
日向の國の風土記に曰はく、臼杵の郡の内、知鋪の郷。
天津彦々瓊々杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲を排けて、稜威の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。
時に、天暗冥く、夜昼別かず、人物道を失ひ、物の色別き難たかりき。
ここに、土蜘蛛、名を大鉏・小鉏と曰ふもの二人ありて、奏言ししく、「皇孫の尊、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ」とまをしき。
時に、大鉏等の奏ししが如、千穂の稲を搓みて籾と為して、投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴り、日月照り光きき。
因りて高千穂の二上の峯と曰ひき。
後の人、改めて智鋪と號く。
-『日向國風土記逸文』


宮崎の五ヶ瀬町と高千穂町の境に位置する二上山は、天孫降臨の伝承があり、その山頂付近に神社が建てられました。
ある時、参拝しやすい麓に、里宮を建てようという話になりました。
しかし山を挟んで南と北、高千穂町と五ヶ瀬町、どちらに宮を建てるべきかと話し合いがもたれました。
どっちにも建てたらいいじゃん、ってなことで結局里宮は2つに分かれました。

高千穂側に建てられた神社は「二上神社」(ふたがみじんじゃ)といいます。
高千穂の押方地区に、神社は存在します。

二上神社は里宮といえど、結構奥まった山里にあり、そこまでの道中もエキサイティングです。

そうして苦労して車を転がすと、ようやくこの鳥居に辿り着きます。

やっとの思いでたどり着いた参拝者を、圧倒的な階段が出迎えてくれます。

マジかー。

苦労して登った先には、猿のような、宇宙人のような狛犬が待っていました。

十六菊花紋をはためかせる二上神社。
当社は醍醐天皇の御代、昌泰元年(898年)に現在の地に創立されたと伝えられ、永正8年(1511年)の棟札には『天神七代の末陰陽之ニ宕 伊弉諾 伊弉冉の二神を祀り 大檀那大神朝臣兵部大輔右武 藤原左近大夫廉昌 山之伊賀守治次 十社宣命左衛門太郎乘吉大神朝臣右武建立也』とあるそうです。

祭神は「伊弉諾尊」(いざなぎのみこと)と「伊弉冉尊」(いざなみのみこと)。
二上神社には分社された別宮「中登神社」(ちゅうのぼりじんじゃ)があったそうですが、中登神社の御霊は、五ヶ瀬町内の数社を統合合併して新たに造られた三ヶ所神社へ遷されたといいます。

当社の宮司家は代々甲斐氏が担っていますが、高千穂方面の甲斐氏は菊池氏流と呼ばれ、肥後の菊池氏の庶家のうち日向高千穂に土着した国人衆で、戦国時代に阿蘇氏重臣となった家系となります。
よって家紋も阿蘇氏と同じ「違い鷹の羽」。

二上神社と五ヶ瀬側に建てられた三ヶ所神社との間には、たびたび本宮争いがあったと伝えられていますが、「歴史的に二上神社が本宮で決着している」と当社は主張します。
しかしこの二上神社から二上山山頂にある奥宮(元宮)に行く道は、あるにはあるのですが、かなり険しい林道となっています。
これに対し、昭和50年代に六峰街道が二上山に作られ、この林道を利用して三ヶ所神社から二上山奥宮には、比較的容易に行くことができます。
このことについて、「当時物議を醸した林道(六峰街道)は現在でも存在するが度々災害を引き起こし自然破壊が起きている。またその林道を利用して昭和60年代に三ヶ所神社が二上山男岳山腹に奥宮なる観光施設を建造している」と批判的な旨を、二上神社公式サイトでは掲載していました。



五ヶ瀬側の「三ヶ所神社」(さんがしょじんじゃ)にやって来ました。

アクセスが良く、参道含め、きれいに整えられています。
当社は昭和30年代に大改修が行われ、参道なども全て手作業で整備されたという話です。

伝承によると、当・三ヶ所神社は昌泰年間(平安時代)頃に創建されたといい、二上神社と同時期に里宮として当地に鎮座したと考えられます。

江戸幕府第11代将軍「徳川家斉」の時代になると、三ヶ所神社は当時の延岡藩主の篤い信仰から、豊後の宮大工棟梁”牧彦兵衛”以下15名が招かれ、後の世に伝わる見事な社殿彫刻がほどこされました。
牧彦兵衛は京都九条家出入りの名工と伝えられています。

社名がなぜ「三ヶ所」なのかというと、当地はかつて「三ヶ所村」という村名が付けられており、それが社名になったと考えられます。
佐織さんによると、五ヶ瀬は元々、桑野内と鞍岡しかなく、三ヶ所は後から付けられた地名だということでした。
なぜ三ヶ所なのかという具体的な由来は、今のところ不明です。

当社祭神は「伊弉諾尊」(イザナギノミコト)、「伊弉冉尊」(イザナミノミコト)に加え、「瓊々杵尊」(ニニギノミコト)、「猿田彦尊」(サルタヒコノミコト)、「菅原道真公」を合祀しています。

三ヶ所神社の公式サイトを確認してみると、二上神社とは対照的に、控えめな由緒となっています。
というより、あまり詳しいことが伝わっていない印象です。
昭和30年代の大改修の際、拝殿を脇によけ新たに現在の拝殿が作られました。
その折、本殿は1mほど持ち上げられ、奥にずらして新しい拝殿とのバランスが保たれています。

脇に寄せられた旧拝殿は現在「二上稲荷神社」として、今も残されていました。

本殿の彫刻は、それは見事なもので、豊後衆の心意気を感じさせます。

三ヶ所神社の本殿正面上部には、中央に「夫婦岩」の彫刻があり、両端に「海馬」の彫刻があります。

海に戯れる馬の彫刻は、海馬と呼ばれ、脳の海馬と関連付けされています。

脳の海馬は記憶に関する大切な所なので、三ヶ所神社は脳を守る一風変わったご利益があるとの評判です。

さて、二上神社側の主張としては、「歴史的に二上神社が本宮で決着している」とのことでしたが、果たしてどうなのでしょうか。
少なくとも江戸中期の頃は、延岡藩主の篤い信仰があったことが、この見事な彫刻からも窺い知れます。
そして令和6年に僕の目の前に現れた、橋本一族の末裔・佐織さん。

“歴史的に”、この三ヶ所神社は山頂の元宮の内宮として建てられ、外宮もあったとのことです。
その外宮は、一般には「桑野内神社」(くわのうちじんじゃ)だとされています。
しかし本来の外宮は、佐織さんの母系である家、お母様の鈴さん一族が古代から祭祀をしてきた場所、五ヶ瀬桑野内の「宮原の追」になります。
そこには、「二神神社」という小社が建っています。
この宮原の追や二神神社が隠されて来たのは、150年前の明治神仏分離令によるものでした。
国によって佐織さんの先祖は、鎮石を守る祭祀も、イザナギ・イザナミの二神を拝む祭祀も中止するよう命じられたのだといいます。
なぜ、佐織さんの家・橋本家は、祭祀を中止するよう命じられたのか、そこには何かしらの圧力を感じます。
一族は、イザナギ、イザナミのご神体を見つからないように社を移して奥に隠し、ダミーの社を建てて、なんとか二神と信仰を守りぬきました。

さらに“歴史的に”、桑野内の正当性を証明するものとして、応永10年(1403年)から同13年(1406年)の間に書写され、豊後玖珠郡の長野八幡に奉納された般若経六百巻があります。
この般若経六百巻という大量の般若経は、永享4年(1431年)に、桑野内二上大明神に移されました。
桑野内神社は天文6年(1537年)に宝物殿が再興され、この般若経が奉安されたといいます。
つまり室町時代にはすでに、二上大明神の外宮として桑野内の存在が認められていたことになります。

明治期の圧力により、橋本家は祭祀を禁じられますが、二上大明神の内宮たる当・三ヶ所神社の祭祀も、本来は橋本家か五ヶ瀬の興梠家が担っていたものと思われます。
そうした歴史が表面上は失われ、これほど立派な社殿が存在しているにもかかわらず、今は大きく日の目を浴びることがありません。
僕はよくある”本家争い””本宮争い”といったものに余り興味がなく、高千穂・二上神社と五ヶ瀬・三ヶ所神社もどちらとも本宮で良いじゃない、と思いますが、当社・三ヶ所神社の歴史的重要性は、知るべき人が知っておくべきであると、断言いたします。

佐織さんが勇気を持って、橋本家の存在を世に表してくれたこと、そしてnarisawa氏が橋本家の重要性を僕に気づかせてくれたこと、このお二人の流れによって、それを僕は知ることができました。



三ヶ所神社の奥宮、二上大明神の元宮へ車を走らせます。
当地へは昭和50年代に作られた六峰街道なる林道を進むわけですが、高千穂・二上神社が言うように崩れた崖などが散見され、車で走れるのですが注意が必要です。

三ヶ所神社・奥宮のあたりからは、高千穂の二上神社方面にも道はあるのですが、20年ほど前に走った記憶では、相当やばい林道だった印象です。

三ヶ所神社・奥宮は、二上山雄岳(1060m)の9合目付近に鎮座しています。

二上山は二峰の山で、夫婦の神になぞらえて、この写真の左側・丸い峰側を「雌岳」、右側・三角錐側を「雄岳」と称します。
高千穂・二上神社は雌岳の麓に鎮座し、五ヶ瀬・三ヶ所神社は雄岳の麓に鎮座しています。

鞍岡の祇園神社を調べていた際、熊本県旧清和村、蘇陽町、高千穂町の一部を「知保郷圏域」と称していたことが気になりました。

これを調べてみると、平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう/和名抄)には、日向国臼杵郡の「智保郷」(ちほごう)と、肥後国阿蘇郡の「知保郷」(ちほごう)が記されており、混乱します。
そこで大雑把な範囲を作成してみたのですが、知保郷と智保郷を含んだ広大なエリアが、太古の高千穂であったと思われ、その南の山岳信仰の中心に二上山があったものと推察されます。

『日向國風土記逸文』によれば、「知鋪(ちほ)の郷」のこととして、この二上山へ降り立つ天孫の様子が語られます。

「ニニギノミコトが天の磐座を離れ、天の八重雲を押し分けて、日向の二上の峯に天降ってきたが、ときに天は真っ暗で昼も夜も分からなかったので人や物は道を見失い、物の色も判別し難かった。その時、此処に土蜘蛛がいた。名を大鉏・小鉏と言い、ミコトに奏上した」

“土蜘蛛”とは朝廷にまつろわぬ(従わぬ)者たちを蔑んで言い表した言葉ですが、調べてみれば本来は崇高な一族であり、僕は人麿に倣って天と地を表す「土雲族」と表記することにしています。
土雲族の大鉏・小鉏と言う者が二上山にいたと『日向國風土記』は記していますが、この”鉏”は”くわ”とも”はし”とも訳されます。
つまり二上山にいたという”おおくわ””こくわ”とは桑野内の興梠家と橋本家を指していると推察され、”はし”と呼んでも、それは橋本家に通じると思われるのです。

奥宮の入口から少し登ってくると、開けた場所に出ますが、ここは遥拝所になっていました。
真の奥宮は、ここからさらに登った場所にあります。

距離的には大したことありませんが、傾斜がヤバみ。

ところで、三ヶ所神社でいただいた御朱印を見てみると、日付が平成21年になっていました。
奥宮も高千穂の二上神社もこの時参拝した写真になりますが、この数年前にも、僕は二上三社参りをしています。

佐織さんの話によれば、17年前、平成20年に2度目の災厄、岩戸開きが起きたとのことです。
図らずも僕は、その前後で二上の聖地を訪ね歩いていました。

心の折れる階段を、ヒイコラと登っていた当時の僕に、そんなことが起きていたとは知る由もなく、

されどこの断崖絶壁を、祈るように登っていたのです。

当地は「杉の越」と呼ばれた九州の要路でした。
西南の役には西郷隆盛もここを通ったと云われますが、それは二上の神に祈願するためだったのかもしれません。

ようやくたどり着いた奥宮は、岩にめり込むように建てられていました。

これが高千穂・二上神社がいうところの「昭和60年代に三ケ所神社が二上山男岳山腹に奥宮なる観光施設を建造し」たもの。

narisawa氏情報によれば、かつては真新しい登山道に外灯も整備され、夜の10時まで参拝可能だったとのこと。
確かに観光名所的な、当時はそういった一面があったのかもしれません。

しかしこの圧倒的密度を備えた磐座の前面にある”祭りの庭”は、太古からここが聖なる場所であったことを示しています。

大鉏・小鉏は言います。
「皇孫(すめみま)の尊よ、その尊い御手で稲千穂を抜いて籾とし、四方に投げ散らし給えば、必ずや天は開け、闇は晴れるでしょう」
と。
この時のニニギノミコトとは誰のことだったか。
五ヶ瀬の名の由来たる、五瀬命(いつせのみこと)ではなかったか。

尊は、大鉏たちの言う通りに千穂の稲を揉んで籾とし、それを投げ散らした。
すると、すぐに天は開けて闇は晴れ、あたり一帯に日月が照らして輝いたのである。

これによって、尊の降り立った山は高千穂の二上の峰と呼ばれ、後の人は改めて「智鋪」(ちほ)と名付けた。

narisawa110
山レコの方ですが、姫様のブログと先生の情報を合わせて最終仕上げ致しました。出来るだけ二神神社の方に人が訪れていただける様、先生の「拝殿ガラスに映る所」を引用して写真コメントを追加訂正してあります。(あ◯◯◯神社の事件は画数を一つ増やしてぼやかして追加ww)
本題に戻りますと先生のブログより、桑の内のかなりの土地は橋本家の所有でありますから、資金のかけかたに偏りが出るのはもしかしたら当然であったのかもしれませんね。
それで置き去りになった東側がブーブー言ってる感じとも取れるなと思いました。
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narisawa110
某ブログの寝坊した宇宙人高橋でございます。10日の日は石見に行く前から高速が紙一重で土砂の通行止めになる前に降りることが出来ました。
このブログでご縁賜りましたので例の霊験あらたかな十種神宝お守りを購入いたしまして、御神陵にも傘をさしながらご挨拶致しております。そのお守りと一緒に二上山登拝させて頂きました。
荒ぶる神に対し奉り、Kanako様の状態が、大難が小難に、小難が無難となります様、お祈りさせて頂きました。
このままにしておくと宜しくなさそうなので、まずは今後もありたい様に在って頂きたいと思います。
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ナリ氏宇宙人説は、3日間メシウマでした😆
しかもスーツ着て酒奉納って、正式参拝じゃないですか🤣
佐織大明神もご満悦に話されてました。
そう、Kanekoさんも師匠も、まだまだ盛り上がって欲しいと願っております。祭りかな、祭りが必要かもですね♪
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ブログでの表現、本当に楽しませていただきました😂
祭りでしょうか。うーん…
何か考えねばなりません😅
2週間後、予定通り丹後の龍宮の地へは万難排して
何としても行くつもりでおります。
常世を覗き見して、「まぁ休んでらっしゃいな」と
乙姫に言われることを期待しつつ😜
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きっと「まだ早いよ、早く帰りなさい」って言われちゃいますよ、お土産付きで😁
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エラーなので再送信です。ツンデレ乙姫のお土産は「これ食べて早く元気になるんだよ」という海産物詰め合わせセットなのまで想像できました😂 決して煙の出る箱じゃなく
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石見の地にもお越しくださったのですね。
そして十種神宝に御神陵まで..
感謝にたえません🙇♂️
先祖も間違いなく宗像-阿蘇-五ヶ瀬-日之影-日向の
ルートを豊の国の方々と辿っていると
確信を持っております。
今回、繋いでくださり、悠久の時を経て
祈りも必ずや届くものと信じております。
ありがとうございます。
そして九州南部の荒ぶり方も案じております。
霧島を囲う地域がかなり酷いことに..
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nari氏の激闘の記録です😄
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-8541943.html
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素晴らしいです!ありがとうございます。nari様の記録拝読に参ります
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narisawa110
今回は思いの強さに対して事前に何の因縁整理もせずに仕事を放り出して飛び出しましたが、何が何でもの時は、どのような事があってもたどり着ける様になっている筈だと考えおり、最初の予定に石見を入れた自分の行動には何の疑問も持ちませんでした。
そしたら宇宙人になってしまいましたがww
更に寝坊のことをS様に申し上げたところ、収束どころかなお一層ひどくなりましてwwwな・ぜ・だww
まさに荒ぶる神の本質を戦慄とともに経験いたしました。
よく考えると自分のした事がそのまま自分に返って来ているだけで、これが神を見に宿した方の威神力かと。
危うく消し飛ぶところでしたww
滅多なことは言うものではございませんな。いつも明るく元気に暮らすのが吉と思わされましたww
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宇宙人高橋様。 S媛はじめうちのY媛2名も底抜けに天然で、何が出てくるかわからないのが神々の見初めた媛たちならではかと思います💦
宇宙の摂理、神々の意思とは割と ”いい意味で” 「雑なのよ」 と聞かされました
「なるように、なるだけよ」 だそうです😂
ヤマレコの方も拝読させていただきました🙇♂️
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佐織さんのブログでも拝読しましたが、いよいよ究極点まで到達されたことと察します。
この領域は知るべき人が知る、それに尽きるかと思います。
少しホッとしたような☺️ またある意味の寂しさも感じています。
新しい時代に向けて動き出してゆく。遠くからそっと、見ていたいです。
今まで、本当にありがとうございました。
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おそれ入ります。
究極点と呼ぶには、まだまだ力量不足の感を否めません。
ただ一通り、出向くべきところには出向けたかと思っています。
秋ごろには弓削宮司にもご挨拶をしたいと考えておりますが、kanekoさんも無理のないよう、お過ごしください。
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