物部・都万王国と宇佐・豊王国の一大連合王国の勢力圏であった西都原一帯は、数々の古墳群が今に残されています。
そこは春に、梅・桜・菜の花が次々に咲き、夏にはヒマワリ、秋にはコスモスが古墳群全体をつつみこむ、美しい景色の場所となっています。
その古墳群の中で、ひときわ大きな「男狭稲塚」(おさほづか)、「女狭稲塚」(めさほづか)があり、皇室の先祖と関係がある陵墓参考地として指定されています。
男狭稲塚古墳を訪ねてみましたが、陵墓参考地、つまり宮内庁管理地であるため、当然中には入れません。
男狭稲塚古墳は遥拝する場所もなく、外周の柵の外から、伺い見ることしかできませんでした。
そこはただ、うっそうと樹木に覆われただけの場所にしか見えませんが、古来から地域の信仰の対象とされていて、「可愛塚」(えのつか)とも呼ばれ、 天孫ニニギノミコトの御陵であるという伝承が伝わっています。
男狭稲塚古墳は国内最大の帆立貝形古墳で、墳丘の長さは175mあるそうです。
埋葬された人については、髪長媛の父、「諸方君牛諸井」(モロカタノキミウシノモロイ)とも考えられているようですが、九州で没した物部「イニエ王」のものである可能性も高いようです。
イニエは愛妻「アタツ姫」を失ったのちも、東征の意欲を捨てることなく、宇佐の豊玉姫を後妻に迎え準備を整えます。
しかしいざ出航の前に、儚くも本人も世を去ってしまったのです。
男狭稲塚古墳を周回し、女狭稲塚古墳に向かっていると、「171号墳」と書かれた標識が目につきました。
そこは西都原古墳群唯一の方墳で、女狭稲塚の陪塚(ばいちょう)と云われています。
陪塚とは中心となる大型の古墳に埋葬された首長の親族、臣下を埋葬するもののほか、大型の古墳の埋葬者のための副葬品を埋納するために築造された小型の古墳を指します。
大きさ は一辺 25m、高さ 4.5m で、周溝をもっており、墳丘は2段に築かれ、表面は葺石で覆われ、 円筒埴輪列が施されていたそうです。
家型埴輪片や甲形埴輪 等も出土しています。
171号墳からは女狭稲塚古墳の杜の全容を見ることができました。
女狭稲塚古墳は九州最大の前方後円墳で、墳丘の長さは約180mあります。
こちらはパルテノン神殿のような遥拝所が設けてありました。
被葬者は伝承では木花開耶姫の墓と伝えられていますが、「日本書紀」に記載されている仁徳天皇妃「髪長媛」(カミナガヒメ)とも考えられています。
しかしながら富家伝承では日向髪長媛は仁徳天皇ではなく、武内襲津彦に嫁ぎ、襲津彦と共に大和に移り住んだと伝えられています。
そして磯城の島ノ山古墳に葬られていると云うので、ここに眠るのはアタツ姫である可能性は高いと思われました。
男狭稲塚・女狭稲塚古墳を後にしていると、一見奇妙な形の古墳を見かけました。
「鬼の窟古墳」(おにのいわや / 206号墳)と伝わるものです。
西都原古墳群 で唯一の横穴式石室を持つ円墳で、墳丘の外側に土塁をめぐらせています。
7世紀初頭に造られたそうで、このように土塁をめぐらせた古墳は、奈良県の石舞台古墳など全国でもきわめて珍しいものだと云います。
石室は巨石で組み上げられていて、この巨石にまつわる鬼の伝承が伝えられています。
ある時、美しい娘コノハナサクヤヒメに恋した力持ちの鬼が、姫の父親オオヤマツミに娘を嫁に欲しいと求めました。
それを聞いたオオヤマツミは困って
「明日の夜明けまでに大きな石の岩屋をつくることができたなら、娘を嫁にやろう」
と持ちかけます。
それを聞いた鬼は、さっそく岩屋をつくりはじめました。
力持ちの鬼は石の岩屋を瞬く間に、たった一晩でつくりあげてしまいます。
心配になったオオヤマツミが様子を見にきてみると、見事大きな石を積んだ岩屋ができ上がっていました。
おどろいたオオヤマツミは一計を案じ、その石を一つ抜き去って遠くに投げました。
夜が明けて鬼が起きてみると、完成したはずの岩屋の石が一枚抜けています。
それを見たオオヤマツミは、
「石のぬけた岩屋では、娘を嫁にやることはできん」と言い、鬼の申し入れを断ったということです。