景行12年7月、熊襲が背いて貢ぎ物を差し出さなかったので、帝は筑紫に下り、その年の11月、日向に入り、高屋に行宮を建て、住まいとした。
宮崎県宮崎市村角町に鎮座の「高屋神社」を訪ねました。
参道の入口には、一ノ鳥居の代わりに夫婦の楠が聳えています。
当地はイザナギが禊をしたと云う「江田神社」のそばにあり、ほのかに潮の気配があります。
境内にはたくさんの石碑が立てられていて、多くが猿田彦と彫られています。
導きの神としてメジャー神ではありますが、当地と出雲の関連はあるのか。
これなどは、いかにもサイノカミとしてのサルタ彦を思わせます。
由緒によると、創建は古老の伝えるところによれば、107代後陽成天皇慶長16年(1611年)社殿改造の棟木あり、また仁明天皇嘉祥2年(849年)当宮の祠官となった旧社家の系図があることから、その古いことがうかがえるとのこと。
さらに、当社西方の小高い処は彦火々出見命の山陵と言い伝え、「日本書紀」にいう「日向の高屋の小陵に葬る」とあるのは当地であると伝えられています。
また景行天皇が6年間滞在した高屋行宮址との伝承も。
このことは「日向五郡八院旧元集」に、「景行天皇が十一月日向の国に到り行宮を起こしてここに居たまう。これを高屋宮という。武内宿祢、彦火々出見命の山陵を知り、そこで御鎮座を定めた。これが村角高屋八幡宮である。」と書かれている、といいます。
祭神は「彦火々出見命」(ひこほほでみのみこと)、「豊玉姫命」(とよたまひめのみこと)、「景行天皇」(けいこうてんのう)の三柱。
社殿の奥に彦火々出見命の山陵と伝えられる小高い土盛りがありました。
富家の伝承によれば、彦火々出見(彦穂屋出見)は饒速日・徐福と市杵島姫の息子であるとされ、物部家始祖と伝えられます。
彼がこのような場所に葬られているでしょうか。
初期の物部王国の拠点は筑後平野であり、あの吉野ヶ里一帯となります。
日向入りした物部族の有力者としてはイニエ王(崇神帝)がいますが、彼の陵墓としては規模が小さいと感じます。
これは物部よりも古くから当地を支配していた、宇佐・豊族の戸畔(とべ)の墓であると思われます。
「日向五郡八院舊元集」には「武内宿祢が、ヒコホホデミノミコトの山陵と知り、ここに御鎮座を定めた。これが村角高屋八幡宮である」と書かれているそうですが、この武内宿祢とは武内襲津彦のことでしょうか。彼が物部イニエ王に取り入るために、そのように話を作ったのかもしれません。
本殿の方を見てみると、何か注意書きがされています。
本殿の彫刻は見事な龍とうさぎ。
そしてなんと、満珠・干珠が彫刻されているとのこと。
見ると、おお、確かに宝珠が彫られています。
反対側の波型にはありませんので、あれひとつで満珠と干珠を表しているようです。
この龍とうさぎ、そして宝珠の彫刻は、当地が宇佐・豊王国の支配域であったことを今に伝えているのでしょうか。
とても興味深く思いました。
国富町本庄犬熊の住宅街に「日吉神社」が鎮座します。
地名の犬熊について、次のような伝承がありました。
「昔、黒山に老熊いて人を食う。景行天皇巡幸のとき、これを聞き、弓矢で一本山に射た。また、射ようとした時、弓が三つに折れてしまった。老熊が天皇に襲いかかろうとした。その時、白い犬が現われ、老熊をかみ殺した。それで、その三つ折れの弓を、そこに埋めた。三弓原の名の由来である」
また案内板では景行帝ではなく彦火火出見の話として書かれていました。
彼は危機を知らせた猟犬を誤って射殺したとあります。
熊とは熊襲のことか。熊襲は本来物部側の一族でしたが、彼らの裏切りを知らせた家臣を狼藉者と打ち殺したと云うことでしょうか。
同じく国富町の本庄に、「剣柄稲荷神社」(けんのつかいなりじんじゃ)が鎮座します。
住宅街にありながら、なかなか雰囲気ある神社です。
祭神は「彦稲飯命」(ひこいなもちのみこと)、「玉依姫命」(たまよりひめのみこと)、「神倭磐余彦命」(かみやまといわれひこのみこと)。
この神社は古墳の上に建てられているようです。
鎮祭は12代景行天皇の12年11月、または同天皇の32年11月ともいわれ、昔から崇敬の念が厚く、古い由緒が想像できます。
当社は日本武尊が熊襲梟師を刺したる短刀を埋蔵したる塚とも、また日本武尊が剣玉の誓いをなせし時の剣の柄を納めたものとも云われています。
富家によれば、ヤマトタケルの九州西征は景行帝のそれをモデルとした創作であるとされます。
であれば、当地に剣を埋葬したのは景行帝であったか。
祭神の彦稲飯とは第一次物部東征で進軍した物部兄弟の「稲飯」 のこと。彼の名が祭神として祀られるのは珍しいです。
そして気になるのが玉依姫、彼女は豊王家の血縁であると考えられます。
実はこの古墳は、当地で景行帝に嫁いだ「御刀媛」(みはかしひめ)の古墳であるとも伝えられています。
では御刀媛を玉依姫と見たてて当地に祀っているのでしょうか。
ここが御刀媛の出身地であったのでしょうか。
彼女が豊家の血族である可能性が見えてきました。
ところでこんな案内板もありました。
探してみましたが、
ああ、ありました。
○| ̄|_
西都市大字岩爪に「岩爪神社」が鎮座します。
参道入口に月形の石を発見。
梵字が刻まれていますが、崩壊寸前。
祭神はイザナギ・イザナミの夫婦神。
日本武がこの地より紀州の大権現に対し戦勝祈願をされた聖地と云われています。
同じく西都市岩爪に鎮座する「高屋神社」、ここも熊襲征伐のため日向に来た景行帝が、六年間滞在した「高屋宮」の跡と伝わります。
高屋とは鷹谷であったと云われています。この高=鷹は物部の祖母神、徐福の母・高木の神に因むものと思われます。
ここでは、すごく荒れた石段を登ることになりました。
大分竹田で屈強な土雲族を征伐した景行帝の一行は、ここに高屋宮を作り滞在したとあります。
景行はここで、日向に美人と聞こえの高い「御刀媛」(みはかしひめ)を召して、妃とし、日向国造の始祖とされる豊国別(とよくにわけ)皇子を儲けたとされます。
不思議なのは景行帝はここに6年の間、滞在したとされることです。
熊襲討伐の目的であったとされますが、大和を放置して九州征伐に来ているのに、呑気なことです。
これを富氏は次のように紐解いておられました。
大和に物部政権を打ち立てたイクメ大君(垂仁帝)は奴隷制などを持ち込んだために、大和の豪族に人気がなかったのだといいます。
それで物部王朝2代目の景行は大和を追われ、播磨の地を都としていました。
息子の小碓はそれゆえに、ヤマトタケルと呼ぶのではなくハリマタケルと呼ぶのが正しいと氏は述べます。
ハリマタケルはエミシ征伐のため東征の旅に出ますが、常陸国で敵に敗れ絶命します。彼の遺品が祀られたのが香取神宮だそうです。
景行帝はハリマタケルの死を知ると、やむなく自ら物部勢の旧支配地、九州に遠征します。
通常、大君ともなれば大和を離れるはずもなく、遠征は臣下に下すものです。しかし物部王朝に付き従う豪族は少なかったため、帝自らが将軍のように遠征に出かけたのです。
なぜ彼は九州に向かったか。
それは物部の旧支配地であったので、彼の勢力を増大させる目的があったのだと思われます。しかしそこでは同胞であったはずの土雲族の反乱に遭った。
彼らは偉大な女王の後継者に対する、物部族の裏切りを許すことはできなかったのです。
しかし物部族特有の残忍さが、景行帝の軍勢を強大なものとしました。
土雲の本家とも言える竹田の一族をことごとく滅ぼした景行帝は、宮崎に至り、物部イニエ王(崇神帝)の王国・西都にて自らの王国としたのではないでしょうか。
そこで平定の証として、土雲族(豊族)の見目麗しき御刀媛を妃として差し出させ、自らの血を受けた皇子を日向国造とさせたのです。
景行帝と熊襲・土雲との争いの伝承はこの後の筑後平野から佐賀方面にかけても語られていますが、おそらく当地が景行帝の旅の終着点だったのではないかと思われます。
後の争いは、景行帝の臣下によるものか、彼の後継者による者だった可能性が高いです。
景行帝は年齢的にも勢力的にも衰え、ついに大和に戻ることはできなくなったのだと富氏の話です。
「大和は 国のまほろば たたなづく 青がき 山ごもれる 大和し 麗し」
非道なまでに多くの血を流してきた孤高の帝王、彼は最後に何を思ったか。
景行帝は九州で亡くなり、西都原の地に葬られ、その墳墓は西都原古墳群の男狭穂塚であるそうです。
また、横の女狭穂塚は、その妃の御刀媛の墓であると。
景行は、大和に帰れずに終わることを恥じていました。それで自分の墓を、大和から逃亡した狭穂彦の塚に見せかけて、そのように呼ばせたそうです。
男狭穂塚古墳の前方部は、後の時代につくられたものであり、もとは円墳に近い帆立貝式の古墳であったと考えられています。
前方部は、当時は生き埋めの場所でしたが、景行は自分の墓にそのような場所を造らせなかった。
それは、物部の当主として、評判の悪い生き埋めをやめさせる規範を最後に示したのかもしれません。
Beautiful photos of Takaya Shrine and excellent description! Well shared thank you 💕🎉👍
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I am always grateful for your visit😊
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My pleasure.☺🌹💓
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