一書に曰く、
スサノオが言うには、「韓郷の嶋には、是金(こがね)銀(しろがね)がある。それを輸入するのに我が子らの治める国に浮宝(船)が無ければ困るであろう」
そうして鬚髯(ひげ)を抜き散らすと杉に、胸の毛を抜き散らすと檜に成った。
尻の毛は槙(まき)に成り、眉の毛は櫲樟(くす)に成った。
そしてスサノオは、それら木々の用途を定めて言った。
「杉及び櫲樟は、浮宝に使いなさい。檜は瑞宮(宮殿)を造る材にすべし。槙は人々の棺桶に使いなさい。その他の食べる八十木種(ヤソコダネ=沢山の種子)はよく蒔いて、育てるように」
時に、スサノオの子を名付けて五十猛といい、妹を大屋津姬、次の妹を柧津姬という。
この三柱の神も皆、木種を国中によく撒いた後、紀伊国に渡り、そこに鎮り祀られている。
然して後にスサノオは熊成峯(くまなりのたけ)に坐して、遂に根国に入られた。
『日本書紀』[第一 神代上 第八段 一書第五]
『偲フ花』のコメント欄でnarisawaさんと話している時に、各古代氏族のシンボルツリーについての言及がありました。
多くの神社の御神木が杉であるのに対し、三島家が祭祀する大山祇神社では大楠が神木とされています。
そして和歌山・紀伊国の名草一族のシンボルツリーが楠なのだと。
それで豊家に楠が出てくると面白いよね、ってことで「なるほど楠かぁ…」と考えている僕の脳裏にふとある景色が浮かびました。
「ああ、そういえば立花山にあったっけなあ、楠の原生林が」
そんなわけで行ってきました、立花山へ。
「立花山」(たちばなやま)は、福岡市東区、糟屋郡新宮町および久山町にまたがる標高367.1mの低山です。
立花山は7つほどの峰からなる山群であり、そのうち3つの峰が目立ち聳えます。
立花山の名前はそれらの総称としても、またそのうち最高峰を表すものとしても用いられています。
登山用駐車場に車を止め、しばし民家の間などを歩きます。
立花=橘なのか、みかんがそこらじゅうに実っていました。
メジロさんちっす。
メイさんちっす。
春の訪れを予感させる陽気の中を歩いていくと
登山口が見えてきました。
登山口の休憩所を覗くと、麗しの誾千代姫のイラストが♪
誾千代ちゃん、しゅき。。。
前回立花山を登ったのは、誾千代姫の足跡を辿る旅の時でした。
この山に立花山城があり、幼き誾千代ちゃんが駆けずり回っていたのかと妄想悶々トレッキングを楽しんだものです。
それにしても、この7つの峰々の名称が面白い。
昔は「二神山」と呼ばれ、その山塊を体になぞらえていたとあります。
そして松尾は「まつのお」と呼んだのか。
こっちが足で、こっちが松の尾。
昔の神様には尾があったのか、な??
立花山山頂までは、だいたい30分くらいで登れそうです。
そして奥にちらりと書かれているもう一つの山頂、「三日月山」とありますね、ムフフ。
立花山のもう一つの峰が三日月山だというのは知っていましたが、豊のかほりがするじゃぁありませんか。
ではいよいよ登山開始です。
少し進むと修験坊の滝方面と一本杉方面に別れ道があります。
ここは一本杉方面へ進みましょう。
そこに「なぎの大樹」という標識があります。
さきに御坐すのは
森の貴婦人、艶やかで美しい。
幹周255cm、立花山に群生する楠の巨木に比べて見劣りしますが、ナギは極端に成長が遅く、硬い樹なのだとか。
この立花山の「なぎの大樹」は、幹周りでいえば日本で34位ですが、そのほとんどが環境の良い寺社の御神木であり、日照の限られた自生のナギとしては全国2位なのだそうです。
推定樹齢は300年。
ナギは熊野信仰の御神木としても有名です。
水場がありました。が、水は流れていません。
歩きます。
歩きます。
歩いていくと、
おや?これは!
別れ道の標識にあった一本杉ではありませんか。
先の水害で一本杉がポッキン杉になっていました。
これはもう朽ちるのも時間の問題。標識、どうするのだろうか。
でもまあその先には、立花山三大大楠の一柱「大門クス」があるので、こちらを標識に記すと良いでしょう。
幹周り760cmの威容。
しかし根が山道に剥き出しになっています。
登山に慣れている人は山の樹木を傷つけない配慮を怠りませんが、気軽に登れるこの山においては多くの人に踏みつけられているのではないでしょうか、気になります。
ごめんなさい、ちょっと通させていただきますよと、なるだけ幹や根に触れないよう優しく通過します。
この登山道は本来はなかった道なのだそうです。
いつの頃からか、おそらくこの大樹を間近で見られるようにと作られたのでしょう。
僕らのエゴのために、この素晴らしい大樹が失われることのないことを願います。
陽光が優しく注ぎ始めるあたりで
残り400mとなりました。
約1kmの行程ですから、気がつけば半分以上登ってきていました。ちょろいな。
うねうねと地面から伸びる楠、
その姿はどこか、龍体を思わせるのでした。
再び別れ道があり、そこに大きな磐座がありました。屏風岩です。
左に進めば大楠のある原始林、
右に進めば山頂です。
中央には祭壇のような石があります。
そしてこの部分、女神の磐座だと思うんですよね。
ほらOPPAIもあって、ご懐妊の女性のようなフォルムです。サイノカミやわー。
女神の頭部の方には、樹木の冠が根を張っています。
あと200m、ちょろいな。
古井戸の案内板があります。ちょっと寄り道。
50mほど降りていくと、
ありました、古井戸が。
立花山城は元徳2年(1330年)に豊後国守護の大友貞宗次男大友貞載が築き、この地に拠ったことにより立花氏を称するようにもなったとあります。
つまり立花氏の城があったから立花山となったのではなく、立花という地名が先にあり、ここに城を建てたので立花氏を称するようになったということです。
立花山城は港町博多を見下ろす非常に重要な拠点であり、戦国時代には大内氏や毛利氏と大友氏の激闘地でした。
天正3年5月28日(1575年7月6日)、立花山城の城主「戸次鑑連」(立花 道雪)は娘・誾千代姫が7歳の時に立花城の城督・城領・諸道具の一切を譲りました。
ランドセル小二女子の城主爆誕です萌え。
道雪には後継者となるべき息子がおらず、一人娘に城督を継がせるため通常の男性当主の相続と同じ手続きを踏み、主家である大友家の許しを得た上で姫を立花山城の城督としました。
天正9年(1581年)、道雪は高橋紹運の長男である宗茂を養嗣子に迎え、誾千代姫の婿養子とします。
宗茂は名を戸次統虎(べっきむねとら)と改め、誾千代に代わって道雪から家督を譲られ、天正10年11月18日(1582年12月13日)、御本丸西の城における御旗・御名字の御祝をもって初めて立花姓を名乗ることとなります。
天正14年(1586年)、5万の島津軍が筑前国に侵攻し、高橋紹運は岩屋城にて徹底抗戦の末に討ち死にしました(岩屋城の戦い)。
このとき宗茂も立花山城で徹底抗戦し島津本陣への奇襲に成功、さらに宗茂は友軍を待たずに島津軍を追撃して数百の首級をあげ、火計で高鳥居城を攻略、岩屋・宝満の2城を奪還する武功を挙げています。
これらの武功を評し、かの豊臣秀吉公は家臣の前で「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と紹介したと伝えられていました。
青い空が見えてきました。
到着したようです。
立花山城本丸のあった山頂です。
そこから俯瞰する博多の町、
絶景です。
沖に伸びる海の中道の先にあるのは志賀島。
空気が澄んだ晴れの日は沖ノ島まで見えるようです。
これ程の眺望、確かにここ立花山が重要拠点だったことを思わせます。
それはもちろん戦国時代もですが、古代においてもそうだったことでしょう。
豊臣秀吉の九州征伐の後、立花氏は筑後国柳川城へと移封となり、新たな城主として小早川隆景が入城しました。
その頃は城としての機能よりも、経済的意義が求められるようになり、山城である立花山城は存在意義を失いつつありました。
黒田長政が慶長6年(1601年)に福岡城を築く際、その石垣は主に立花山城から移築して作られ、立花山城は廃城に。
現在は山頂の本丸跡にわずかに石垣跡、そして古井戸跡が残るのみとなっているのでした。
いつも楽しく拝見しています。
いつも疑問に思うことがあるのですが、
豊臣秀吉の「豊臣」姓を考案した人の真意は何であったかと。
秀吉当人の意思か朝廷の案か
あまり明確に説明した考察を見たことがありません。
素直に読めば「豊」の「臣」です。
また秀吉の出自自体が不明であり
一般的には農民出身ですが
アヤタチの家系とも言われていおり
川並衆の蜂須賀氏はもともと従属関係で
あったとか
各地の修験者ネットワークとの
繋がりが深く天才的な政治センスは
その構築の成果であるなど。
また天皇のご落胤であったという
俗説もあります。
皇族の血を引いているなら
豊家とも無関係ではない?
私の妄想ですけど。
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ブサイク王様、ありがとうございます!
豊で臣ですもんね。しかも臣は中臣と同じく「とみ」と呼ばせている、意味深です。
修験者は出雲散家がベースである可能性が高いですが、修験の聖地らしきところを訪ねると、豊国文字という神代文字が刻まれているのを見かけることがあります。豊国文字自体はハングルなどをベースとした後年の創作であると考えていますが、豊国と言うくらいですから、豊系の修験者集団が存在するのだと考えています。
太宰府の宝満山は豊玉姫の妹・玉依姫を祭神とし、出羽三山も出雲と豊の神が祀られています。どちらも有名な修験の山ですね。
ですから修験者ネットワークに深い関わりがある秀吉もまた、豊との関連が示唆されるのだと思われます。
息子・秀頼の九州逃亡説もいくつかの裏付けがあり、あるいは豊の子孫が手引きしたのかもしれませんね。
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この山頂の景色、町と海が見えて最高ですね!! 重要拠点、なるほど。
そしてメジロと椿、春の訪れを感じます。
このくらいの標高の山で、これだけ自然がしっかりと味わえるのは本当に嬉しいですね。
すっかり観光地化された?高尾山もコースを選んで、山頂からさらに奥へ行くとしっかりと自然があって楽しいです。
また九州へ行ける機会が出来たら、是非登ってみたいです♪
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そうなんです、立花山は重要拠点!
実はこの立花山にはまだ仕掛けがありますが、それはまた別の記事で。
有名な高尾山も一度登ってみたいと思っています。低山散策も楽しいものですね。
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兵主神社の立花=橘も、ここから持ってきてたりして。
楠木は船を作る材料という事なのでしょうか?正に海神族のシンボルに相応しいですね。
南方からの渡来植物という紹介のHPを見ましたが、記紀の内容に添って、済州島の一部にも繁殖地があるとのこと。
基本は大陸産だそうなので、もしかしたら倭人が植えたのかもしれません。
スサノオの話は、「わが国にはみず金=水銀がある」「楠木は朝鮮半島にはない」という事を暗に示しているような気がします。
それと、和泉市の惣ケ池遺跡。畿内で紀元前後に製鉄があった事を示す遺跡ですが
古井戸だかに楠木が使われているそうです
https://www.sankei.com/article/20211028-75RGI6VFHFO65IYKHWI27P7DQM/
近くの信太森神社 葛の葉町 – には
千枝の楠(ちえのくす/和泉市指定天然記念物)があります。ヤマトまでは少なくとも栽培可能という事でしょうかね。
楠木は、長野県では育たない様です。
葛の葉と言えば安倍晴明のお母様のお話ですが、葛の木→葛木→葛城国に近い感じもしてモヤモヤします。
そして木曽の中山道の上松町には、葛の葉神事を行う神社があり、和歌山のイタキソ神社から林業の技術が移転されたと、なかひらまいさんの本にも出ています。
更に木曽福島には清明神社。そして、開田高原に向かう途中には清博士という、清明のお墓伝承の地があります。
そこの像、横から見ると狐に見える仕掛けがしてあります
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そうなのです、杉・楠には海洋系の匂いがします。
楠は半島由来ではなく、南方インドネシア系ということでしょうか、であれば名草のシンボルというのも納得ですね。
葛城国と葛の葉の関連ですか、面白いですね。
葛の葉は樟の葉かもしれません。
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楠木は、くりぬきの丸太船の頃から使ってたみたいなことがその本にも出ていた様に思います。
恐らくですが、九州ならどこの神社でも楠木がある様な気がしてきました
部族によっての多少の違いはあるにせよ
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