太宰府・紅姫供養塔

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「姉たちは家に留め置かれ、兄たちは遠くへ追われた。
今ここには、幼い姉弟だけが共にいて、いつでも語りあうことができる。
昼食の時はいつも眼前にいて、夜は同じ部屋で寝る。
暗くなれば灯りがあり、寒い時は暖かい衣がある。
昔見かけた困窮した子供は、 都で寄る辺を失くした者たちだった。
裸身で博打を打つ者を、 往来で南助と呼んでいた。
裸足で琴を弾く者を、街中では弁御と呼んでいた。
彼等の父は共に公卿にして、往時は奢(おご)っていたものだ。
昔は金を砂土のように遣っていたが、今は食事にすら窮している。
慮れば、彼らに比べ、 天はお前たちにはまだ寛恕と言えよう 。」
____

衆姉惣家留 諸兄多謫去 小男与小女 相随得相語 昼食常在前 夜宿亦同処
臨暗有燈燭 当寒有綿絮 往年見窮子 京中迷失拠 裸身博奕者 道路呼南助
徒跣弾琴者 閭巷称弁御 其父共公卿 当時幾驕倨 昔金如沙土 今飯無厭飫
思量汝於彼 被天甚寛恕

ー 「慰少男女」(幼子達を慰める)『菅家後集』

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道真が大宰府において幽閉同然に過ごしたとされる南館「榎社」、その周辺を散策してみました。
榎社のすぐ前、踏切手前には、誰もが気づかず通り過ぎてしまうであろう、謎の石碑があります。
これは「鶴の墓」と呼ばれています。

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昔、飛騨の匠が人が乗れるほど大きな、木の鶴の彫刻を作りました。
それは見事な出来で、今にも飛び立ちそうだったため、匠は鶴の背に乗ってみます。
すると不思議なことに鶴は羽を広げて飛び立ちました。
匠を乗せた鶴はそのまま西へと進み、ついに唐の国までやってきます。
興奮のまま匠を乗せた鶴は、日本に向けて帰ろうとしますが、これを怪しんだ唐の人が矢を射ます。
矢は鶴の片羽を射て壊れてしまいました。
片羽になった鶴はそれでも、なんとか日本を目指します。
太宰府あたりに差し掛かった鶴は、そこで力尽きで落ちてしまいました。
鶴の死を悲しんだ匠は、鶴のため墓を作りたいと思い、葬るために相応しい場所を村人に尋ねました。
そこで教えていただいたのが、かつて道真公が住まわれていた、榎寺のそばだったと云う話です。

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この時の鶴の片羽が、折れて落ちた海辺の津を「片羽の津」と云い、やがて「羽片の津」、「博多の津」となったと云われているそうです。
また鶴が不時着した場所は、通古賀の「鶴の屋敷」と呼ばれていたそうで、その場所は現在の小字「鶴畑」あたりだという話です。
この昔話は、「まんが日本昔ばなし」でも、「鶴の屋敷」というタイトルで取り上げられています。

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榎社から東に少し歩いた場所に、「清明の井」と呼ばれる井戸跡があります。

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その昔、安倍晴明が当地にやってきて、開いた井戸だと伝わります。
ブラタモリ2019年の正月特番でも紹介されていました。

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井戸の淵にある三角の石が水を守る神様を現していると云うこと。
どんな日照りの時でも水が涸れないといわれていて、出産時にこの水を使うと安産であると言い伝えられています。

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が、現在は残念なことに井戸は枯れ、史料にも清明が当地を訪れたと云うものは見当たらないのだそうです。

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さて、榎社の境内の一角に、小さな祠があります。

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中に女性を象ったような石碑を祀るこれは、「紅姫供養塔」と呼ばれます。
紅姫とは道真が、数いる子供達の中で、唯一大宰府に連れてくることができた、幼き姉弟の姉です。

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榎社から再び足を運ぶと、「隈麿公のお墓」があります。
この隈麿が弟です。

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時の左大臣、藤原時平の讒言によって何もかも奪われ、大宰府へ左遷を余儀なくされた道真にとって、明るさを忘れない幼子達が唯一の支えでした。
大宰府の南館での生活は不自由で苦しいものでしたが、『菅家後集』「慰少男女詩」には、道真親子が励ましあって一緒に生活していたことをうかがわせる詩が綴られています。

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道真が2人を連れて南館のまわりを散歩していると、小さな池の蛙たちが親兄弟揃ってにぎやかに鳴き声をあげていましたが、その声を聞いた道真が、離れた家族を想う歌を詠むと、池の蛙たちは道真の心を察し、鳴くのをやめたと伝えられます。

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そんな道真の心の支えだった子の一人、隈麿は、大宰府にやってきた翌年に病で命を落としました。
ここは、その隈麿の墓だと言い伝えられます。

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そこには大きな石が一つ、祀られるのみ。

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そばに咲く梅は、「六花弁の梅」と呼ばれていますが、六弁の花は見つけられませんでした。

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さらに少し歩いた、住宅街裏にひっそりとある公園にも、「紅姫供養塔」があります。

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隈麿の死後、翌年には道真自らも死を迎えます。
父という唯一の庇護を失い、たった一人残された紅姫のその後は定かではありません。

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公園の片隅で、雨風を避ける程度のブロック塀で囲われた供養塔。

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五輪(土:ア・水:バ・火:ラ・風:カ・空:キャ)を示すサンスクリット語が彫られている「五輪種字石塔」は、仏教の宇宙観を示しているそうです。

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場所は遠く離れて、篠栗、そこに「紅姫稲荷神社」があります。
住宅街の細い路地裏の丘の上に、それはありました。

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そこに伝わる縁起によると、蟄居された道真の館周辺には、絶えず藤原時平が放った刺客が徘徊していたと云います。

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道真の死後、一人きりになった紅姫、彼女は父から託された密書を携え、四国へと流された長兄「菅原高視」の許へ旅たつ決意をしました。

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幼い女の子にとって、その道はあまりに険しいものでした。
さらに藤原時平は彼女に追っ手を差し向けます。

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過酷な山越えの中、必死に隠れ逃れる紅姫。
大宰府の館から13km離れた若杉山の麓に身を潜めます。

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紅姫は若杉山頂に登り、太祖神社にも守護を祈願しましたが、願いは届かずついに刺客にみつかり、彼女は篠栗の地で非業の最期を遂げました。

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彼女の素性を知り、哀れんだ村人は当地に彼女を祀ります。

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現在は、「紅姫天王」という稲荷神として人々の暮らしを見守っているのです。

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