度津神社:常世ニ降ル花 由良朗月篇 10

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新潟県佐渡市羽茂飯岡にある佐渡国一之宮「度津神社」(わたつじんじゃ)を訪ねました。
ここに来て、空は快晴。
社前を流れる羽茂川は、過去に大規模な洪水を起こしており、それによって社殿、古文書から別当寺にいたるまでことごとく流失したため、創建の由緒は不詳であるとのことです。

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背後に聳える山は妹背山と呼ばれます。
度津神社は過去に遷座しており、元は海岸寄りに鎮座していたなど、旧社地については諸説ありはっきりしないのが現状のようです。

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佐渡国一之宮ということにおいても、古来より一宮と称して来たと言う以外に証とするものが無く、祭神も詳しくは分かっていないようです。

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現在の祭神は「五十猛命」 (いそたけるのみこと)で、「大屋津姫命」(おおやつひめのみこと)と「抓津姫命」(つまつひめのみこと)を配祀します。
この祭神および配祀を決定したのは、江戸時代初期の神道家「橘三喜」(たちばな みつよし)と言われています。
橘三喜は延宝3年(1675年)から23年かけて、全国の一宮を参拝した記録書『諸国一宮巡詣記』を著していますが、その中で壱岐島一宮の「天手長男神社」の比定においては強引な付会があったりと、同島の式内社の比定に混乱を招いた点が指摘されています。

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文化年間(1804年~1818年/11代德川家齊)に田中従太郎によって著された『佐渡志』には「又海童神ヲ祭ルトモ云ヘリ」との記述があり、明治に吉田東伍に著された『大日本地名辞書』では「土人は近世、一宮八幡と号し、神宮寺・千光寺之を司れり、隠岐国渡明神あり、此れと一類の神祇ならん」と述べています。
社名の「ワタ」は海の古語と見ることもでき、これによれば「ワタツ神社」は「海神の社」と捉えることができます。
しかし僕は、この祭神の謎を解く鍵が「佐渡」の島の名前にあると考えました。

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リアル「すずめの戸締り」こと、桑野内で鎮石(要石)を守り続けた橋本家の末裔・媛さん(仮名)は、「橋本の歴代の祭祀ができる人の名前には左・佐の漢字を入れることになっている」と言います。
これは、神を祭祀する能力を有する証として「佐」の一字を名前に付けることから、「佐」とはシャーマンたる媛巫女自体を表す文字であると考えられます。
五ヶ瀬の二上山に坐すイザナギ・イザナミの二神を祭祀をできる最後の媛巫女が、橋本の「佐」の字を名にもつ媛さんということになります。
そして僕の知るかぎりで、「佐」の文字を名にもつ最古の媛巫女が、出雲族の祖母神たる「佐比売」(幸媛)となります。
ちなみに、橋本家では「佐」の他にも、重要な役割を持つ子に「幸」の一字も付けたということです。

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これを元に考えると、「佐渡」とは「媛巫女が渡って来た島」、または「海神を祀る媛巫女の島」の意味となるのではないでしょうか。
そうして島の立地を考えると、佐渡島東端には「亀」の名を有する島々があり、その先には常世の名を意味する「粟島」があり、その先には八乙女神話のある「由良海岸」がありました。

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度津神社の西側には、能登半島の珠洲岬があります。
さらに地図を広げてみると、

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ほぼ同じ名前の渡津神社が島根隠岐島の島前・知夫里島に見えます。
また島後にもワタスの神を祀る社がちらほらと。
知夫里島の渡津神社は、現祭神を佐渡と同じ五十猛としますが、これはむしろ佐渡一之宮から逆輸入された祭神ではないかと考察します。
知夫里地元では、渡津の神は「ちぶりの神」だとされ、「道触の神」(みちぶり・みちぶれのかみ)で知夫里の名の由来もこの神にあるとされていました。

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また、渡津の神は隠岐一之宮の一社である天佐志比古神社の祭神と夫婦であったが、その後に訳あって離婚したという伝説がありました。
つまり、渡津神社の祭神は姫神であったということです。
では、その姫神の正体はというと、知夫里・渡津神社が西ノ島の由良比女神社の元宮ではないか、という説があり、『延喜式神名帳』によれば、由良比女神社は「元名 和多須神」(わたすのかみ)とあって、ワタツ・ワタスの神に通じるのです。

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渡津(度津)大神が由良媛であるとすると、苧桶に乗って海を渡る媛神が山形の由良海岸に辿り着くルートが見えて来ます。
由良媛に限らず、往古はこれが、日本海を北上するメジャーなルートであったと思われます。

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佐渡に渡って来た「佐」の神は由良媛だったのでしょうか。

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そういえば奇しくも、佐渡には由良媛と同じ、”たらい舟”というものがありました。
もっとも、佐渡のたらい舟が考案・実用化されたのは江戸時代から明治にかけてのことで、佐渡小木地震に伴う、海面の隆起とそれによる地形の複雑化がきっかけとなります。

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そもそも由良媛とは、どういった神なのか。
「ゆら」という言葉を調べると、「ゆり」(由利)と合わせて、水の動揺によって平らげた岸の平地のことであるとありました。
確かに地名で言うと、いくつかの海岸に”由良”という名が付けられています。
また『広辞苑』では「玉などが触れ合って鳴る音」を ”由良”としています。
さらに「ゆ」とは、古語で水を意味するというものもネット上にありました。

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「ゆら」で思い浮かべるのは、「十種神宝」(とくさのかんだから)の「ふるへ ゆらゆらと ふるへ」の祓詞(はらえのことば)です。
この言葉は死者をも蘇らせると俗に云われておりますが、その意味は不老長寿の水「ゆ」にあるのではないでしょうか。
つまり、ここで思うのは、由良媛の「ゆ」は”月読の神の持てる変若水(おちみず)”を表すのではないか、ということです。

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ある資料によれば、「佐渡に鎮座する371社のうち、熊野権現は46社、白山権現は46社、羽黒権現は10社を数える」とあり、北山権現、小田原権現、伊豆奈権現なども含めて考えると、佐渡は修験の影響が大きいことが窺えます。

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修験者は佐渡に、何を求めたのか。

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少々強引なこじつけにも感じますが、佐渡に渡った「佐」の媛神とは、桶に乗ったロリかわ由良himeちゃん♪
常世を識る越智の媛巫女であった、というのが五条桐彦説となるのです。

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2件のコメント 追加

  1. 不明 のアバター mstk より:

    佐渡シリーズの続記事を楽しく拝見しております。

    広い島を短期間でかなり巡られていて驚きです。

    昨年母の帰省について行った時は遠い親戚だと聞いた牛尾神社に行きました。

    ほかにも羽黒山へ修行に行っていた親戚も居たとか。

    何となく聞かされてきた記憶とリンクする本記事は興味深かったです。

    今夏、五ヶ瀬に行こうとおもいます。

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      こんにちは。
      僕の旅は毎回こんな感じなのですが、そろそろゆったりとした旅に移行したいと考えています。
      五ヶ瀬は観光化されていないので、何も知らずに訪ねると物足りなく感じるかもしれません。
      しかし背景がわかると、古い伝承のが生きた、素晴らしいところです。
      ぜひ一歩裏の世界まで、足をお運びください😊

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