
一ツ瀬川と小川川との合流域の対岸、児湯郡西米良村大字越野尾に鎮座する「兒原稲荷神社」(こばるいなりじんじゃ/児原)を訪ねました。

この兒原稲荷神社は、イワナガ姫終焉の地とされる小川川上流域・米良神社の入口を守るように鎮座しています。

標高400mの当地は、昭和38年に一ツ瀬ダムが完成し、ダム湖の湖畔となりました。

当社は初めに「木花咲耶姫命」、「彦火火出見命」、「大山祇命」を奉斎した神社でしたが、天正5年(1577年)に伊東義祐が島津氏との戦に敗れ、豊後に落ちるに際し、伊東家・伊豆稲荷の祭祀を当社祠の甲斐重祐に依頼し、兵火の中より御神霊を壺中に収めて持ち帰り、「倉稲魂命」「太田命」「大宮姫命」を合祀し、以後「小春稲荷神社」と称したといいます。

なるほど、謂れはさておき、「児原稲荷神社は、剣柄稲荷神社の一族と同族です」とB氏の言う通り、祭神が似ています。

豊臣秀吉に仕えた義祐の子、祐兵は、天正15年(1587年)の九州の役に参戦し、島津勢が降ってからは飫肥(おび)の初代藩主となりました。
祐兵は当社の例大祭に、豊後落ちの恩義を忘れず、飫肥名産の蜜柑を毎年名代をつかわし奉献したといわれます。

風情ある竹林の参道、

その横に、墓石がたくさん並んだ一角がありました。

そこにある甲斐家の墓。
幕末、当社の祠官であった甲斐右膳・大蔵の父子は、尊皇運動の先頭に立ち、文久3年の討幕運動の失敗で肥後人吉藩に捕らえられ、元治元年に父子相次いで獄死しました。

このため明治維新に際して社号を消滅させられましたが、明治15年に現社名を称するようになった経緯があります。

しばし階段を登ると、

開けた境内に出ます。
太陽が眩しい。

当社家は、剣柄稲荷神社の一族と同族だと言うのですが、太田命を祀っているあたり三輪系だということでしょうか。
由緒によれば、伊東家・伊豆稲荷の祭神として、「倉稲魂命」「太田命」「大宮姫命」の三柱があった、ということになります。

近年化粧直しされたと思われる、狛犬さんたち。

ちょっと、シーサーみたいですかね。

当社は甲斐家の聖地として、「木花咲耶姫命」「彦火火出見命」「大山祇命」を祀っていたといいます。
それがなぜ、稲荷なのか。

社殿正面の装飾は、天明5年(1785年)の社殿修復の際に作られたものであり、木彫りの龍はなかなか見事です。

B氏によれば、「稲荷神社は田中大神が元の神で三輪氏」だとのことですが、島根・佐太神社の田仲社は、コノハナサクヤ姫とイワナガ姫が祭神でした。

稲荷=田中神=イワナガ・コノハナサクヤ=三輪氏、と言うことでしょうか?
う~ん、ワカンナイ。。

当社では11月最後の週に例大祭が行われ、そこで「越野尾神楽」が奉納されます。
越野尾神楽は、銀鏡(しろみ)で門外不出とされていたものを、八重(はえ)の住人・弥吉(やきち)が禁を破って持ち帰り、伝承したと云われています。
昭和初期に二軒橋で鍛冶屋を営んでいた濱砂徳次郎(はますなとくじろう)が、兒原稲荷神社の祭典に楽を入れる事を提案し、八重に師事する運びとなり、楽だけでは物足りないと、昭和6年に神楽も習い、現在の越野尾神楽の形となっているとのことです。
越野尾って「越智」っぽいと、つい考えてしまいます。

兒原稲荷神社はこれまで存在を知りませんでしたが、訪ねてみるとなかなか立派な神社です。

彫刻も見事なのですが、これは鯉が龍に成ったところでしょうか。

そしてやがて飛龍になる、と言いたいのかもしれません。



ニニギに拒まれたイワナガ姫が、鏡に映った自分の容貌を嘆き、五十鈴川(一ツ瀬川)を遡り、途中右手の小川川(おがわがわ)をさらに上って、失意のうちに辿り着いた場所が米良(めら)の山里でした。

そこはひっそりとした、穏やかな場所でした。

イワナガ姫はここで稲作などをして暮らし、「ヨネヨシ、ヨネヨシ」と喜んだことから、この地方を「米良」と呼ぶようになったと云われています。

しかし姫は、晩年に老いた体の不自由さを嘆き、あるいは病を患ったとも、やはり己の醜さに絶望したともいい、小川川の淵に身を投げて命を落としたと伝えられます。

憐れんだ村人は「神山」(かみやま)に姫の亡骸を葬り、祀るために建てたのが「米良神社」(めらじんじゃ)だと云うことです。

当社祭神は「大山祇命」(おおやまつみのみこと)と「磐長姫命」(いわながひめのみこと)。

本殿の背後には、小川川を挟んで、イワナガ姫の御陵とされる神山があります。
神山は磐長姫の怒りをさけるため女人禁制とされています。

米良神社には神宝として、イワナガ姫のものと伝えられる白髪があったそうですが、元禄16年(1703年)の洪水で失われたそうです。

小川川上流には「龍淵」(へびぶち)と呼ばれる滝があり、『米良の上漆』(めらのじょううるし)という話が伝えられ、”まんが日本昔ばなし”でも『龍の淵』として取り上げられていました。

そのむかし、米良の里に住んでいた漆とりの兄弟の話です。
この昔話は当地で漆が採れていたことを表していますが、漆部、漆間、さらには神門美良姫にも繋がるのかもしれません。

木材の腐食を防ぐ漆もまた、水銀と同じように変若水(おちみず)の原料となったのではないか。
イワナガ姫とは不死の象徴で、変若水の巫女だったのではないかと想像します。
彼女はむしろ、魅惑の麗人であったのだろうと思われます。
しかし、時として荒れ狂う一ツ瀬川の水神を鎮めるために、人身御供となった娘が、米良の里にもいたのかもしれません。
毎年12月第2土曜~日曜にかけて神楽殿に奉納される国指定重要無形民俗文化財の「小川神楽」では、祭神であるイワナガ姫が登場し、美しい女面をつけて華麗に舞うのだということです。
