高田神社(美田)”小野氏・和邇氏 追考”:常世ニ降ル花 神門如月篇 02.5

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島根県隠岐諸島・西ノ島に渡って来ました。

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住宅の合間に、「後醍醐天皇御腰掛石」というのがありましたので、立ち寄ってみました。

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後醍醐天皇が隠岐脱出の際、船待ちに休息をとったと伝えられる石です。
神功皇后にせよ、我が国のいにしえの皇族さんたちは、石に腰掛けるのが好きみたいです。
人に腰掛ける人たちでなくて、良かった。

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さて、前回の西ノ島訪問で、どうしても辿り着けなかった神社のひとつが「高田神社」(たかだじんじゃ)です。

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いや、ここはほんと、参道が分かりにくくて、悔しい思いをしました。

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地元の人に道を聞こうと思っても、なかなか地元民の姿が見えません。
なんとか得た情報では、民家の隙間を通って、墓地へ向かえと言うことでした。

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そこから脇道に入ると、参道というか、山道に出ます。

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足元はコンクリで舗装されていますが、そこそこ登り道でキツいんよ。

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しばらく登ると、ネットで見た巨大な石が現れました。

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ここからが本格的な参道なわけですが、この鳥居が見えるまで、道は合っているのか不安になりますよ。

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それにしても、この恐竜の卵みたいな石は、何なのでしょうか。

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なんか彫ってあるような気もしますが、ペトログリフとかではないでしょうね、たぶん。昭和・・・?

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「ツイニ隠岐牛ヲ食セシ者ヨ、スタミナハ足リテイルカ」

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「ソナタノ”食力”、今試サレン」

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いや、聞いてはいたけどね、見えないじゃん、終わりが。

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『隠岐島前・島後神社Map』には200段以上と書かれていますが、段数もさることながら傾斜がヤバみ。

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直角か!と言いたくなるような石の壁を、心を無にして、ひたすら登ります。

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隠岐牛「特選3品盛」200gのエネルギーを使い果たしても、高天原はなおも遠く。

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当社の創建は、棟札の古いものが江戸時代の元和2年(1616年)と記されており、それ以前としか分かりません。
当社に関する資料はネット上でもほぼ皆無なのですが、意外なところに見つけることができました。
焼火神社サイトの『西ノ島町誌』西ノ島の神社の項です。

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~「縁起書」によると「天平神護元年(七六五)「隠岐次郎左衛門息女小花姫」に神託があり、頂上の鳴沢池より示現された神を高田山頂なる岩窟にお祀りし「高田明神」と崇め・・」と記されているが、これは、島後都万村高田神社の縁起と同じで、島後では至徳二年(一三八五)の事としている。そして小花姫に神託のあった神は「国常立尊」となっている。この「高田神」は「時宗」の僧と関係があった。
 思うに時宗の僧が島前に進出した時に島後の「高田神」を勧請しお祀りしたのではないだろうか。さすれば神名は「国常立尊」と申し上げるべきではあるが、島前では「伊邪那岐命・素戔嗚尊」と申し上げたのではないか。いずれにしろ小花姫の神託によって顕わされた神であるので、古くからの「氏神」としての性格はない。
 現在の美田四区の先住者たちは、「大山神社」を氏神としていたものと考えられるが、この「高田神」を祀るようになってから以降、船越・小向の人々はこれを「氏神」とするようになったのではないだろうか~

なるほど、小花姫の話は、隠岐諸島・島後の同名社、都万村の「高田神社」に確かに伝えられていました。

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時宗(じしゅう)とは、鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教で、開祖は一遍。鎌倉仏教のひとつとされます。
ただ、他宗派同様に「宗」の字を用いるようになったのは、江戸時代以後のこととなります。
また、”西ノ島の神社”の項の別のところで、

~旧美田村が一部方・二部方と分かれ、この二部方の中心となったのがこの社と思われる~

と書かれています。

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では旧美田村というのは、どのエリアだったのか、検索をかけてみると『日本歴史地名大系』というサイトが引っかかりました。
それで美田村を見てみると、

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“幕末期近世村領域データを参照”という、そのエリアは、西ノ島の約半分、隠岐諸島・島前でもかなりの広範囲であることがわかります。
これを『隠岐島前・島後神社Map』に重ねると、

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なるほどね。

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ようやく辿り着いた高田神社は、やや寂れて見えます。
ここまで参拝がきついと、細やかに手入れするのは難しいのでしょう。
修復の木材を下から運ぶことを想像すると、ゾッとするね。

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この高田神社は、同じ西ノ島の「焼火神社」(たくひじんじゃ)と、その構造がよく似ています。

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というのも、当社は巨大な岩の窪みにめり込むように、本殿が建てられているからです。

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当社は焼火神社の分社として建てられたか、あるいは雛形として先に建てられたのかもしれません。

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高田神社の境内社は五男三女神を祀る「八王子社」だそうですが、これがそうなのか。
境内社は別にもう1社ありました。

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当社祭神は、「伊邪那岐命」(いざなぎのみこと)と「素盞鳴雄命」(すさのおのみこと)となっていますが、焼火神社は「大日霊貴尊」(おおひるめむちのみこと)で、
島後都万の高田神社は「国常立命」(くにとこたちのみこと)となっています。
当・高田神社や焼火神社を見るに、修験の影響を大きく受けている印象があり、祭神は神仏習合と神仏分離を経て、変えられてきた可能性も考えなければなりません。

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『西ノ島町誌』の西ノ島の神社の項を書いた松浦康麿氏によれば、旧美田地区の先住者たちは、焼火神社の旧名である「大山神社」を氏神としていたとのことでした。
つまり、焼火神社も当社・高田神社も大山の神を祀っていたものを、旧美田地区が一部方・二部方と分かれ、この二部方の中心となったのがこの高田神社であると。
さらにのちに、時宗の僧が島前に進出した時に当社に島後の「高田神」を勧請したのだろうと考察しています。

なるほど、たしかに筋は通っているように思います。
しかし時宗の開祖・一遍が出た伊予河野氏は、代々大三島の大山祇神社を奉祀する一族でしたので、時宗の僧は先に西ノ島に大山信仰を持ち込んでいたことも考えられます。

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“都万の縁起によれば、小花姫に神託のあった神は「国常立」となっているので、当社も祭神は「国常立尊」とするべきですが、島前・美田では「伊邪那岐命・素戔嗚尊」となっており、この「高田神」を祀るようになってから以降、当域の人々はこれを「氏神」とするようになったのではないか”と、氏は考えているようでした。
それはそうであるとして、しかしもうひとつ、この両社には重要な共通点がありました。

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神紋です。
当、美田の高田神社の神紋は、なんと「三ツ柏」でした。

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隠岐諸島・島後の都万の高田神社を参拝した時、僕がそこで見た神紋も三ツ柏でした。
これは阿波や諏訪にも通じますが、やはりここで真っ直ぐに繋がるのは

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出雲・日御碕神社、小野氏の神紋ではないでしょうか。
スサノオが「吾が神魂はこの葉の止まる所に住まん」と投げた柏の葉にちなんだものだと言い伝えられるこの神紋。
ここでいうスサノオは、徐福ではなく、古代出雲王家初代王の「菅之八耳」(すがのやつみみ)のことである、というのが僕の考察です。
ならば、高田神社祭神の「素盞鳴雄」とはスガノヤツミミのことであり、都万の高田神社祭神「国常立命」もスガノヤツミミを表していたのではないでしょうか。
そして焼火神社も、その雛形としての高田神社も、「大山神社」だった時の古い最初の祭神はクナト王だったのでは。
そこへ大山信仰を持つ時宗がやってきて、独自の祭祀を始めた。
なので美田・高田神社はクナト神として伊邪那岐を、スガノヤツミミとして素盞鳴雄を祀ることになったと、考えられます。

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日御碕神社の小野家は東出雲王家・富家の7代主王「天之冬衣」(あめのふゆきぬ)の末裔であると伝えられますが、フユキヌは西出雲王家・神門家の親戚である宗像家の娘「田心姫」を后に迎えます。
フユキヌの子・ヤエナミツミ(事代主)は富家を継ぎますが、母系社会であった当時、田心姫の子供たちは神門家としての血筋を受け継いだようです。
つまり小野家は、神門の分家ということになります。

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この小野家から和邇家が派生します。
和邇家といえば、操船技術に長けていたことで有名です。当然、鉱石資源が豊富な隠岐諸島へ古代、行き来していたものと考えられます。
当・高田神社、並びに西ノ島の由良比女神社と海神社の例大祭では、2年に1度、神輿渡御が行われるのですが、担ぎ手の男性たちが神輿を担いで練り歩く際は「チョーヤッサ、ホーラヤッサ」という独特のかけ声をあげるのだそうです。
これはどことなく、田心姫の屋敷があったとされる「阿太加夜神社」(あだかやじんじゃ)に伝わる「ホーライエンヤ」を彷彿とさせます。

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隠岐諸島は、「小野篁」(おののたかむら)や「小野尊俊」(おののたかとし)が配流された島でもありますが、もともと小野一族のテリトリーだった、そんな可能性も見えてきたのでした。

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