水城:八雲ニ散ル花 番外・天智伝

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「私は、この国を滅ぼしかけた王として、歴史に名を残すであろう。」
男の顔には、深い皺が刻まれていた。

葛城皇子は息長系の34代「田代大王」(舒明)と、35代と37代の2代にわたり大王を務めることになる「宝姫」(皇極・斉明)の間に生まれた。
母の宝姫は、最初は石川臣武蔵に嫁いでいたが、田代王にむりやり離婚させられ、吾が物にされた。
姫は石川臣武蔵との間に、大海人彦を儲けていた。

628年3月、田代王が大和の大王位に就いた。
しかし民衆の人気は、新しい大王よりも上宮太子(聖徳太子)の息子「山背王」に集中した。
これを大王は激しく嫉妬した。

641年3月15日、葛城皇子は中臣鎌子と共に、軍勢を率いて「石川雄正」(蘇我蝦夷)を誅殺した。
これは石川臣家(蘇我氏)という大豪族が不意討ちにより、あっけなく亡びたことを示している。
この功績により、葛城皇子は「中大兄皇子」と呼ばれるようになる。

643年11月11日、中臣鎌子は軍勢を率い、斑鳩宮の山背大兄王を襲撃した。
危機を察した山背王は、一族ともに出雲へ逃れ、富家に匿われたと云う。
しかし古事記では蘇我入鹿が山背大兄王一家を滅ぼしたと記されている。

645年6月、宝姫・皇極女帝は、夫が法堤妃に産ませた古人皇子を吉野へ出家させ、女帝の弟・軽王を大王(孝徳)に就かせた。
大王と中大兄は謀議し、「古人皇子が謀反を企てた」という噂を広め、9月、吉野の宮にて鎌子と40人兵に古人皇子とその子を斬らせた。

649年3月、石川雄正に代って実力者となっていた「石川山田麿」が、大王に対し謀反を計画している、との噂が流れる。
これも鎌子ひきいる軍勢が追い詰め、一家共々浄土寺にて自害するに及んだ。
石川臣武蔵は、筑紫太宰府に左遷させられた。

649年10月、孝徳大王が没し、655年正月、孝徳大王の后であった間人太后は、大王就任を宣言。
旧皇極女帝・宝姫も斉明と名を変え、大王に復帰を宣言した。
ここに、「難波王朝」と「飛鳥王朝」の二王朝が並立する事態となり、間人太后の息子「有馬皇子」と斉明女帝の息子「中大兄皇子」が次期王位を争うこととなった。

658年11月3日、斉明女帝に対し陰謀を企てたとして、有間皇子が物部シビに捕らえられた。
そこへ叔父である中大兄が出てきて
「白浜温泉に行こう。私が先で待っている」
と告げ、皇子を一旦釈放した。
有間皇子が白浜に向かっていると、和歌浦を過ぎた藤白坂で中大兄が現れ、物部シビに合図をした。
有間皇子は、絶望のうちに絞首刑に処せられたと云う。

660年、百済が新羅によって滅ぼされた。
百済の残党は人質として日本に滞在していた百済王子「豊璋」の返還を求め、彼を旗頭に再び新羅に戦を仕掛けようとしていた。
斉明女帝は、これを援助すべく武器と船舶を造らせ、筑紫の朝倉宮に遷幸し戦争に備えていたが、その矢先の661年、当地にて崩御した。

663年、斉明女帝の官人を受け継いだ中大兄は「上毛野君稚子」将軍に27,000人を率いさせ、新羅征伐に向かわせた。
中大兄には負ける気がしなかった。
神功皇后の例もあるように、古来より新羅に対し大和は強気だった。

「な、なんだと」

中大兄は耳を疑った。
大和の軍勢は全滅したと、知らせが届いた。

「我が軍は白村江にて唐の軍船に攻撃を受けました。
その夜、和船の中に唐兵が油をまき、松明で火を付け、軍船400隻が燃え上がりました。
さらに翌日、少なくなった我が軍を、唐の軍船が挟み打ちに攻め、生き残った者はわずかとなり果てました。」

中大兄は腰を抜かし、恐怖した。 
百済の豊璋王は逃亡し、百済は永遠に滅亡した。

 半島はすでに唐に陥ちたのか…
 となると次は…

「城を築け」
「は?」
「城だ。全員を動員して城を築くのだ。唐に刃を向けたのだ、大和は攻め滅ぼされる。一刻も早く無数の城を築いて、これを迎え撃つのだ」
「ぜ、全員とは?」
「全員だ、全ての大和の民に、早く城を築かせろ!」

いわゆる「白村江の戦い」に和軍は大敗した。
唐の侵略を恐れた中大兄は、665年に筑前国に大野城・基肄城、長門国に長門城を築かせた。
667年に対馬国に金田城、大和国に高安城を築き、また他に肥後国に鞠智城、三野城、稲積城、備後国に茨城・常城、讃岐国に屋嶋城を築城した。

その中、664年に筑紫の最終防衛施設「水城」が築かれた。

敵に攻められやすい博多湾の沿岸にあった「那津官家」を、福岡平野の最奥地に移し、「大宰府」が誕生した。
大宰府が敵に攻め落とされれば、九州全てが敵の手に落ちることになる。
まずは筑紫で、敵を迎え撃たなければならない。
東西の山が迫り、平野部が最も狭くなる場所に、幅80m、高さ13mを越える人工の土塁を築いた。
その全長はなんと1.2kmにわたっていた。
土塁だけでは唐の大軍を押し留められない。
その博多湾側に幅60m、深さ4mの堀をつくり、川から水を流し貯えられるようにした。

これほどの水城が和軍大敗の翌年には完成され、多くの城も数年のうちに築かれた。
そこには膨大な人の、想像を絶する労力が注ぎ込まれている。
しかしそれでも、中大兄の不安はおさまらなかった。
665年、間人女帝が没したのをきっかけに、667年、中大兄は反対派の多い飛鳥京を捨て、より奥地で安全な近江国に大津京を造り、遷都した。

結局、唐は攻めてこなかった。
水城も、その真価を発揮することはなかった。
唐には唐の事情があったのである。

668年、ようやく安心できた中大兄は、即位式を行い、天智大王となった。
その時彼は42歳になっていた。

天智帝には父親の違う兄がいた。
宝姫と石川臣武蔵との間に生まれた大海人皇子である。
天智は年上で、才に長けた大海人の協力を得るため、彼を皇太兄とし、天智の4人の娘を大海人に与えた。
これは天智帝の次に、大海人皇子が大王になることを意味していた。
ところが妃が生んだ大友皇子が優秀であったので、天智帝は大友皇子に位を譲りたくなった。

669年、中臣鎌足(鎌子)が亡くなる前日に彼を内大臣に任じ、藤原の姓を与えた。

671年、大友皇子を太政大臣とした。
同年10月17日、病床の天智帝から大海人の元へ使いがやってきて、皇位を授けるので宮廷へ出向くように伝えられた。
その使いは、かねてより大海人が目をかけていた蘇賀臣安麻呂であった。
安麻呂は「用心くださいませ」と大海人に耳打ちをした。
全てを察した大海人は、
「私は出家し、帝のために功徳を修めたいと存じます。どうぞ大友皇子を皇太子となされますよう。」
そう天智帝に告げ、即座に吉野宮へと出家した。
この様子を見たある官人は、「虎に翼をつけて放したようなもの」と、つぶやいたと云う。

その10月には、藤原鎌足の三回忌があったが、天智帝は床に伏していた。
少し良くなった12月3日、仕えの者が申し上げた。

「少し遅くなりましたが、鎌足様の法事にお出かけになられてはいかがでしょうか。天気もよろしく、きっとお気分も晴れましょう」

確かに、寒空久しい晴れ間に、清々しい気分ではあった。

「馬を用意せよ」

天智は馬に跨り、数人の供をつけ、藤原邸のある山科の郷へ向かった。
なんとも健やかな日であった。
しかし帝がふたたび帰京することはなかった。
宮の者は永く山林を探したが帝は見つからず、木幡山(こはたやま)の細道に、履かれた沓だけが残されていた。

672年、大友皇子は近江京で弘文大王となったが、翌年の673年6月、壬申の乱が起きた。
これに勝利した大海人が大王となり、天武帝として即位することになる。

我が国最初の滅亡の危機という大失態を犯した天智帝は、それと裏腹に、乙巳の変の英雄として、歴史に名を刻むことになった。
そこには、不比等の見事な歴史の偽装が施されていた、と言わざるを得ない。

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さて、岡本遺跡にある「奴国の丘歴史資料館」で水城の興味深い話を伺い、その足で「水城」へとやって来ました。

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水城東門跡地には、満を持して立派な「水城館」が出来ていましたが、そこでは数分のビデオと簡単なパンフレットがあるだけで、水城の凄さを十分に伝えてはいませんでした。
多くの税金を投入しているでしょうに、残念なことです。
奴国の丘歴史資料館のボランティアのおじさんの話を聞いていなければ、水城の真価を知ることはなかったでしょう。
パンフレット類に関してはとてもわかりやすくまとめられていて、一部資料として、引用させていただきました。

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長々と記したストーリーの通り、水城は、白村江の戦いに惨敗した天智天皇が造らせた、歴史的遺跡です。

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水城館の上の展望台に登ると、巨大な水城の一端を見ることができます。

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水城が、なんだか丘のような、歴史的何かだったということは知っていましたが、大和創設以来、2度の日本侵略・滅亡の危機から守ろうとした、壮大なシステムであったとは知りませんでした。
白村江の戦い、それは日本初、存亡の大危機でした。
政敵という敵を徹底的に排除し、大王就任まで目前というその時に、天智がやらかした大失態がこの戦いです。

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6世紀中頃の朝鮮半島は「新羅」「百済」「高句麗」の三国からなっていました。
そしてその背後に、強大な「唐」が控えていたのです。
「世界の歴史まっぷ」さんから地図をお借りして来ましたが、世界を二分するほどの勢力を、当時の唐は誇っていました。

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655年、朝鮮半島北部で、かねてより対立していた唐と高句麗が戦いを始めます。
これに呼応するかのごとく南部では、百済が新羅へ侵攻しました。
窮地に陥った新羅は、唐へ救援を求めることにします。
唐は朝鮮半島全体を支配下に置くために戦争をふっかけてきていますので、これは「毒をもって毒を制す」判断だったと思われます。
一方、唐も新羅を冊封国(さくほうこく)として従属国に認めれば、高句麗・百済を攻めやすいと判断し、これに乗じました。
こうして唐・新羅軍の反撃が始まり、660年7月18日、都の扶余(ふよ)に攻め込まれた百済の義慈王(ぎじおう)は降伏します。
663年、中大兄は百済を救済すべく、27,000人の兵を送り出します。
が、たどり着いた白村江で惨敗を喫してしまうのです。

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668年、唐・新羅連合軍は高句麗も滅ぼしました。
これによって一時的に朝鮮半島は唐の支配下となります。
それは中大兄が、最も恐れた事でした。
なぜなら唐が次に攻める国は大和に他ならなかったからです。
中大兄は筑紫島・九州の政治の中枢「那津官家」を、博多湾岸から、攻められにくい今の太宰府へ移しました。
そしてその入り口に、九州の最終防衛設備として、巨大な壁「水城」を造らせたのです。

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なんだかそこにある大きな丘が、水城と呼ばれていることは知っていましたが、水城がなぜ水城と呼ばれるのかは、奴国の丘歴史資料館のボランティアのおじさんの話を聞くまで知りませんでした。
中大兄は巨大な塀を築くだけでは事足りず、その手前に大きな外濠を築かせたのです。

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有事には御笠川の堰を開き、外濠に水を流すようにしました。

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その取水口の跡が残されています。

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今はその形状をイメージすることは困難ですが、

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このような感じだったのだそうです。

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さらに驚くことに、この幅80m、高さ13m、そしてなんと1.2kmにわたる全長の人工の土塁を、中大兄は、たった1年で築かせました。

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それだけでなく山の脇道にも、同じシステムの小水城を築かせ、大野城・基肄城・長門城も2年のうちに築かせています。
さらに、筑紫が陥された後は、唐軍は瀬戸内を通って大和を攻めるだろうと、瀬戸内の至る所に城を、数年内に築きました。
これらの築城は、亡命した百済人の指揮のもとに行われたそうですが、労務に携わった人は、およそ働ける全ての和人が投入されているようで、父子家庭の子を置き去りに労務に駆りたてられた父の歌なども残されているそうです。

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ところで、太宰府の主人公といえば「菅原道真」。
水城東門跡地のそばには、菅公由来の「衣掛天満宮」がありました。

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道真公が配流された時、装束を改めるため、衣を当地の石、または松に掛けたということです。

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またすぐそばの住宅の一角に、道真公が姿を映し涙したという「姿見井」もありました。

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さて、水城は一部、道路や線路で分断されているものの、基本的にその脇を歩くことができます。

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この素晴らしい歴史的遺物は、風化せず、かなり状態良く、その姿を今に保って来たと云います。
それはなぜか?

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それは水城を築造するにあたり、並々ならない努力と根気で、土砂が積み上げられていたからです。

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水城の地層を調べてみると、一定の厚さごとに枯葉が敷き詰められていたそうです。
これは積み上げた土砂が崩れないよう、滑り止めのために敷かれたようです。

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その地層が見れる場所があるようなので行ってみました。

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「土塁断面ひろば」です!

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水城がスパッと断ち切られて、断面がむき出しになっています。
わくわく!
ん?

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なんと断面ひろばとは、「断面のパネルが断面に貼り付けられているひろば」でした、がっくし。
まあ、そうでしょうとも。

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気が利いていたのは、ペラっとしたパネルではなく、表面が本物風にデコボコしていたことでした。

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西門跡地にも向かってみました。

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が、そこは発掘跡は埋め直され、普通の丘になっています。

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この水城が再び活躍するか!という事態が日本に起こります。
1274年と1281年の2度にわたり起きた、蒙古襲来「元寇」(げんこう)です。

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アジア圏からヨーロッパ圏にまで勢力を広げたモンゴル帝国は、ついに日本へ侵攻を開始します。

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これに対馬・壱岐の島では、凄惨さを極めたそうです。
元寇は神風によって退けられたと教科書で習いましたが、確かに2度目の襲来時には巨大な台風が起きたものの、実際に元を退けたのは九州に集った武士らの奮戦によるものだと云うことです。

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今もその姿を明確に残す水城。
その歴史的価値を思えば、世界遺産に匹敵する遺跡であると言えるかもしれません。
しかし水城は世界遺産にならないのです。
なぜか?
それは白村江の戦いの時も、元寇の時も、太宰府は攻められなかったからです。
唐が大和を攻めようとした時、隷属していたはずの新羅が突然、朝鮮半島全域を領土として独立し、唐に反旗を翻したのです。
また国土が広いということは、国境を巡って領土争いが、それだけ絶えないということでもあります。
結局、唐もモンゴルも、もはや小さな島国に構っていられない事態に陥っていったのです。
活躍は幻となった水城、しかし日本が失われるかもしれない危機的事件に、2度もその活躍が期待された歴史的事実は本物です。

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東門跡地のそばに、水城の絶景を見れる場所があるというので行ってみました。

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途中で陣ノ尾1号墳という、住宅街の中の古墳がありました。

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その先の太宰府市立国分小学校の裏手に、目的の場所があります。

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白村江の戦い以降、唐との戦いで敗れ、祖国をなくした百済人たちは大和に亡命し、多くの文化を日本へ伝えました。
滋賀県蒲生郡は百済人たちが多く住み着いたところと云われています。

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中大兄は都を近江に移し、そこでようやく安心したのか、天智大王として襲名しました。
しかしその数年後に、彼は謎の失踪を遂げてしまいます。

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唐との戦いで敗れた大和国は、天武天皇の時代になって「日本」と名称を変え、政治の方針を大きく変えていきました。
日本は唐の優れた政治制度を学び、律令国家を目指すことになりました。

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以後も人は、時に愚かと思える営みを続けて来ました。
それを知ってか知らずか、この素晴らしい遺跡は人に忘れられつつも、今もその姿を堂々と見せ付けていました。

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