「ついにマズいやつがやって来たか」
暗雲に包まれる出雲の空を見上げ、オオクニヌシはこぼした。
見れば、荒れる稲佐の浜に、三柱の神の姿が、雷光の影となって映っている。
中心の男は剣の柄を波に立たせ、その切っ先に胡座で坐している。
「葦原中国の王よ聞け、この国は我が御子が治めるべきだと天照大御神は仰せである。そなたの意向はどうか」
空気を轟かせ声が響く。
声の主は雷神にして剣の神、天津神最凶と謳われる高天原の武神「タケミカヅチ」であった。
この日僕は、千葉の舞浜を早朝4時に飛び出し、車を借りて茨城県の鹿島へ向かっていました。
たどり着いたのは大波が打ち寄せる「明石海岸」。
そこに一つの鳥居があります。
鹿島の神は海からやって来て、まず最初に通るのがこの鳥居だと云います。
冬至のときの日の出の方を向くこの鳥居は、これから目指す「鹿島神宮」の「東一の鳥居」と呼ばれている鳥居です。
東一の鳥居から、鹿島神宮神門、本殿、そして香取神宮本殿まで、直線上にきれいに並ぶように配置されているそうです。
東日本大震災の時でも倒れることのなかった鳥居ですが、手前の堤防は強化されたようで、背の高い堤防からちょこんと顔を出す鳥居はその景観が少し残念なようで、またちょっと可愛くも見えてしまうそんな感じです。
ここは、大彦の子「ヌナカワワケ」らがたどり着き、住み着いた場所で、「常陸国」(日立ちの国)と呼ばれました。
それは「太陽の昇る国」の意味であり、「常陸国風土記逸文」には、鹿島の西方の「信太群の地は本、日高見(ひだかみ)国なり」と記されています。
東一の鳥居のあるこの明石海岸は、「すべての始まりの地」とも呼ばれ、「人生のターニングポイント」としてのご利益あるパワースポットと言われています。
東国三社のひとつ、「鹿島神宮」へやって来ました。
この大鳥居は、かつては石造りだったそうですが、先の東日本大震災で倒壊してしまいました。
今は木製で再建されています。
鳥居をくぐると、すぐに楼門が見えて来ました。
手水舎で身を清めていると、横に道があるのを見つけました。
その先が、もうすでに神秘的な雰囲気を醸し出しています。
そこは右に
左に末社が立ち並んでいますが、
中央に摂社二社の遥拝所が設けられています。
わざわざ摂社の遥拝所があるということは、その二社は重要な社であるということです。
この「沼尾神社」と「坂戸神社」も訪ねてみましたが、それがとんでもないところだったのは後の話で。
朱塗りの立派な楼門をくぐります。
楼門の足元には、切り株に雷があしらわれた物が祀られています。
それはここに祀られる神が「雷神」だからでしょう。
楼門の先にはすぐ本殿がありますが、その前に拝殿前に鎮座する摂社「高房社」を参拝します。
古来より本社参拝の前に高房社に参るのがしきたりのようです。
御祭神は「武葉槌神」(たけはづちのかみ)で、武甕槌・経津主では服従しなかった「星神香々背男」(ほしのかがせお)を征服した神とされています。
別名を「倭文神」(しとりのかみ)とも呼ばれ、映画「君の名は」で出てくる宮水神社で祀られているのがこの神です。
武葉槌と香々背男のエピソードは謎を多く含みますが、それぞれを祀る聖地が出雲から伯耆国に点在しており、海部系統の人物でありながら出雲王国に傾倒した人物たちだったのではないだろうか、と推察しています。
鹿島神宮本社です。
御祭神の「武甕槌神」(たけみかづちのかみ)は武神で、雷神であり、剣の神と伝えられています。
大和朝廷の頃、同じく武神で剣の神である香取神宮祭神「経津主神」(ふつぬしのかみ)と合わせて、エミシ討伐の際に祭祀されたとあります。
なので通常は東か南を向く社殿が多い中、鹿島神宮の社殿は北を向いていて、エミシに睨みを利かせているのだと云われています。
しかし調べていると、当神宮はむしろ、エミシを見守るように建立されているのではないか、と僕は考えるようになりました。
そこには大彦らの子孫の、消された歴史があったのです。
武甕槌の威光が最も現れるのは、出雲神話に伝わる「葦原中国平定」(あしはらのなかつくにへいてい)、いわゆる「国譲り」のシーンです。
高天原のアマテラスは、下界を覗き見て、「葦原中国を統治すべきは、我々天津神の子孫でなくてはらならい」と言い出します。
そこで幾柱かの神に、葦原中国を治めるオオクニヌシの元へ向かわせようとしますが、
「天忍穂耳命」(あめのおしほみみ)は天の浮橋から下界を覗き、「葦原中国は大変騒がしく、手に負えない」とこれを拒否します。
「天菩比命」(あめのほひ)はオオクニヌシに服従し、三年たっても高天原に戻りません。
「天若日子」(あめのわかひこ)はオオクニヌシの娘「下照比賣」(したてるひめ)と結婚し、八年たっても高天原に戻りません。
困り果てたアマテラスを始めとする天津神の面々は、ついに最終手段に出ます。
そこで葦原中国平定に選ばれた三柱の神が「武甕槌」と「経津主」、それに「天鳥船」(あめのとりふね)でした。
しかしこれは例によって、記紀による創作された神話です。
真実のタケミカヅチを、追ってみたいと思います。
鹿島神宮本殿裏手には「鏡石」という霊石があるそうです。
丸い鏡のような石が地面から覗いているということで、一般に拝することはできないようです。
また同じく本殿裏には大きな御神木が姿を見せていました。
それはまるで、心の御柱のようです。
本社からその先に、鎮守の杜(ちんじゅのもり)が続いています。
杜は深く霊気を放ち、
国家「君が代」に詠われる「さざれ石」があり、
その横には「鹿園」がありました。
武甕槌の元へアマテラスの命令を伝えに来た神は「天迦久神」(あめのかぐのかみ)という鹿の神霊でした。
故に鹿島神宮の使いは鹿となっています。
鹿島神宮の武甕槌は、藤原氏によって奈良の春日大社に分霊されますが、その際も鹿が運び手を担ったことから、両社では鹿を神使として大切に保護されています。
ちなみに「鹿島アントラーズ」のアントラーは鹿の枝角のことです。
物部勢に敗北した大彦、いわゆるナガスネヒコは「越国」北陸へと敗走しました。
大彦の息子ヌナカワワケは伊豆へ退却していきますが、この時、摂津三島の人々は大彦の王家を守るために同行し、伊豆半島の入口に三島の町を造った
と云います。
ここで大彦らは「安倍(阿部)」の姓を名乗りますので、大彦系ヌナカワワケの王国は以後、「安倍王国」と呼ぶのが相応しいでしょう。
物部勢は更に執拗に、安倍王国の征服に向かい、焼津や日本平の戦いなどで勝ち進みます。
安倍勢は船で房総半島に渡って北上し、鹿島を都とし、そこに鹿島神宮を建て、「雷」(出雲竜神の化神)を祀りました。
そしてその国を「常陸国」としたのです。
鹿島神宮の祭神、タケミカヅチについて、その実在の人物と思われる名を、「登美家」の家系図に思いがけず見つけてしまいました。
富家の伝承を語る斎木雲州著の『出雲と大和のあけぼの』巻末に、その図はあります。
それによると、事代主の長男「クシヒカタ」の孫に、「健瓮槌」の名がありました。
斎木雲州氏は、この健瓮槌について言及していませんが、大彦は登美家出身であることに強い誇りを持っていましたので、その子ヌナカワワケが鹿島に、先祖の名で雷神を祀ったというのは十分にあり得ることでしょう。
もしそうなら、一般に常陸の鹿島神宮のタケミカヅチは藤原氏の祖神と考えられていますが、実際は登美家の祖神であるということになります。
藤原氏は海家・神八井耳の子孫「多氏」(太氏)の分家ですが、登美家の血も濃く受け継いでいると考えられます。
鹿島神宮の深い杜の奥には、「奥宮」(おくのみや)が鎮座していました。
ここには武甕槌神の「荒魂」が祀られていると云います。
本殿の前に立つと、厳かで、重い空気が伸し掛かります。
やがて睦前や睦中へ宮殿を移した安部王国は、国名を「日高見国」と称し、その後、「日之元津国」や、「日本之(ひのもとの)国」と名乗りました。
「旧唐書」の「倭国日本国の条」に次の記事があります。
「日本国は倭国の別種なり。その国は日の辺にある故に、日本を名とする。倭国はその名が上品でないと自ら嫌い、改めて日本に変えた。あるいは言う。日本は古くは小国で、倭国と並立していた」
つまり当時、日本国と大和国は別であったことを示しています。
そして「日本国」は、安倍王国が先に使ったものでした。
さて、杜は尚も深く続いています。
その行き着く先に、「要石」(かなめいし)という霊石が鎮座しています。
要石は武甕槌の御座であり、地震を起こす鯰の頭を抑えていると古くから伝えられています。
徳川光圀は、要石がどこまで深く埋まっているか確かめようと、7日7晩にわたって掘らせたそうですが、
いつまで経っても辿り着くことはできず、怪我人が続出したため掘ることを諦めたという話が、「黄門仁徳録」に記されています。
鹿島神宮と縁の深い香取神宮にも、似た要石があり、この二つの石は地下で繋がっていると云われています。
鹿島・香取の両神がこの要石でなまずの頭を釘のように打ち付け、動けなくしているので、この地方では地震は起きるが大きな被害はないと伝えられています。
香取神宮の要石は凸の形の石ですが、鹿島神宮の要石は中央が凹んだ形をしています。
またこの要石は高千穂神社から贈られたものだという話もありますが、地中に深く埋まるこの石が、他所から運ばれたというのはちょっと無理があるように思います。
しかし、古代の日本の聖地を結ぶ「レイライン」は、高千穂神社の「鎮石」(しずめいし)から鹿島神宮の要石までが直線上に結ばれ、その間に「皇居」や「明治神宮」「富士山」「伊勢神宮」などが綺麗に並んでいて、このレイライン上を夏至の日に太陽が通るのだと云われているそうです。
高千穂神社の鎮石も、確かに要石によく似ています。
鹿島神宮ではこの要石は、伊勢神宮などでいう「心の御柱」的存在であるとしています。
参道を要石で折り返して道を行くと、ひっそりと祀られる石を杜の中に見つけました。
どこにも説明がないので何が祀られているのか不明ですが、とても神秘的でした。
鹿島神宮の「御手洗」(みたらし)へとやってきました。
そこは神代に一夜にして湧水したという霊泉です。
干ばつでも決して涸れない、大人でも子供でも入ったら水面が胸の辺りにくる、と云われています。
あまりに清らかな、その湧水は、昔の禊場でした。
今でも年始の大寒の禊行の際に、200名ほどの人々が寒さの中池に入り、祝詞を唱えます。
支那国では、異民族を蔑称で呼ぶ風習があり、東に住む野蛮人を東夷と呼んでいました。
記紀は、それを真似て、敗走した大彦を「長髄彦」と呼び、その勢力を「蝦夷」(エミシ)と呼びました。
大彦は越後を通って信濃に移住し、布施で亡くなったと伝えられています。
その地には「布制神社」(長野市)が建てられ、大彦の墓も造られているそうです。
出雲王国に傾倒していた安倍一族は、サイノカミ信仰の主神「クナト大神」にちなんで、自分たちの勢力地を「クナトの国」と呼んでいたそうです。
その言葉がやがて「クナ国」となり、北陸地方から東海地方までを指してそう呼ばれました。
クナ王国では、銅鐸祭祀が尊重され、祭りに鏡は使われませんでした。
神獣鏡は物部好みの道教の道具だとして、安倍一族は嫌ったと云うことです。
伝承によると、安倍王国には、アイヌ代表も加わっていたと云います。
ということは、安倍王国=日本国は、北海道や樺太も領土にしていたことになるようです。
青森県の東北町に東北の蛮族を征伐した「坂上田村麻呂」が彫ったとされる「日本中央の碑」(にほんちゅうおうのいしぶみ)という謎の石碑がありますが、
これは安倍王国の王「安倍致東」が残したものだと云うのが真相です。
本州の外れに、なぜ日本中央の碑があるのか、大いに謎とされていますが、安倍王国でいうところの日本国が東北から北海道に至っていたのなら、まさしくそこは日本の中央であったということになります。
つまり「日本」という国名は、東北・安倍王国が名乗った後に、大和王国が勝手に名を使った、ということらしいです。
東北地方を領国とした安倍王は、都を津軽半島に定め、出雲と同じ竜神木信仰「アラハバキ」の信仰を広めました。
王国各地より、代表が祭りに参列し、祭壇には「目閉じ女神像」が立てて拝まれました。
御手洗のそばに、ひときわ大きな切り株がありました。
これは参道入口の、大鳥居再建の際に切り出されたものだそうです。
御手洗の奥には、大国主を祀る「大国社」があり、そこはまた特別な雰囲気のあるところでした。
安倍王家の一部は奥六群に中心を移しますが、そこに源氏の軍勢が進出し、政府の指示なしに私闘を繰り広げます。
それがいわゆる「前九年合戦」です。
これに敗れた安倍王家は領土を狭め、鎌倉時代には名を「安東」と称するようになります。
やがて安東氏は鎌倉時代後期に北条執権政府の支配下に入ったので、古代から続いた安倍王国はこの時、終了したと言えます。
文永と弘安年間の二回、蒙古軍船の大襲来がありました。
この蒙古襲来は神風が吹いて、敵船は全滅したと歴史に記されています。
しかし、実際は執権政府の要求に応えて、津軽の安東水軍らが海上で懸命なゲリラ戦を繰り広げ、蒙古船を追い払った、と伝える古老がいるそうです。
重油を樽に入れ積んだ安東船は、夜陰にまぎれて蒙古船に近づき、重油をつけた松明に火をつけて敵船に投げいれ、多くの敵船を燃やしたと古老は云います。
また、前九年合戦で敗れた「安倍宗任」は肥前松浦に移って「松浦」姓を名乗り、一族は「松浦党」という水軍(海賊)となりました。
かれらも蒙古軍船撃退のために活躍したそうです。
しかし時の鎌倉幕府は、彼らに恩賞を与えることを嫌い、安東水軍の活躍を無視し、神風神話が生まれたということのようです。
松浦党の一部の人は古代先祖の地「出雲」へ移住したそうですが、その人らが長門に移り住み、今の総理大臣の家系へと繋がるのかどうかは、与り知らぬところです。
ただ、大和の皇子「大彦」の子孫であり日本の名門である「安倍」家は、時の政権から異民族ではないのに蝦夷扱いされ、出雲王国と同様に、勝者の歴史「正史」から、葬られたのです。
ところで鹿島神宮の境内では、社叢を注意深く散策すると、ハートに見える枝が幾つか見られるそうです。
鹿島神宮、東一の鳥居の反対方向に、西の一の鳥居があります。
かつては東西南北、それぞれに一の鳥居があったそうですが、今は東西にその姿を残しています。
北の鳥居は消失し、南の鳥居は息栖神社の一の鳥居が兼用しているそうです。
海面に浮かぶ朱色の鳥居は、今は平和になった我国を、静かに眺めているようでした。
長野県は田舎なので地名の残存率は意外に高い気がしています。
そして志賀高原
諏方地籍の四賀
松本市に合併された古い遺跡を持つ四賀村
しが、とは安曇に近い地名ではなく、もっと別の物の様な気がします。
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先日ご案内した安曇関係のファンの方?のホームページ
http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16255664.html
このHPの一番上の図って何気に凄いよなとここ数日感心するばかりの日々です。
律令時代までの海部がおかれた場所、なか群の位置が書かれています。
つまりミカヅチ、鹿、の移動ルートのようにも思えるわけです。
おそらく、雷大臣、スサノオ、磯良、イトテ同一論=安曇王家で持って行きたい方向の方もこの図を参照する様です。
しかし、出雲伝承を知る我々には、これぞ集大成と言った図になるかと思います。
建南方が、諏方に入ります。しかし、出雲伝承だと直ぐに移転し、関東方面に向かったらしいと。
関東方面には国譲り伝承があり、香取、鹿島、寒川の3社でそれぞれの陣地があったとまで伝わります。(物部、出雲、八井耳?)
諏方神長官家の3代に守屋の次男が入り、不自然な代数、ホヒ家と同じ80代の守矢家になります。
金刺氏には系図にスサノオが入り、記紀成立後の可能性として「後年に」諏方に入ったとします。(上諏訪駅近くの温泉寺あたりにその伝承あり)
守屋の系譜のは、スサノオが無く、ミナカタのみ。そして、系図があり、さもタテミナカタが祭祀を奪ったかのように解釈されます。
しかし、系図は母系、父系で都合よく操作ができ、海部家を見れば分かります。(尾張系、母系の物部系の2つを用意)
つまり、守屋家の系図は、「南方が子種だけ残して拠点を移した」としても成立する書き方なのです。
千鹿頭神は、追い出された(都々古別神社)という伝承がありますが、実は諏訪神社が近くにあったり、御射山神事(鹿)を持ってたりします。敵対している様には見えないのです。
私は南方が、千鹿頭神と一緒に土地の開拓に向かったと最近では考えています。
都々古別神社のすぐ南は、関東出雲国造家の領域で、珍彦?から来たのかは知りませんが宇都宮があり、すぐ近くに鹿沼があります。
・タテミナカタに触発されて、千鹿頭神が「上州」を経て(男体山:鉄のサナギ)関東方面へ。これでタテミナカタ系が、アイヌの領域に展開された事になります。(つまり、関東方面には古くから広範囲に鹿の神が居た)
・第一次物部東征で、安倍(息子のヌナガワワケ)が関東方面に到着。遅れて新潟の大彦系、布施や高橋が諏方まで展開。事代主系と、村雲系が接触
・第二次物部東征で出雲軍が東海から関東まで進出。トヨ彦を追い出す。最終的に都々古別神社のあたりから上州までが関連する地域になる。
その後、竹葉瀬君が大王就任
ここで出雲系が「豊家」の恨みを買ってない事が重要で、すくなくとも上州→清水峠、越智から大和へのルートが成立するには、「出雲兵の豊国追い出しのための戦い」が重要になってきます。
おそらくですが、千鹿頭とミナカタが、事代主の血を持ち出し、手打ちか何かにして受け入れたのではないかと。
もしくは、反体制に堕ちた事で協力関係になろうと、出雲はすぐに支配下に置くための懐柔に動いたのかもしれません。
そして、記紀成立までに中津臣と、鎌足の親の八井耳系が鹿島に拠点を確立。
そうすると、九州、関東に同時に権力を持っていた図式が成り立ちます。
ここで、鹿島さんの登場。
つまり、鹿の神が春日へ行ったのなら、「九州の志賀島、鹿の神はどうなるのか」という事になります。
私は、雷大臣が中臣であることから、後年に安曇の領域に到達したと考えています。
出雲の倍歴の名残か、山誉め祀り(何故安曇の領域で山を褒めるのか)は、春と秋に行われ、海があるのに御射山祭の様な狩りの神事が行われます。
私たちは今まで安曇を極大化して理解していたのかもしれません。
金印と安曇を直接結びつけるものは実はありませんし、すぐ近くは安倍の領域。
八井耳系と、安倍系なら、安曇の領域に、「雷と鹿」をもってこれるのです。
・・・どうでしょうか?
五條先生の安曇=豊家の分家説から何かが一気に流れ出してきてる気がするのです。
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神功皇后の二韓征伐の際、雷大臣(中臣烏賊津連)は対馬に残ったとありますから、中臣と安曇が習合していったことは想像できますね。広義での安曇とは、豊と中臣・阿部の連合なのかもしれません。
福岡には春日市、春日原などの地名があり、そこに鎮座の春日神社の創祀は、奈良の春日大社と同じ年なのだそうです。古文書などは島津が焼いたので、詳しい経緯などはわからないそうですが。
楠について、そういえば宇佐神宮の本殿前に立派な楠の御神木がありました。ただ樹齢は300年ほどだったと思います。
大分には玖珠という地名があり、そこにはユグドラシル的な大楠の伝承があります。その大楠が切り倒された跡が伐株山として伝えられます。
立花山にも行ってきました。改めて散策してみたら、面白いことをいくつか発見しましたよ。
近々記事をアップします!
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