氷川神社:八雲ニ散ル花 東ノ国篇07

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さいたま市大宮に鎮座する「氷川神社」(ひかわじんじゃ)、武蔵国一宮と称される当社は、宮中の四方拝で遥拝される一社でもあります。

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駐車場からはすぐに三の鳥居に出ましたが、参道入口の一の鳥居からは長い長い参道が続いています。

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武蔵国一宮ゆえでしょうか、戦艦武蔵の碑がありました。

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この武蔵国一宮の認定については諸説あるようで、東京都多摩市の「小野神社」が一宮で氷川神社は三宮であるとも云われています。

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しかしながら当社は東京都・埼玉県近辺に約280社ある氷川神社の総本社であり、明治元年(1868年)10月17日に明治天皇が当社を武蔵国の鎮守・勅祭の社と定めたことからも、一宮としての風格は十分に備えているものと認識します。

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氷川神社といえば、祭神は「須佐之男命」(スサノオノミコト)。
祇園社に並ぶ、スサノオを祀る有名な神社群となります。

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では当地は秦氏が祀った神社なのでしょうか。

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社伝によれば、5代「孝昭天皇」3年4月の創建と記されています。
また『国造本紀』によると、初代无邪志(むざし)国造の「兄多毛比命」が13代「成務天皇」の時代に出雲族をひきつれてこの地に移住し、祖神を祀って当社を奉崇したと記します。
この一帯は出雲族が開拓した地であり、无邪志国造は出雲国造と同族とされ、「氷川」は出雲の「簸川」(ひかわ)に由来するという説もあるのだとか。

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境内社に「天津神社」がありますが、祭神は「少彦名命」となっています。
通常スクナヒコは国津神として祀られることが多いのですが、ここでは天津神とされているのでしょうか。

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工事のため水が抜かれた神池に浮かぶのは「宗像神社」(むなかたじんじゃ)。

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「多起理比売命」「市寸島比売命」「田寸津比売命」の宗像三女神を祀っています。

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参道を進み、雅な赤い橋を渡ると楼門が見えてきます。

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当社を「大いなる宮居」と称えたことが「大宮」の地名の由来と云います。

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まさに大宮の名に恥じない風格。

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明治天皇は明治3年(1870年)にも再度親拝され、昭和天皇も皇太子時代の大正6年(1917年)と、天皇に即位した昭和9年(1934年)に親拝、昭和42年(1967年)にはご夫妻で参拝されています。
今上天皇も皇太子時代の昭和38年(1963年)に参拝され、昭和62年(1987年)と天皇に即位した平成5年(1993年)にご夫妻で親拝されています。

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祭神は「須佐之男命」のほか、 「稲田姫命」(イナダヒメノミコト)、「大己貴命」(オオナムチノミコト)。

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つまり夫婦と子の三柱を祀っているということなのでしょうが、もちろんそれは記紀での設定。
実際はスサノオと稲田姫は夫婦でもありませんし、スサノオとオオナムチは親子ではありません。

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ところで初代无邪志(むざし)国造と云われる「兄多毛比命」、彼は物部家である可能性が高いと思われます。
13代「成務天皇」とは物部・大和王朝の3代目にあたります。
すでに出雲王国は終わりを迎え、出雲族は物部王朝に属している時代です。
『国造本紀』が記す通り、兄多毛比命が当地にやってきて、物部の祖神スサノオをここに祀ってもおかしい話ではありません。

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しかし境内社の「門客人神社」(もんきゃくじんじゃ)、今は稲田姫の両親「足摩乳命」「手摩乳命」が祀られていますが、この社は元々「荒脛巾神社」(あらはばきじんじゃ)と呼ばれていたという面白い情報を得ました。

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アラハバキは氷川神社の地主神であると伝えられ、当地先住の神がアラハバキとみられていると云うのです。

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アラハバキは謎の神とされ、蝦夷族の土地神ではないかというのが一般的な解釈ですが、古代出雲王国「富王家」の話ではアラハバキは大彦らが東北方面に敗走した際、出雲の幸神(サイノカミ)を祀ったものであると伝えています。

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であれば、社伝の孝昭帝の時代は早すぎますが、その後の御代に、東方へ逃れた大彦・ヌナカワワケらの一行が幸神を祀ったのが、当社の創建になるのではないでしょうか。

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他にも、日本武尊が東征の際に負傷し、夢枕に現れた老人の教え通りに当社へ詣でると立てるようになったのが「足立」の由来であるとか、平貞盛が平将門の乱において戦勝を祈願し見事乱を平定したとか、源頼朝が社殿を再建させ、社領3000貫と神馬神剣を寄進したなど、様々な話が伝えられています。

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本殿の裏手に、「蛇の池」なる聖地があるというので行ってみました。

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「蛇の池」は氷川神社の起源と伝えられており、数年前までは禁足地だったそうです。

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しばらく歩くと見えてきました。

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綺麗に整備された湧き水の池です。
今でも地中から水が湧き出ているそうで、この神秘的な水があったからこそ当社が鎮座したと伝えられています。

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蛇神信仰も出雲族の特徴の一つ。
出雲の血を引いたヌナカワワケらがここで、幸神を祀ったのかもしれません。

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蛇の池そばには、ご丁寧に「御神水」に触れられる別スペースも設けられていました。

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最後に長い参道を逆行し、二の鳥居まで向かいます。

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そこに飛び地境内として「菅原道真」公が祀られていました。

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道真公も出雲の血を引く人物と伝わっています。

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あとは参道沿いにあった「氷川だんご」が気になったので食べてみました。
甘くないタイプのしょうゆみたらしで、ぺろりいただきました。

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