成女や藤原為家とも親交がありました。
性格は穏和な兄の土御門天皇とは対照的に、激しい気性の持ち主だと言われており、後鳥羽上皇から大きな期待を寄せられていたといいます。

境内には、「えぞ塚」と呼ばれる6世紀半ばに造営された西古墳のうちの一基が、近代開発で破壊されるのを恐れて、移築されていました。



真野宮から山側の少し離れた場所に「順徳天皇真野御陵」があります。

正式には「順徳天皇御火葬塚」と呼ばれます。

佐渡配流のあと、順徳上皇は22年もの間、この島で過ごすことになります。

上皇の最後は絶食による事実上の自殺であったとも語られ、仁治3年(1241年)9月、46歳で崩御。
翌日火葬され、その跡に松と桜を植え目印としたのがこの火葬塚となっています。

御遺骨は翌年4月、従臣・藤原康光によって都に帰京され、父・後鳥羽上皇墓所の傍らに埋葬されました。

「ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほ余りある 昔なりけり」
〔御所の古びた軒先に忍び生えた草を見るにつけ、華やかだった昔が偲びきれないことだ〕
順徳上皇のこの歌は、百人一首の100番として残されています。



佐渡市両津大川、姫埼灯台の近くに「八大龍王神社」があります。

ここにも、順徳上皇の伝承がありました。

上皇が亡くなって火葬された頃のこと、旅のみすぼらしいお坊さんが野城の与七郎という老人の元へ、姫崎沖にある岩まで案内してほしいと訪ねて来ました。
そこで与七郎はお坊さんを小舟に乗せて、沖の岩まで連れて行きました。

そこでお坊さんが岩の上に上がろうとして、腰の小刀を海に落としてしまいました。
お坊さんは大変悲しんで、次の歌を歌いました。
「ツカの間も 身をはなさじと 思いしに 波の底にも サヤ思うらん」

すると、海水がムクムクと盛り上がり、龍神がお坊さんの刀を口に咥えて、出て来ました。

以降、その岩は龍王岩と名付けられました。
また、そのお坊さんは、実は順徳上皇であったといい、今もその時の小刀は与七郎家の家宝として残っているということです。

八大龍王神社が鎮座する丘の上から、龍王岩が見えていました。
順徳上皇の別の伝承では、密かに佐渡から脱出し、出羽国酒田に上陸。最上川をさかのぼり、村山郡の御所山(現山形県尾花沢市)に隠棲したというものもありました。

その話では乗馬中に落馬して崩御し、随行した阿部時頼によって御所神社が建てられたということです。
