日本全国に10万社を超え鎮座するという各神社、そして祀られる八百万の神々、その中で僕にとって最も特別な神社が「太宰府天満宮」。
父の実家が天満宮から僅か500mほどの場所にあり、僕のお宮参りは太宰府天満宮と宇美八幡宮でなされたそうです。
真ん中が母で、向かって左が父。
右側の女性は、父の兄の奥様でしょうか。
七五三も太宰府天満宮に参りました。
つまり僕にとっての氏神は、道真公ということになります。
以来毎年、正月はもとより、事あるごとに当社へ参拝して参りました。
僕の神社好きは、太宰府天満宮に始まったと言えます。
美容師駆け出しだった母は、僕を出産後も働かなくてはなりませんでした。
福岡の南区に、小さな店付き一軒家を建てるまでの間、物心つく頃まで僕は、祖母と父の兄夫婦が住む、太宰府の実家に預けられていました。
母は週末に僕に会いにきて、帰り際はいつも泣いていたと聞いています。
僕とは血の繋がらない伯母は、いわば昭和の妻を絵に描いたような人で、常に祖母と伯父の下に立ち、台所周りでせっせと働き、ほとんど腰を下ろすことのないような人でした。
そのような忙しい人でしたが、自分の子供たちと変わらず、僕を可愛がってくれたことを、おぼろげながらに覚えています。
僕にとっては第二の母のような人ですが、未だに僕はその敬愛の思いを伝えきれていません。
先日伯父の通夜に伺いましたが、そこでもせっせと働いておられる伯母を見て、これでこの人もやっと自由を得られるのだろうか、などと思いを深くしたものです。
その通夜で、もう一人気になったのが、僕の初恋であろう従姉妹の姉です。
年を経ても、若い頃のままの美しさを残す彼女でしたが、彼女とその母には、いつまでも笑顔で居てほしいと願います。
さて2019年正月に、「ブラタモリ」の特番で太宰府が取り上げられていました。
それを見て、「榎社」の存在を知った僕は、すぐに足を向けてみました。
しかし、これほど足繁く通う太宰府なのに、僕はまだ知らないことだらけなんだなと痛感します。
榎社に先立って、「大宰府政庁・都府楼跡」を訪ねました。
まっすぐに伸びた朱雀大路が、かつてここが筑紫の中心であったことを物語ります。
政庁跡の敷地前には小川が設けられていますが、早朝の寒空にあっても水鳥らは元気が良いです。
その先にはだだっ広い平地が広がるのみ。
大宰府政庁跡とはそう、ただ礎石が残るばかりの平地。
かなり想像力を働かせなければ、ここに興味を抱くことはできません。
政庁跡の背後にそびえるのは「四王寺山」。
この山頂には広大な石塁と土塁に囲まれた、「大野城」がありました。
大宰府は、7世紀後半に、九州の総括として設置された行政機関です。
和名は「おほ みこともち の つかさ」とされ、大宰(おほ みこともち)とは、数ヶ国程度の広い地域を統治する地方行政長官を指すものとされます。
大宰府の創設は、38代天智帝の頃であるといわれています。
天智帝とは、聖徳太子のモデルとされる上宮法王の子らと、蘇我氏とされる石川氏らを、中臣鎌足と謀って殺そうとした、歴史に名高い「中大兄皇子」のことです。
邪魔者をことごとく排除し、クーデターを成し遂げた天智は、「白村江の戦い」で新羅・唐の連合軍に大敗を喫しました。
大国「唐」の襲撃を恐れた天智は、全国民を総動員させ、これの対策を講じました。
その最大たる要所が「水城」と「大野城」であり、「大宰府」でした。
敵に攻められやすい博多湾の沿岸にあった九州の統括「那津官家」を、福岡平野の最奥地に移し、大宰府としたのです。
こうして生まれた西の都「大宰府」。
奈良時代の根本史料『続日本紀』(しょくにほんぎ)にも、「この府は人物殷繁にして、天下の一都会なり。」と大宰府の様子が記されています。
この大宰府にも平城京や平安京などと同じように碁盤の目のような条坊制(じょうぼうせい)が敷かれていました。
菅原道真が左遷されたころは道真自身が遣唐使を廃止したこともあり、貿易による賑わいは衰退したと思われます。
それでも道真は、この大宰府政庁を「都府楼」と唐名で呼び愛しました。
痩せても枯れても、大宰府は、やはり西の都だったのです。
榎社にやってきました。
かつては「榎寺」(えのきでら)とも呼ばれていました。
道真は大宰府に入ると、政庁から南に下ったこの場所「鴻臚南館」に押し込められたと云います。
参道を進むと、大理石の台があります。
ここには、太宰府天満宮の秋の神幸式大祭で神輿がやってきて、この上に置かれるのだと思います。
天満宮を出立した神輿は、榎社に向けて御神幸さなれるのですが、境内に到着すると、先に向かうところがあります。
本殿真裏に、見守るように鎮座する小さな祠。
ここに祀られるのは「浄妙尼」というおばあさんです。
浄妙尼は幽閉同然で、荒れ果てた南館に閉じ込められていた道真に、格子ごしに梅の枝の先に餅を刺して差し入れたという話が有名で、梅ヶ枝餅の伝承になっています。
また、時平の差し向けた刺客に道真が狙われた時、麹づくりの「もろ臼」に入れて匿ったという話もあるようです。
浄妙尼の社の隣には、道真の幼い娘「紅姫」の供養塔が建っています。
ここに建っていた朽ちた館で、惨めな生活を余儀なくされますが、幼い姉弟と浄妙尼に支えられ、儚い日々を過ごした道真。
道真は胃を害し、眠られぬ夜が続き、脚気と皮膚病にも悩まされたと云います。
しかしそれでも、道真の大宰府での日々は、安らかなものだったのではないかと思わせる穏やかな空気が、この一帯には流れていました。
榎社の鳥居の前には、線路を挟んでまっすぐに道が伸びています。
この道は政庁時代の条坊制の名残だそうです。
その先に「王城神社」というのを見つけました。
当社は事代主を祀っていますが、創始は天智天皇が大宰府を建てた時に、四王寺山に祀られていた祭神を移したものと伝わっています。
とするなら、道真の時代にはすでに当社は存在していたことになります。
天満宮にあったものとそっくりの、恵比須の彫り物があります。
道真も、偉大な先祖に日々、参拝していたのかもしれません。
CHIRICO, thanks a lot for the post.Really thank you! Much obliged.
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I am fortunate if it becomes a reference for a good trip.
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