椎葉厳島神社:常世ニ降ル花 天之高原篇 12

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「もうこの辺りで良いのではないですか」
「いや、ここ鞍岡は古くから人に知られていて危険だ。この先の山を越えれば、追っ手もやっては来まい。もう少しだ、行くぞ」

奢れるものは久しからず。
世の栄華を極めた平氏であったが、元暦2年(1185年)3月24日、関門海峡の壇ノ浦でついに源氏に追い詰められた。
敗北を悟った平氏の武将、女官らは次々に船から海へと身を投じ、幼き天皇・安徳と二位尼も三種の神器とともに入水した。
この戦いを最後に平氏は滅亡した、といわれている。

しかし九州島の中心、宮崎の深い山中に、道なき道を逃げゆく、平家の残党がいた。
源氏が掲げる白旗を恐れ、ようやくたどりついた場所が椎葉であった。
そこは幾重にも連なる山々に囲まれた、およそ人の知らぬ場所だった。
椎原に流れ着いた平氏の一行は集落を作り、田畑を耕し、なんとか生活を続けていた。
ありがたいことに、椎葉の里では清らかな水が至る所で湧き出しており、彼らは命を繋ぐことができたのだ。

ところが、この隠れ里の存在が、源氏の総大将・頼朝の耳に届いた。
頼朝は、那須与一宗高にこの平氏追討を命じたが、与一はこの時、病を患っていた。
代わりに弟の那須大八郎宗久が追討に向かうことになった。

険しい道を越え、わずかな情報を頼りにやっとの思いでたどり着いた椎葉の村。
だがそこには、かつて栄華を馳せた都人の面影はなく、ひっそりと田畑を耕し暮らす、ただの農民の姿しかなかった。

「なんと、これが平家一門の姿だというのか」

那須大八郎宗久は、これを哀れに思い、平氏追討を断念。幕府には偽って、討伐を果たした旨を報告したのだった。

普通であれば、ここで鎌倉に戻るところであろうが、大八郎はなぜか椎葉の村に屋敷を構え、そこで暮らすようになった。
大八郎は少しずつ椎葉の民と交流を深め、一緒になって田畑を耕し、共に汗を流して日々の生活を送った。

「皆の衆、実は相談がある。儂が住んでおるこの屋敷の敷地に、平家の守り神であった厳島のお社を建てようと思うのだが、どうだろうか」

おお、と平氏の落ち人らはこの言葉に感激し、中には涙する者もおり、皆、大八郎に感謝の言葉を述べた。
そうして椎葉の村の小高い丘の上に、雅な赤い厳島神社が建設されることになった。
それを眺めていた大八郎の隣には、平清盛の末裔である鶴富姫がいた。

一年ほど前の、大八郎が椎葉に屋敷を構えたころのことだった、源氏のさむらいが残るということで、落ち人の代表として彼女が話し合いにやってきた。

「大八郎様、なにゆえあなた様は都へ戻らず、このような山村に残るというのですか」
「お鶴どの、儂とそなたらは源氏と平氏、敵同士じゃ。実際に儂は、そなたらを討ち取るよう命を受けてきた。しかしどうであろう、これほど都から山海越えた場所で、刀を鍬に持ち替えて生きるそなたらを見て、儂には戦う理由がのうなってしもうた。椎葉の民がいつしか平家を再興し、源氏に仇を為すというのであれば話は違うが、もはやそのような野心も見えてはおらぬ。そうするとな、お鶴どの、武家であることを捨てて生きるそなたらが、厳しい環境で暮らしておる姿が、なぜか幸せそうに儂には見えたのじゃ。そのことが不思議で、儂も刀を鍬に持ち替えて、ここで生きてみとうなったのじゃ」
「そうはおっしゃいますが、源氏のあなた様がここに残ることで、密かに都に連絡を送り、源氏の大軍を呼び寄せるのではないかと皆不安になっております」
「なるほど、その不安は確かである。しかしそれは、儂がここを立ち去り、都に戻っても同じこと。大軍を連れて再び参るかも知れぬぞ。それであればどうだろうか、お鶴どのは、儂が怪しい素ぶりを見せぬか、傍で見張ってみてはどうか。儂が怪しいと思えたなら、この刀で儂を斬れば良い」

大八郎が鶴富姫に渡した刀は、名刀・天国丸と呼ばれる業物であった。

それからというもの、大八郎の様子を鶴富姫は監視していたが、彼の熱心な姿に、姫は少しずつ心を許すようになっていった。
二人が恋仲となるのに、時はかからなかった。

~庭の山椒の木 鳴る鈴かけて
鈴の鳴るときゃ出ておじゃれ
鈴の鳴るときゃ何というて出ましょ
駒に水くりょというて出ましょ~

大八郎と鶴富姫は逢瀬を重ね、それを村人たちは見守って、優しくも平和な日々が続いた。

ある時、幕府から伝令の者が大八郎の元へとやってきた。
渡された紙には、「すぐに兵をまとめて帰れ」と書かれてあった。

「お鶴、儂は行かねばならぬ。儂がこのまま椎葉に残り続ければ、殿は怪しみ、また兵を差し向ける恐れがある。かといって、平家の姫であるおぬしを連れて行くこともできぬ。すまぬ」
「大八郎様、されど私のお腹には・・・」

このとき鶴富姫はすでに、大八郎の子を身ごもっていたのであった。

「愛しいお鶴よ、預けていた天国丸は儂の代わりに、そのままそなたに。生まれた子が男子なら我が故郷下野の国へ、女子ならこの地で育てよ」

そう言い付けて、那須大八郎宗久は、椎葉を後にしたのであった。

~和様平家の公達流れ
おどま追討の那須の末よ
那須の大八鶴富おいて
椎葉立つときゃ目に涙よ~

やがて十月が過ぎ、鶴富姫の元に生まれたのは、かわいい女子であった。
姫は大八郎の面影を抱きながら、娘をいつくしみ育てた。
娘は後に婿を迎え、その婿には那須下野守と、鶴富姫は愛する人の名を名乗らせたのであった。

-『椎葉山由来記』『椎葉山根元記』より

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11年ぶりに「椎葉村」(しいばそん)にやってきました。

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「椎葉厳島神社」(しいばいつくしまじんじゃ)は、宮崎県東臼杵郡椎葉村の下福良集落の中央小丘上に鎮座しており、創建には平家の落武者伝説が関係しているといいます。

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まあまあな傾斜の階段を登ります。

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参道途中のお稲荷さんに萌え。

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階段はさらに続きます。
なぜこんな山の中に海の厳島神社があるのか、というと、壇ノ浦の戦いに破れた平氏の残党が山間の僻地であった当地へ逃れて隠れ住み、元久元年(1204年)に一門の氏神である安芸国厳島社を勧請したのだと、社伝に記されているそうです。

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また、境内の由緒案内には、平氏残党追討の命を受けて当地へ下った那須大八郎宗久が、椎葉の山中で暮らす平氏の姿を深く憐れみ、安芸厳島社から勧請したという当地の伝承を載せています。

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祭神は「市杵島姫命」と「素盞男命」。
安芸の厳島に祀られるのは宗像三女神であり、スサノオはおりませんので、この組み合わせは徐福と市杵島の夫婦を彷彿とさせます。

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こちらは11年前に撮った写真。ほぼ変わっていません。

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当社は明治以前までは「厳島大明神」と称されていたそうですが、明治4年(1871年)に現社名に改称、明治6年に39の集落が合併されて現椎葉村が出来た関係で、各集落に鎮座していた神社が合祀されました。

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椎葉厳島神社は隣の那須家住宅(なすけじゅうたく)と共に、椎葉村観光の目玉であり、椎葉の「平家落人伝説」のハイライトでもあります。

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普通の観光客はこの界隈を散策し、椎葉村を知った気になって帰っていきます。
実際に11年前の僕も、そうでした。

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椎葉厳島神社と那須家住宅の間には、「鶴富姫の化粧水」と呼ばれる湧水もあり、とてもロマンを感じます。

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那須大八郎宗久と鶴富姫の伝説は、まるで和製『ロミオとジュリエット』のような趣があるのです。

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「那須家住宅」(なすけじゅうたく)は、椎葉厳島神社の隣、高い石垣の上にあります。

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那須大八郎宗久が住んだというこの屋敷は、歴史的建造物として国の重要文化財に指定され、一般的には「鶴富屋敷」の名前で呼ばれています。

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ただし、建物としては江戸時代後期の文政年間(1818年 – 1829年)の建築と推定されています。

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もとは茅葺きでしたが、昭和38年(1963年)に銅板に替えられました。

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椎葉村に伝わる平家落人伝説では、おおよそ冒頭で記した内容で、平家追討の命を受けた「那須大八郎宗久」と平家の女「鶴富姫」のラブロマンスが語られます。
これは、村内に伝存する貴重な文献である『椎葉山由来記』と『椎葉山根元記』に記載されています。
明暦2年(1656年)直後に書かれたとされる2編は、平家落人伝承にはじまり、獺野原合戦、鷹巣山指定、向山十三人衆の乱とその鎮定のための上使派遣、相良氏の椎葉山支配などへと続き、全体の構成は『根元記』も『由来記』もほぼ共通しているとのことです。

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異なるのは表現で、『根元記』が原史料を忠実に利用しようとしているため固く稚拙な印象があり、対する『由来記』はくだけた物語風に展開されているそうです。
幕府以前の椎葉村のおもかげをのぞかせるのは、この2書のみであるとのことで、謎深い椎葉を知る上では、貴重な資料となっています。

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椎葉地方で古くから稗を臼に入れ杵で搗(つ)く時に歌われた「ひえつき節」(稗搗節)にも、那須大八郎と鶴富姫のロマンスが盛り込まれて、全国的に人気を博しました。
こうして椎葉の人々に愛され続ける二人の恋物語ですが、はてさて、それが史実であったかというと難しい話となります。

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那須大八郎宗久は、弓の名手として有名な那須宗高(与一)の弟とされますが、実際には元久元年(1204年)に平家追討の宣旨が出されてはいても、その追捕使が彼であったという記録は無く、椎葉の伝説にのみ残る人物である、ということです。
また『椎葉山由来記』の記載によると、元久2年に椎葉に入り、3年間滞在したとなっていますが、椎葉を去ったとされる貞応元年は17年後であり、矛盾が生じます。

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そもそも、大八郎と共に追討に来た家来はどこへ行ったのでしょうか。
皆が大八郎に共感し、共に椎葉に残ったのか、それとも都へ戻ったのか、いずれにせよ、いろいろとおかしな点が出てきます。
ただ、椎葉村には実際に那須姓の家が非常に多く、戦国時代に椎葉を治めた国人・那須氏は、大八郎と鶴富姫の子孫とされていました。

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「那須家住宅」の隅の方に「鶴富姫の墓」があるというので、探してみました。

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覗いてみると、お墓っぽいのがたくさんあって、どれのことか分かりません。

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ネットで調べてみると、どうやらこの中央の五輪等のようなものが、それのようです。
鶴富姫の墓は、11年前の椎葉村訪問時には存在を認知できていませんでした。

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今回、たまたま、椎葉村に椎茸栽培の研修に来ているというA氏とご縁があり、鶴富姫の墓のことも気になるので、では椎葉村に1泊で出掛けてみようということになりました。
・・・そこから僕の椎葉沼が始まったのです。

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2件のコメント 追加

  1. Tomi Kaneko のアバター Tomi Kaneko より:

    宮崎県の最秘境、椎葉村。初めて行ったのは平成初期の事でしたが、変わらない、変わりようのない地に惹かれます。
    前回旅館鶴富屋敷に泊まりましたが、馬見原から南下するのと、三ヶ所神社-七ツ山-諸塚経由ではまた雰囲気も違い
    耳川の上流側・下流側それぞれ面白いですね。さてこの先どちらへ🤭

    いいね: 2人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      奥へ奥へと進んでまいります😌

      いいね: 1人

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