香取神宮:八雲ニ散ル花 東ノ国篇 11

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御子がその太刀を手にすると、熊野の荒ぶる神は、瘴気を含む空気とともに、一閃のもと斬り伏せられた。
昏倒した兵士たちもこれを機に意識を回復して行く。

「高倉下よ、この太刀はただの太刀ではない。いったい其方はどのようにしてこれを手に入れたのだ。」

高倉下は畏まって申し上げた。

「はい、まず私の夢に、天照大神と高木神が現れになり、御子様がお苦しみの様をご覧になっておられました。
二柱の神はかつて葦原中国を平定なされた武甕槌神をお呼びになり、再び天下るよう申されましたところ、
武甕槌神はご自身が平定に使った太刀を降ろすので、それを御子様に届けるよう、私めに託されました。
私は目が覚めて蔵に入ってみると、本当に太刀がございましたので、ここにお持ちいたしました。
その太刀の名は、『布都御魂剣』と申します。」

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茨城の「鹿島神宮」から千葉の「香取神宮」へ向う途中、「式年神幸祭御駐輦所」(しきねんじんこうさいごちゅうれんしょ)の看板が目にとまりました。
香取神宮では、式年神幸祭が12年に1度行われています。
この祭は、御祭神の「経津主神」による東国平定の様子を模したものと云われています。

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祭事は神輿を中心とした神幸列が神宮を発し、利根川を御座船で渡り、次いで鹿島神宮に至ります。
さらに利根川を遡って佐原河口に上陸したのち、御旅所で一宿、翌日市内を巡り、神宮へ陸路を還御するといったものです。
駐輦の「輦」とは「天子の乗り物」を意味し、ここで神輿が休まれたのだと思われます。

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さて、早朝の門前町を歩き抜けると、

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香取神宮の境内が見えて来ます。

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香取神宮は鹿島神宮とともに東国三社の一社と数えられ、また、両社ともに宮中の「四方拝」(しほうはい)で遥拝される一社です。

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四方拝とは、宮中で行われる一年最初の儀式で、元日の早朝に天皇が伊勢神宮の皇大神宮・豊受大神宮の両宮に向かって拝礼した後、続いて四方の諸神を拝します。
四方の諸神とは、天神地祇、「神武天皇陵」、先帝三代の各山陵、武蔵国一宮の「氷川神社」、山城国一宮の「賀茂別雷神社」と「賀茂御祖神社」、「石清水八幡宮」、「熱田神宮」、常陸国一宮の「鹿島神宮」、下総国一宮の「香取神宮」となっています。

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境内にある護国神社を過ぎて、

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稲荷社の「押手神社」の前には、

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「要石」(かなめいし)があります。

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鹿島神宮の要石と対を成していて、同じような伝承が伝わっています。

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地上に出ている部分は本体のほんの先端で、地中部分は巨大なのだと云います。
どのくらい巨大かというと、香取神宮の凸形の要石と、鹿島神宮の凹形の要石は地中でつながっていて、地震を引き起こす大ナマズの頭を押さえつけているそうです。

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ここが、太古から続く信仰の源であり、香取神宮の「心の御柱」となります。

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楼門へやってきました。

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香取神宮の御祭神は「経津主神」(ふつぬしのかみ)です。

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国産み神話でイザナギがカグツチを斬った剣は「十握剣」(とつかのつるぎ)と呼ばれていますが、その「鐔」(つば)から武甕槌神の祖が生まれ、「鋒」(さき)から経津主神の祖が生まれたことになっています。

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イザナギがカグツチを斬った際、剣から滴るカグツチの血が岩群を染め、そこに「磐裂神」(いわさくのかみ)「根裂神」(ねさくのかみ)が生まれました。
その二人の子の「磐筒男神」(いわつつのおのかみ)「磐筒女神」(いわつつのめのかみ)が経津主を生んだと伝わります。

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武甕槌と経津主、この二柱の神の一番の登場シーンは出雲における葦原中国平定の場面になりますが、日本書紀では経津主神は武甕槌神と共に出雲へ派遣され、大国主命と国譲りの交渉を行ないます。
しかし「古事記」ではそこに、経津主神の名は出て来ません。

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日本書紀では、「高木神」(高皇産霊)が、誰を葦原中国平定のために遣わしたらよいか諸々の神に尋ねます。
そして、一同が経津主神を推挙したところ、武甕槌神が「私では不足か!」と異議を唱え、結局、武甕槌神を経津主神に添えて平定に向かわせることになります。

ところが、古事記では「天照大神」が誰を遣わしたらよいか「思金神」(おもいかねのかみ)と諸々の神に尋ねると、一同は武甕槌神(建御雷之男神・たけみかづちのおのかみ)を推挙し、「天鳥船神」(あめのとりふねのかみ)を添えて遣わせます。

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これはちょっと興味深い話で、日本書紀では、「物部」の神である経津主が正使、武甕槌は副使として顔を出しますが、
古事記では、武甕槌神が正使で、「海家」の神、天鳥船が副使となっています。

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そして経津主も天鳥船も二度渡来した「徐福」とともに日本に移り住んだ、支那秦国の渡来人が信仰した神となります。

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経津主神を祀る、立派な拝殿が見えて来ました。
経津(ふつ・布都・韴霊・賦都)の名の由来は、刀剣の鋭い様を表した言葉であると云われていて、武甕槌神が所有し、後に神武天皇に渡ったと記紀が伝える神剣の名が「韴霊剣」(ふつのみたまのつるぎ)で「フツ」の名を冠していることから、葦原中国平定を成した聖剣こそが経津主神の御魂であるという説もあります。

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この経津主の正体について、富氏は次のように語ります。
「物部族の祖・徐福は、「徐市」という名前も持っており、それで物部家は先祖・徐市の霊魂を「普都の御魂」や「普都大神」と呼んでいた。
それで当地で亡くなったハリマタケルを祖先にちなんで普都大神の名で香取神宮に祀られた」と。

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このハリマタケルとは記紀神話に見えるヤマトタケルのことですが、彼は播磨で生まれ、生涯大和に足を入れることはなかったので、ハリマタケルと呼ぶのが相応しいのだそうです。

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景行帝から東国遠征を命じられたハリマタケルは、まず尾張国で兵を集め、尾張国造の建稲種を味方につけます。
彼は尾張国造の屋敷に招かれ数日を過ごした時に、建稲種の妹・宮主姫と結ばれました。
宮主姫は子を宿し、その子孫が後の熱田神宮の神官・田島家となります。

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ハリマタケル勢は東国勢を従えながら、さらに東へと進んで行きますが、その途上の常陸国・稲敷郡(霞ヶ浦付近)で、先住民のアイヌ族の聖地・貝塚を踏み荒らしました。
アイヌ族は食料を与えてくれる貝に感謝し、熊送りのイヨマンテのように、貝塚で感謝の祈りを捧げる習慣を持っていましたが、それに対し物部家の祖・徐福はユダヤ人の子孫と云われており、ユダヤ人は貝を食べないという禁忌がありました。
この宗教観の違いが悲劇を生みます。
聖地を穢されたアイヌ族は怒り、ハリマタケルに毒矢を射ました。
これが命中して彼は命を落とすことになります。

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『常陸国風土記』の信太郡に次のような記事があります。
「碓井から西に高来の里がある。古老の言うには、天地の初め、草木までが言葉を語っていた時に、天から普都大神が降ってきた。大神は葦原の中つ国を巡行されて、山河の荒ぶる神どもを平定された。大神は神たちを説き終えて、天に帰ろうと思われた。その時、身につけておられた武器の甲、文、楯、剣と、手につけておられた玉のすべてを脱ぎ捨てこの地に留め置き、自雲に乗って天に昇り帰って行かれた。…古老の言うには、ヤマトタケルノ天皇が海辺を巡行されて、乗浜に行き至った」
この文では、普都大神の記事のあとにハリマタケルの話が続き、普都大神がハリマタケルであることをほのめかしています。

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高来の里は今は「竹来」という地名に変わり、そこに普都大神を祭神とする二の宮「阿爾神社」が鎮座しています。
その社は、普都大神が身につけていた物をことごとく脱いだ地と地元では言われており、楯脱の小字も残っているのだといいます。

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香取神宮の古来の祭祀氏族は、経津主神の子の「苗益命」(なえますのみこと、天苗加命)を始祖とする、「香取連」(かとりのむらじ)一族であったと伝えられます。
後に養子に入った大中臣氏によって香取大禰宜を担われるようになり、やがて藤原氏の氏神となっていったようです。

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境内には経津主神の親神である「磐筒男神」「磐筒女神」を祀る匝瑳神社(そうさじんじゃ)も鎮座していました。

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境内右端には源頼義の祈願により三又に分かれたといわれる「三本杉」があり、

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真中の杉が空洞になっています。

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空洞の中にすっぽりと入ることができますが、ここに立つと、高揚するような不思議な気分になります。

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楼門横には老木のスダジイがありますが、ここにはかつて13m超の大杉があったそうです。
徳川光圀公が「宮地の数多の杉の母であろう」と言って「木母杉」と名付けました。

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祈祷殿は昭和の大修築まで拝殿として使用されていたものを、移築しています。
経年の趣が素晴らしい神気を放っています。

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その奥にお水取りができる場所がありましたが、その横の道が気になりました。

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崩れかけた、細い道をぐいぐい降りて行くと、

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鳥居がありました。

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その先にあったのは「狐座山神社」。

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秘境の空気がビリビリ来ます。

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ひっそりと立つ社。

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命婦の神を祀っているようなので稲荷なのでしょうが、香取神宮のパンフレットなどにもここは記されていません。
元は古い地主神がここに祀られていたのかもしれません。

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さて、香取神宮にも鹿島神宮と同じく「奥宮」があるというので尋ねてみます。

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一旦境内を出て、歩いて行くと、剣聖の何某かの墓がありました。

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香取神道流の始祖の墓だそうです。
剣の神だけに納得です。

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そして奥宮が見えて来ました。

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静かで、爽やかな風が吹く、聖地です。

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社殿は、伊勢神宮式年遷宮の古材を使用たものと云います。

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経津主神の荒魂を祀っていますが、剣神ともなると荒魂とはいえ、鋭い日本刀の切っ先のようにピンと張りつめ、
静かにそこに佇んでいるように感じました。

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最後に「津宮鳥居河岸」(つのみやとりいがし)へ尋ねてみました。
利根川に面して立つ、香取神宮の一の鳥居です。

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経津主神はここから上陸したと云われています。

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『常陸国風土記』の香島郡に、次の記事があります。
「年ごとの7月に、津の宮に舟を造って奉納する。
…ヤマトタケルノ天皇の御世、天の大神(普都の御魂=ハリマタケル)が中臣の臣狭山命(おみさやまのみこと)に「いま舟で仕えまつれ」と言われた。
その命が答えて「命令を謹んで聞きました。命令通りに造って差し上げます」と申し上げた。
夜が明けて、その大神が「おまえの舟は、海の中に置いた」と言われた。船主が海に行って見ると、その舟は岡の上にあった。
また「おまえの舟を岡の上に置いた」とのお告げがあったので、船主が見に行ったら、今度は海の中にあった。
このようなことが2、3度以上あった。そこで恐れ敬い、新しく長さ2丈の舟を3隻造って、さらに津の宮に奉納した」
これはつまり、信太郡で亡くなったハリマタケルが、舟で香取の岸に上がりたい、と示した話であったようです。

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これはここに津の宮を造らせて、ハリマタケルの御魂や遺品を数回にわたって運ばせたことが、伝説になったものと思われます。
後世に当地、古宮の津の宮から、現本宮の香取神宮に御魂が遷座されたのでしょう。

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12年に1度行行われる「式年神幸祭」は、普都の御魂が御輿に乗せられ、本宮からこの津の宮に向かい進みます。
この時、氏子たちは祭神の甲冑などの武具や衣装を捧げもって行列するのだそうです。

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津の宮から御輿は御座舟に乗せられ、利根川を逆上っていきます。
途中でハリマタケルの家臣であった中臣氏ゆかりの鹿島神宮の奉迎を受け、佐原川を経てからは陸路で本宮に帰っていきます。
この祭りは、志なかばで戦死したハリマタケルの霊を慰めるために行われているものと考えられます。
彼が上陸を望んだ津の宮は、今は穏やかな風景が広がるばかりでした。

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