
13年ぶりに”ぼたもちさん”を訪ねたら、立派な駐車場ができていました。

玉名郡長洲町にあるここは、「立花誾千代」(たちばなぎんちよ)の墓と伝えられ、その形から、通称「ぼたもちさん」として親しまれています。

誾千代は立花道雪の一人娘として生まれ、父親は彼女が7歳の時に家督を相続させました。
後に高橋紹運の息子・宗茂と結婚し、その家督を夫に譲ります。
柳川に移ってからは、彼女は城を出て、宮永に居住。宮永殿と称されるようになりました。
関ヶ原の戦いで西軍についた宗茂が改易となると、誾千代は玉名郡腹赤村に移り住み、その2年後の慶長7年(1602年)10月17日、病によって死去しました。享年34。

「光照院殿泉譽良清大姉」
夫・宗茂は、柳川領を再び与えられた後の元和7年(1621年)に、柳川に良清寺を建立し、誾千代の菩提を弔いました。
さらに寛永11年(1634年)に墓所を改葬し、彼女が亡くなった腹赤村に、この”ぼたもちさん”(供養塔)を建立したと伝えられます。

誾千代は美貌の姫で、父譲りの武勇を併せ持ち、鉄砲と薙刀の名手であったといわれています。
夫が出陣している間は、城と民を守り、夫・宗茂を支えて来ました。
柳川に移ってからはほぼ別居状態であったことから、宗茂と誾千代は不仲だったともいわれていますが、真実の程は分かりません。

彼女がなぜ、腹赤の地にやって来たのか、それも謎とされます。

ぼたもちさんの裏手には中学校もあり、学生らの賑やかな声が響くこの地で、彼女は何を思っているのか。

丸い餅にたっぶりあんこを乗せた”ぼたもちさん”の表情は、少し優しげに見えたのでした。

案内板の下を見ると、”「阿弥陀寺」が近くにあるよ”と言うので、行ってみました。

大きな寺を想像していましたが、小さなお堂でした。

誾千代がここで暮らしていたときは、大きな寺があったのかもしれません。



福岡県柳川市西魚屋町にある寂性山「良清寺」(りょうせいじ)。

この浄土宗寺院が、柳川藩祖・立花宗茂の正室・誾千代の菩提寺となります。

寺の名は、誾千代の院号の「光照院殿泉誉良清大禅定尼」に由来します。

良清寺は、柳川藩祖の立花宗茂が正室の誾千代を弔うために、元和7年(1621年)に応誉を招いて建立しました。

応誉の子孫は代々住職を勤めると共に、還俗して蒲池氏を再興し、藩士として寺を守っています。
江戸時代以降は立花氏と蒲池氏のゆかりの寺とされ、歌手の松田聖子(蒲池法子)さんの生家の菩提寺でもあるとのことです。

誾千代の位牌もここにあり、本堂の裏手に彼女のお墓もあるのですが、関係者以外は参拝できないそうです。

また、当寺には、「立花誾千代の肖像」も所蔵されています。

墓前にて手を合わせられないのは残念ですが、

裏手の竹藪の隙間から、そっと面影を偲ばせていただきました。



久留米市善導寺町にある浄土宗大本山「善導寺」(ぜんどうじ)にやってきました。

ここへは2026年の1月2日に参りましたが、正月の賑わいはありつつも、人で溢れかえるほどではなく、落ち着いた雰囲気を保っていました。

建長2年(1191年)聖光上人(弁長)の開山で、筑後国司草野永平(一向俊聖の伯父)の開基により創建され、当初は光明寺と号していました。
建保5年(1217年)に善導寺と改められ、浄土宗鎮西義の拠点となったということです。

室町時代には兵火により焼失しましたが、江戸時代初期に、柳河藩主田中氏の帰依を得て復興されます。
田中氏の断絶後、筑後国が柳河藩と久留米藩に分割されると、当寺は久留米藩領に属すようになり、久留米藩主有馬氏の庇護を受け、浄土宗の九州大本山として栄えました。

善導寺は初めての参拝でしたが、境内は広く、歴史を感じさせる良い寺院です。

その善導寺で平成28年(2016年)、以前より古文書には書かれていたものの所在不明となっていた、立花誾千代の墓が発見されました。

誾千代の墓石は、藪に覆われた場所を柳川の有志の方々が整備し、見つかったそうです。

誾千代は永禄12年(1569年)に、善導寺からほど近い問本城にて、戸次鑑連(立花道雪)と仁志姫の娘として生まれました。
鑑連は大友宗麟によって筑前の重要拠点「立花山西城」の城督を任じられ、当時3歳の誾千代と母・仁志姫も共に移ります。

この善導寺の墓には、誾千代の遺骨が納められているとのことですが、奇しくも彼女の遺骨は誕生の地に戻って来ていたのでした。

同じ境内にある、この写真右側の墓は、母・仁志姫のものであるといい、寛永11年に没地の腹赤村から柳川の良清寺に墓所が移された際に、実母仁志姫の墓と共に、誾千代の遺骨も帰依していた浄土宗の当寺へ移葬されたのではないかと、考えられているようです。

誾千代と宗茂の間に子はなく、彼女の死により、父・立花道雪(戸次鑑連)の血筋は途絶える事とになりました。

立花宗茂は開城後は改易されて浪人となり、慶長7年(1602年)に誾千代は腹赤村で亡くなります。
慶長8年(1603年)に江戸に下った宗茂は、慶長9年(1604年)本多忠勝の推挙で江戸城に召し出され、宗茂の実力をよく知っていた将軍・徳川家康から幕府の御書院番頭(将軍の親衛隊長)として5,000石を給されます。
まもなく嫡男の徳川秀忠の御伽衆に列せられ、慶長11年(1606年)、陸奥棚倉(南郷)に1万石を与えられて大名として復帰しました。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で類い稀な働きを成し、元和6年(1620年)、幕府から旧領の筑後柳川10万9,200石を与えられ、関ヶ原に西軍として参戦し一度改易されてから旧領に復帰を果たした、唯一の大名となりました。

柳川に戻った宗茂は翌・元和7年(1621年)に、誾千代のために柳川に良清寺を建立。
しかし元和8年(1622年)には飛騨守に転任することになります。
その後は徳川家光に戦国の物語を語る相伴衆としての役目も果たし、晩年は秀忠・家光に近侍して重用されました。
このころには、健康状態(歩行)になんらかの困難があったため国元にはほとんど帰れず、江戸に屋敷を構えて定住しています。
そのような状況でしたが、寛永11年(1634年)に誾千代の墓所を改葬し、彼女が亡くなった腹赤村に、”ぼたもちさん”(供養塔)を建立しました。
宗茂と誾千代は不仲であったのか。されど、彼のような人物が体面だけで、思いの尽きた妻の墓を、こうも気にかけただろうか、と思うのです。

宗茂は寛永15年(1638年)に島原の乱にも参陣し、総大将・松平信綱にその明晰さを認められ、有馬城攻城では一番乗りを果たし諸大名に武神再来と嘆賞されました。
宗茂は誾千代亡きあと、二人の継室を持ちますが、生涯を通じて実子を得ることはありませんでした。
寛永19年(1642年)、江戸柳原の藩邸で死去。享年76。
戒名は「大円院殿松隠宗茂大居士」で、宗茂の名があまりに有名でありすぎるため、俗名の「宗茂」がそのまま入っていると伝えられます。
文政3年(1820年)6月8日には誾千代に瑞玉霊神、夫・宗茂に松陰霊神の神号が贈神。
天保8年(1837年)には、真言宗当山派御門主(醍醐寺三宝院)より誾千代に照柳大明神の御璽が贈神されました。

現在、柳川城跡の北東(鬼門)に鎮座する「三柱神社」には、立花道雪、宗茂と共に祭神として祀られ、誾千代姫は、永遠のギャルかわ、慈愛の女神として崇敬されているのです。
