橿原神宮:八雲ニ散ル花 番外

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筑紫・物部政権「ナギサタケ」王の御子に、「五瀬」(イツセ)がいた。
彼は紀元1世紀頃には、筑秦国の指導者であった。
五瀬は、弟「三毛野」(ミケヌ)や「稲飯」(イナヒ)と協議し、物部王国の遷都計画を立て、好機をねらっていた。

ついに五瀬は大和地方へ進軍することを決め、165年(後漢の恒帝治世)、船団を組み、まずは南九州へ向けて有明海を出航した。

五瀬らは肥後国に停泊し、球磨川流域で多数の屈強で若い兵士を集めた。
彼らは「久米ノ子」と呼ばれ、森林を走りまわっていたので、白兵戦が上手であったと云う。

五瀬の船団はさらに南に進み、薩摩半島を越え、四国西南端の足摺岬を通り過ぎ、土佐国の南岸を進んだ。
記紀の神武東征は瀬戸内海を通ったという記述があるが、もし物部軍の大軍船が瀬戸内海を通ったならば、当時瀬戸内海領域に勢力を広げていた、フトニ大王率いる吉備軍の総攻撃を受けるのは必至であった。

五瀬らは四国南岸をはるばる迂回し、いよいよ紀伊国上陸作戦の日を迎えた。
船団は淡路島の南岸沿いから紀ノ川をさかのぼり、南から大和ヘ入る計画であった。
しかし一行が上陸すると、名草村の戸畔(トベ / 女性首長)が率いる軍勢が現れて毒矢を射かけた。
その思わぬ攻撃を仕掛けた主は、「高倉下」(タカクラジ)の子孫「珍彦」(ウズヒコ)であったとも伝えられている。

その矢は五瀬の肘と脛に当たった。
矢の毒が体にまわって、五瀬は戦死する。
遺体は急遽近辺の竃山(かまやま)に葬られた。
そして五瀬の死の数日後、紀ノ川の対岸には、おびただしい数の磯城王国の軍勢が現れたのだった。

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初代天皇「神武」が即位した場所と伝わる「橿原神宮」(かしはらじんぐう)は、奈良県橿原市の畝傍山の東麓にあります。

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清々しい、砂利の参道を歩きます。

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手水舎の水も清らかでした。

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そこからは「南神門」が見えており、その先に拝殿・本殿がありますが、ここは一旦左に折れて進みます。

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そこには蓮が茂る「深田池」が広がっていました。

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池のそばには、末社「長山稲荷社」へ続く鳥居がありました。

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雨のせいもあり、薄暗い杜に浮かぶ朱色の鳥居は、妖艶に感じます。

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奥へ進むと、ぽっかり明かりが見えます。
まるで暗い山に迷い、妖しい一軒の古民家に出会う昔話のようです。

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祭神は「宇迦能御魂神」(ウカノミタマノカミ)「豊受気神」(トヨウケノカミ)「大宮能売神」(オオミヤノメノカミ)となっていますが、
元は橿原神宮創設前からこの長山の地にお祀りされていた地主神のようです。

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稲荷信仰はどうやら穀物神、製鉄神を崇める物部氏が日本に持ち込んだようです。
宇迦能御魂神は全国の稲荷の主祭神として、各地で祀られる穀物神です。
大宮能売神は宮殿の平安を守る女神として、よく稲荷社の配神に祀られています。
同じ秦氏系の神ですが、こちらは丹波が発祥のようです。

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豊受気神は伊勢神宮の外宮の祭神として一般には知られている神です。
が、その正体は宇佐の豊王国の姫であり、アマテラスの鎮座地を探し求めたヤマトヒメの前任であった「豊鍬入姫」であり、邪馬台国卑弥呼の後任とされる「台与」でもある、「豊姫」のことだと云います。

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豊姫は五瀬らの後、第二次物部東征に乗じて大和入りしたことが、斎木雲州氏の著書等に記されていました。

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さて、いよいよ南神門の先の聖域へ、足を進めていきます。

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広い空間の先に見えるのは外拝殿です。

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背後に見える「畝傍山」(うねびやま)からは白い煙のようなものが立ち昇っていて、あたかも神が息づいているかのようです。

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来訪してみて思うのですが、これほど素晴らしい橿原神宮は、なぜ、出雲や伊勢ほどには知名度が高くないのでしょうか。

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その理由の一つは、この神社の創建が比較的新しいことによるのかもしれません。

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橿原神宮は、民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、1890年(明治23年)4月2日に官幣大社として創建されたと云います。

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しかしなぜここに神社を建てたのかというと、ここが初代天皇「神武天皇」の宮(畝傍橿原宮)があったとされるからです。

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1940年(昭和15年)に昭和天皇が行幸し、今も皇族の参拝がある拝殿。
奥に見えるのが内拝殿です。

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一般人が参拝を許されるのは外拝殿までです。
本殿は内拝殿に覆われて、千木がわずかに見えるのみ。

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祭神は我が国建国の祖、初代天皇「神武天皇」と、その皇后「蹈鞴五十鈴媛命」(タタライスズヒメノミコト)になっています。

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しかし富家が伝える真相は、大和の初代大王は「天村雲」(アメノムラクモ)であり、蹈鞴五十鈴姫も村雲に嫁いでいます。
ではここに祀られる神武の正体は村雲なのか、というと、どうやらそう簡単なものでもないようなのです。

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五瀬に代わって指揮官となった「宇摩志麻遅」(ウマシマジ)は、突如現れたおびただしい数の磯城王国の軍勢に対抗するすべはなく、勢力を強化する必要があると考えました。
そこで物部軍は船にもどり、一旦海洋に逃げ、南の潮岬をまわり、熊野新宮付近に上陸します。
この物部政権のウマシマジが熊野に上陸した事件は、第一次物部東征と呼ばれます。
ただし、ウマシマジは実名ではありません。
五瀬に代わって指揮をとったのが、弟の「稲飯」か、それとも「三毛野」なのか、記紀の製作者には分からなかったので、「ウマシマジ」の名前を創作して使ったようなのです。

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その後もウマシマジ率いる物部軍は、夜討ち朝攻めのゲリラ攻撃を受け続けました。
これらの攻撃から身を守るため、見晴らしの良い、熊野川の中洲に陣を敷いた、とあります。
そこに社がつくられ、名草で亡くなった五瀬が祀られますが、それが元の熊野本宮大社であったと云います。
熊野本宮大社は、明治22年の洪水の後に中洲から山中に移されました。
旧跡地は「大斎原」(おおゆのはら)とよばれ、今は社の基壇が残されているだけの砂州となっています。

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この頃、海家の「高倉下」が神刀をウマシマジに捧げたと、古事記は書いていますが、これは時代が合わず、むしろ高倉下の子孫「珍彦」らの軍によって、物部軍は攻め立てられていたという話があるようです。
このままでは大和に勝てる見込みはないと悟ったウマシマジは、三輪山に密使を送り、登美家に助けを求めました。
当の登美家当主「賀茂建津之身」は、戦乱に明け暮れていた大和を、ウマシマジらと共に平定しようと考えて、物部軍を熊野川、吉野川沿いに案内して大和へ引き入れて、登美家地盤の「磐余」の地に住まわせます。
その後、最終的に本拠地としたのがここ、橿原の地であったと云うことです。

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外拝殿内の美しい回廊を進むと、本殿が少し垣間見れました。
この本殿は明治天皇が、京都御所の「賢所」(かしこどころ)を移築したものと伝わります。
賢所とは宮中において、三種の神器のひとつである「八咫鏡」を祀る場所のことだそうです。

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その後、物部勢の一部は熊野の各地方に広がって住んだと云います。
熊野には、先住の出雲族がいましたが、彼らは有馬村の「花ノ窟」に、出雲の母神を祀っていました。
今も続く「お綱渡し」の祭事では、その綱に四隅突出方墳と共通する再生の象徴「×」しるしの縄模様が飾られていると云うことです。

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のちに「熊野速玉神社」が建てられますが、祭神は、「速玉大神」と「夫須美大神」となりました。
速玉大神は物部の大祖となる「饒速日」のことで、その「速」の字が両者共通になっています。
夫須美大神とは出雲の女神で、「伏す身」の意味が別の字になっているといいます。
後者は子宝の神とされていたと云いますが、出雲神話に登場する「神産巣日神」のことであろうと思われます。
熊野では出雲族と物部族が相反することなく、暮らしたと云うことなのでしょう。

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橿原神宮から畝傍山に沿って進んだところに「神武天皇御陵」があります。

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木に囲まれた、しっとりとした参道の先に、その御陵はありました。

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記紀は稲飯か三毛入かどちらが大将か分からないので「物部ウマシマジ」なる人物を創り上げて「神大和磐余彦」と書いて神武という贈り名をつけました。

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この磐余彦を初代大和大王としたので「天村雲」の名は歴史から消されてしまいます。
さらに神武東征の神話は、これから後の「イクメ王」の第二次物部東征と絡めて一つの神話とし、「古代出雲王朝」の存在を隠すため、磐余彦の大和入りを紀元前5世紀頃の出雲王朝初代「菅の八井耳」王の時代まで遡らせました。
結果、矛盾だらけの神話が出来上がり、神武を始め初期の天皇(大王)は150年くらい生存したということになったのです。

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古来、物部王国のシンボルは大型銅矛でしたが、五瀬らの東征に際して大矛は不便でしたので、これを、銅鏡に変えることが決定されました。
物部族はその鏡を祭祀のシンボルとしたのです。

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ここに眠るのが天村雲ということはないでしょう。
稲飯か三毛入か、ただそこは、静寂があるばかりでした。

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2件のコメント 追加

  1. れんげ より:

    「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」を見ていただくと書かれていますが、名草の人たちの中では、「名草戸畔は神武に殺されていない。むしろ追い払った」という認識があり、小野田寛郎さんが語る中でも、「神武は紀ノ川をのぼりたかったが、撃退されたため、しょうがないから熊野に行った」、ということが言われています。
    このあたりも、古事記・日本書紀の記述をよそに、2つの口伝が一致しますね。

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    1. CHIRICO より:

      調べれば調べるほど、富家の伝承の正確さに驚きます。
      宇佐家の伝承本などを読んでみても思いましたが、長い口伝のうちに内容が改変されて辻褄が合わなくなっているケースをよく目にします。
      それに比べて、富家はいったいどれほどの過酷な口伝を行ってきたのでしょうか。
      実は今回大元出版が書籍化したこと、僕のようなものが勝手な解釈を加えていくことなどが、やはりこの先100年200年とすぎた時に、同じような過ちを起こしてしまうのではないかと危惧しています。
      やはり本筋の口伝だけは違わず、残し続けていく必要があるとも思っています。

      いいね: 1人

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