鳥見山霊畤(等彌神社):八雲ニ散ル花 41

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『後漢書』「東夷伝」に云う。
桓帝・霊帝の頃(146~ 189年)、和国内は混乱し、互いに攻め合って何年もの間、統一した君主が居なかった、と。
それは初期の大和・葛城地方での覇権争いに始まり、播磨・吉備と出雲の戦争、第一次物部東征の戦乱に続いた時代を示している。

この混沌の末、大和と物部の血をもつ「オオヒビ」(大日々)が大王に就任した。
時に登美家の9代当主「大田田根子」は大彦の妹「モモソ姫」(百襲姫)に住む場所を与え、三輪山の太陽の女神を祀る巫女に推挙した。

モモソの母「クニアレ姫」は三輪山の姫巫女であり、母に似て娘も信心深かった。
それでモモソ姫は、母の跡を継ぎ、三輪山の姫巫女に最もふさわしい女性と認められた。

古代には、三輪山の西南にある今の鳥見山はトビ山(登美山)と呼ばれていた。
トビ山の山頂は三輪山の太陽神の遥拝地とされ、「登美の霊時」と呼び、聖地とされた。
モモソ姫の人気は高まり、登美の霊時にて春と秋に行われる大祭には、大王を始めとし大和中の豪族が参列し、中には遠方から泊まりがけで参拝に来る者もいた。

これまでの祭祀は銅鐸を用いたものだったが、モモソの神殿では、榊を根から抜き取って枝に神獣鏡を付けた。
この祭祀方法は物部式ではあったが、鏡の裏面、光る方は参拝者に向けられた。
つまり、丸い鏡が太陽の女神の御神体とされた点が、いかにも出雲的であった。

物部勢力の侵入による戦乱が長く続いたが、モモソの三輪山の大祭によって、初めて平和と統一が復活した。

—————

『梁書』「和伝」は記す。
「漢(後漢)の霊帝の光和年間(178~183)、倭国は乱れ、戦いあって年月を経た。
そこで、「卑彌呼」という一人の女性を共立して王と為した。
彌呼に夫はいない。
鬼道をあやつって、衆を惑わすことができたため、国人はこれを立てたのである。
弟がいて統治を補佐している。
王となってから面会した者は少なく、千人の侍女が侍り、ただ一人の男子(弟)に出入りさせ、教えや命令を伝えている。
住んでいる宮殿には常に兵がいて守衛している。」

三輪山を含む磯城地方の領主「登美家」の「大田田根子」(オオタタネコ)がモモソ姫の世話をした。
梁書に書かれた「弟」とは彼のことで、通訳の説明不足による筆記者の勘違いで記されている。

古代の政治状態は、「王・巫女制」といわれる。
神祭りの司祭者である姫巫女が王と組んで、民衆の支持を集めた。
つまり「政治の朝廷」と「神の朝廷」が両立しており、どちらを省くこともできなかった。
「政治」で発案された政策は、「神託」が降りなければ、実行されなかった。
故に古代の政治は「祭りごと」と呼ばれた。

この力のバランスから、オオヒビ大王の武力よりも、モモソ姫巫女の宗教力に民衆は大きな敬意を払うようになる。
結局のところ、第一次物部東征は失敗に終わったとも言えた。
なぜなら物部勢は武に優ってはいたが、民衆を惹きつけるだけの宗教を持ち合わせてはいなかったのだ。
故に出雲の古い神を祀る登美の姫巫女の大和王国がここに誕生した。
モモソ姫こそが、「女王卑弥呼」の名で中国の書に記された、最初の姫巫女だった。

ただし、魏書に記された「親魏倭王」の卑弥呼とは別人である。
同書に記された「邪馬台国」は、ここよりもはるか西の地、宇佐にあった。

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桜井市にある「等彌神社」(とみじんじゃ)に訪れました。
参道入口にある鳥居は、伊勢神宮の遷宮時のお下がりだということです。

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しっとりとした、良い雰囲気の神社です。

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一の鳥居からいきなり参道を外れて右に歩きました。
そこに「友情の碑」という石碑があり、

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さらにその先をしばし進むと、

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「神武天皇聖蹟鳥見山中霊畤顕彰碑」なるものが建っています。

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記紀によると、神武は長髄彦と再戦した時、苦戦を強いられたが、金色の鵄(とび)が神武の弓の先に止まり、雷光のように光って長髄彦の軍勢を幻感した、とあります。
この奇跡のおかげで神武らは長髄彦軍を退けることができました。
金色の鵄が「鳥見」の名の由来となっており、鳥見山は、神武が橿原宮で即位した後に皇祖天津神を祀った場所であると云うのが、一般的な伝承となっています。

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再び参道に戻ってきました。

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等彌神社にはちょっと変わったものも伝わっています。

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そのキーホルダーが販売してありましたので購入しました。
謎の土偶です。
まるで宇宙人を彷彿とさせるこの土偶は、「ヤタガラス」の埴輪だと神社では解釈しているようです。
「桜井市史」によれば、元文元年(1736年)に、境内の下津尾社にある、磐余の松の枯れ株の下から掘り出されたと云います。

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等彌神社の境内はなかなかの広さで、先は鳥見山の山頂にある「霊時」(祭りの庭)まで続いています。

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神社の由緒を見ても、記紀の話に合わせて、ここは神武の聖地のように記されています。
しかし鳥見山は、神武、いわゆる物部の聖地ではなく、出雲王家の分家たる「登美家」の聖地でした。

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石の祓戸があります。

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その先にあるのは「下津尾社」です。

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明治以前は、この下津尾社が祭祀の中心だったということですが、現在はこの先にある上津尾社が中心となっており、それに伴い下津尾社は末社となったようです。

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本殿は2棟あり、右殿は八幡社で「磐余明神」(神武天皇)、「品陀和気命」を祀り、
左殿は春日社で、「高皇産雲神」、「天児屋根命」を祀ります。
これらの祭神は物部系の神を中心としており、登美系の神ではありませんので、後に記紀に合わせて祭神が変えられた可能性があります。

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下津尾社の隣に恵比寿社があります。

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恵比寿とは事代主のことでもありますので、本来は下津尾社では事代主を祀っていたのかもしれません。

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登美家とは東出雲王家「事代主・八重波津身」の息子「クシヒカタ」が大和に築いた一族でした。

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下津尾社の向かいには「猿田彦大神社」があります。

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昭和55年に、伊勢市鎮座の猿田彦神社より勧請されたそうです。
猿田彦大神は、「みちひらきの神」として知られていますが、本来は出雲のサイノカミの一柱でした。

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他に「金比羅社」、

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「愛宕社」が鎮座します。

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ひときわ広い敷地を有しているのは桜井市の「護国神社」です。

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桜井市より出征し、戦死した1860数人の霊を奉斎しているとのことです。
昭和30年代に創建されたそうです。

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境内の中で、一段高いところに、等彌神社の本社「上津尾社」が鎮座しています。

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上津尾社は、もとは鳥見山山中にあったそうですが、天永3年(1112年)五月の大雨で山が崩れ社殿が埋没、更にこの年悪病が流行ったため、9月5日に山の尾の現在社へ遷座したと云います。

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上津尾社の祭神は「大日孁貴尊」(オオヒルメノムチノミコト)と呼ばれ、一般には「天照大神」のことと言い伝えられています。
実際にここに祀られているのも、天照大神、すなわち三輪山の太陽の女神であると思われます。

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しかし東出雲王家「富家」の伝承では、大日孁貴と呼ばれたのは大和10代大王「日子坐」(ヒコイマス)の娘「狭穂姫」(サホヒメ)のことであると伝えています。

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狭穂姫の兄「彦道主」(ヒコミチヌシ)は、和邇の地で11代大王となりますが、この時九州から物部イクメ王の軍勢が大和へ東征してきます。
次兄「狭穂彦」が生駒山地の東で、東進して来たイクメ王を阻みますが、しかし狭穂姫はイクメ王と和睦して妻となり、結果イクメ王は大和に進出することになりました。
第二次物部東征と呼ばれるこの事件ののち、イクメ王の妻となった狭穂姫は、三輪山の太陽の女神の司祭者になり、「大日霊女貴」と呼ばれたと云います。

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上津尾社の境内奥に、鳥見山山頂に登る道が設けられています。

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その先にあるのは、神跡「鳥見山霊畤」(とみやまれいじ)となります。

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少し登ると「稲荷社」、

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「黒龍社」があります。
龍神信仰は出雲に始まり、稲荷信仰は物部に始まると聞いています。

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深淵な山道を歩いていきます。
古代には、三輪山の西南にある鳥見山は「登美山」(トビ山)と呼ばれていました。

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鳥見山の山頂は三輪山の太陽神の遥拝地とされ、「登美の霊時」(祭りの庭)と呼ばれ聖地とされていました。
そこは登美家や磯城家を始めとし、ヤマト王国の豪族たちが、祭りに集まる所だったと云います。
そして登美の霊時では、出雲系豪族である登美家の姫が姫巫女となって、三輪山にこもる太陽の女神を祀るのが仕来りとなっていました。

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5分ほど登ると石碑が見えてきました。

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「霊畤遥拝所」です。
鳥見山霊畤自体が三輪山の遥拝所なので、遥拝所の遥拝所、なんてわけのわからないことになっています。

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それは鳥見山霊時を神武が祭祀した聖地などと、歴史を歪めて記紀が記してしまったからなのでしょう。

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尚も道は続きます。

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鳥見山の「鳥見」、等彌神社の「等彌」とは磯城の豪族「登美家」の「トビ」でした。
そしてそれは更に、東出雲王家の「富家」に繋がります。
三輪山と鳥見山は登美家の領地であり聖地だったのです。

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登美家の歴代の当主の一人に「加茂建津乃身」(カモノタテツノミ)がいました。
彼は後にヤタガラスと呼ばれた人物です。
なので、下津尾社から出土した謎の土偶をヤタガラスと解釈するのも、あながち間違っていません。

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登美家は古くから「事代主・八重波津身」を祀ってきたので、「神家」と呼ばれ、「鴨家」「加茂家」「賀茂家」と呼ばれました。

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「庭殿句碑」と案内板があります。

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「庭殿」とは祭りの饗宴に供された場所だそうです。

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第一次物部東征ののち、10代大和大王に就任したのはオオヒビでした。
その時の登美家当主「大田田根子」は「モモソ姫」の世話をし、登美の姫巫女としました。
このモモソ姫が、魏志などにに記される、最初の「卑弥呼」です。

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「最初の」と記すわけは、卑弥呼は一人ではなく、複数いたからです。
主には歴代の「三輪山の太陽の女神を祀る姫巫女」のことを指しています。
ちなみに「卑弥呼」や「邪馬台国」という字は、中国がつけた蔑称なので、表記を控えたいと思います。

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私たちが「ヒミコ」と聞いてイメージするのは「ヤマタイ国」の女王のことです。
彼女は「2番目のヒミコ」とされ、魏国より「親魏倭王」の金印を受け取った、宇佐王国の「豊玉女王」になります。
「倭」の字も中国による蔑称なので、極力使いたくないところです。

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「白庭」と書かれた石碑のある広場に出ました。
白庭とは「饒速日」が埋葬された場所のようですが、饒速日、いわゆる「徐福」は佐賀平野に葬られています。

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白庭は後の設定で作られたものでしょうが、ここは、「登美の霊畤」に進むことが許されていない、一般人が控えて祀りを行った場所と思われます。

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更に進み、登山開始から30分ほど経った頃、目的の聖地が見えてきました。

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「登美の霊畤」です。

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「その女王が立つと和国の戦乱が納まり、平和が訪れた」

モモソ姫初め、代々の姫巫女が祀りを行った大和最大の聖地。

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往古はここから三輪山を遥拝したとありますが、周りは樹木が育ち、展望はほとんどききませんでした。

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さて、奇異なことに、三輪山のすぐ近くには南方面の他に、東にも鳥見山があります。
そしてそこにも鳥見山霊時があると云います。

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そこは車で登っていけるのですが、ちょっとわかりにくい場所にありました。

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磯城・大和王朝第10代大王「ヒコイマス」の娘「狭穂姫」は、大和に進攻してきた九州物部王国の「イクメ王」と一度は結婚し、三輪山の太陽神を祭って 「大日霊女貴」と呼ばれ大変な人気を集めます。

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そこへ遅れて大和入りしてきた軍勢がいました。
イクメ王と連合を組んでいた豊国軍の「豊来入彦」たちです。

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ヒミコ「豊玉姫」の葬儀を終えて、遅れて大和入りした豊来入彦王はイクメ王がサホ姫を后に迎えていることを知ると、これと手を切ることを求めます。
その時イクメ王は、応じざるを得ませんでした。

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豊国の軍勢を引き連れてきた豊来入彦王は、奈良盆地の南方を通り、三輪山に向かって軍を進めましたが、途中で進路を変えます。
彼らは鳥見山の登美の霊時を占領したのです。

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彼らは更に、三輪山の西方と南麓を地盤とする登美・賀茂家勢力の村々から人々を追い払い、豊国の兵士をその村々に住み着かせました。
登美家は物部の大和入りに度々協力したにもかかわらず、裏切られ、三輪山一帯の領地を奪われたのです。
登美家は大和の大豪族でしたが、この時、豊国の兵士の不意の攻撃を防御できず、一部は南河内に逃れたと云います。

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豊来入彦王とともに大和へ来た「豊来入姫女王」は、三輪山の西北麓「笠縫村」に宇佐の月神を祀りました。

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そこは今、「檜原神社」として大神神社の摂社となっています。
当時は陰暦を使う時代であって、月の干満を見て月日を決めたことから、月神は「月読の神」とも呼ばれました。
また檜原神社の月神は、「ワカヒルメムチ」(若霊留女貴)とも呼ばれます。

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豊来入彦らに霊時を占拠された登美家は、やむを得ず三輪山の東の丘を新たな鳥見山(西峠北方)と定め、密かに新しい霊時を決めて、そこで逢拝することにしました。

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それがこの地に、二つの鳥見山と霊時がある理由です。

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かくして一気に世の春を謳歌する豊国軍でしたが、その期間は短く、程なく登美の霊畤は再び登美家が治めるようになるのです。

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9件のコメント 追加

  1. 匿名 より:

    すいません。↑のコメントは出芽のSUETSUGUでした。変なネーミングになってしまってました。

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  2. 出芽の より:

    こんにちは。どこに書けばよいのかわからずここにしました。明後日、等彌神社へ行きます。その後、宗像神社→十二柱神社の行程を予定してます。ちなみに、宗像神社の境内か入口に「登美山鎮座 宗像神社」と書いてある石標が富士林先生の本に写真があり、「登美の零時」とありました。祭りの庭へぜひ訪れたいと思っていますが、宗像神社の入り口近くにあるのでしょうか。

    また、もう一つの、富雄近くの登彌神社には明日行く予定です。建日速命と書かれている祭神は実は大彦ではないかということならば、行かねば。また、添御縣坐神社の武乳速命もまた大彦のことではないかと巷の噂ですけど・・まあ、行きます。宮司さまのお話はネットで見て興味深く聞きました。温かいお人柄の宮司さんの面白いお話でした。ですが、どうにも自分には、記紀にあるストーリーに沿った内容でしたので納得するまでには至りませんでした。

    ナガスネヒコは饒速日を主として仰ぎ、妹を嫁がせた、というのがまず滅茶苦茶じゃないかと思って・・。饒速日って、時代も違うしそもそも徐福は大和にインしてないし亡くなってるし・・第二次東征のウマシマジも借りた名前で架空ぽいし・・稲飯?三毛野?でも彼らのカリスマ性はゼロ。そして、大彦の妹って三炊屋姫なの?モモソヒメじゃないの?とたちまち混乱しちゃいます。

    しかも、ナガスネヒコ(この呼び方も個人的には好きではないです・・)は親方さまと呼ばれ皆から慕われていた、というのはいいのですが、一族のことを思って自決したという伝承は感動的ではありますが少々疑問です。蝦夷と呼ばれながらも、海部(尾張)の人々や大勢の人たちと共に、近江、北陸、東北、長野と追われながらも子孫を増やしていったのが大彦だと思っているからです。(そうしないと、近江源氏も出雲源氏も発生しないでしょう。)やはり、富家の伝承である口伝がベースではないかと思えます。また、一説によると、大和に従った弟磯城がクシヒカタであり、黒速だと。大和朝廷に従わなかったのがナガスネヒコの同族だとも聞きましたが、これまた時代が違うし、その時代は、磯城王朝として、丹後から大和インした村雲らとクシヒカタらが連立政権を築き、3代大王の妃がいずれも登美家から嫁ぎ、天皇とまでではないけれど王朝として大和で最も栄えた時代だったはずで。。大彦は孝元天皇の息子だから時代が違うはずですよね。。はあ、難しい。

     ということで、今をときめく富雄丸山古墳に埋葬されているのはナガスネヒコという説がすごく高いと、書かれてますが、わたくしは、オオヒビの墓なんじゃないかと、そしてモモソ姫?とセットでとか・・。違うかなあ。出土した道鏡に亀や竜の絵とか、出雲っぽいのと、前方後円墳ではなく円墳であったことは気になりますが。大彦のお墓参りは・・・わたくしは長野の布制神社にいずれはと思っていた矢先のことでした。まだ現段階では何もコメントできないくらいわかってないみたいですが・・・信じたくないのでしょうね、被葬者が大彦とは思いたくない。

     それから・・・見つけました。大彦命とはっきりと書かれている神社をもうひとつ。等彌神社から15分も歩いてかからないところ。高屋安部神社。若桜神社の境内社です。安部一族が祭った神社ですね。近くには安部文珠院ありますね。

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 より:

      祭りの庭「鳥見山霊時」はですね、等彌神社の本社である上津尾社の境内奥に、鳥見山山頂に登る道が設けられていますので、そこを15〜20分ほど登っていきます。軽い登山と考えてください。靴はしっかりとしたものが良いかと。
      もうひとつの鳥見山霊時は、三輪山の東の方、十二柱神社方面の公園内にあります。出芽のSUETSUGUさんが写真で見たというのは、こちらかもしれません。富士林先生の本当は、ヤマト政権のことですかね。Googleマップでも確認できたと思いますが、ただこちらは非常にわかりにくい場所にあったと記憶しています。

      添御縣坐神社の話ですが、その近くに大倭神宮という、少し変わった神社があります。
      https://omouhana.com/2018/04/20/大倭神宮/
      そのあたりには、聖徳太子の矢を背負った「トミノオミトイチヒ」が賜ったと伝えられている「矢追氏」の伝承があります。矢追氏は出雲王家の分家か散家か、そんなところではないだろうかと僕は考えています。出雲口伝の断片的なキーワードに、チグハグな伝承は、本家の伝承とそうでない家柄の情報の相違なのではないでしょうか。
      富家では、こうした歴史の齟齬が生じる事を恐れ、一子相伝で過酷なまでの方法で的確に、真の日本史を語り繋いできたのだと思います。
      大倭神宮の記事にコメントをいただいているnarisawaさんの情報もぜひご参考ください。

      高屋安部神社の情報、ありがとうございます。僕も訪ねてみます。

      いいね

      1. 出芽のSUETSUGU より:

        ありがとうございます。大坂へ向かう車中で読ませて頂いてます。等彌神社の境内マップ、五条さん親切にもここにアップしてくださってた(^_^;)のに。。山頂に白庭、零時とあるー!
        すみません、よくよく理解しておりませんでしたm(_ _)m

        三輪山を遥拝する零時のさらに零時遥拝所があるのですね。。
        時間がゆるす限り山頂零時へ行きたいです。スニーカーで気をつけてゆきます。アドバイスありがとうございます🙇

        十二柱神社の近くの公園内の石標のほうが、富士林先生本の写真の方なのですね。バックに鳥居が見えるから、あれは宗像神社なのでしょうね。

        石標に熱意を持って行く、という行為に、家族が理解不能という視線をわたくしに送っています。。。それもそのはず、去年の今頃は、グルメと買い物三昧に明け暮れていたのが、

        「大彦」「野見大田彦」「菅原道真公」検索キーワードのトップになりました。推しなの、と、完全に開き直っております。

        勝手な妄想なのですが、不器用なまでに真っ直ぐな信念があり、長いものに巻かれない頑固もの、でも義理人情はある。というイメージがかの御三方にはあります。それが故に茨の道を歩んでるけれど。。安倍晴明が後に道真公を厚く祀ったのもわかります。良房に、「呪術なんぞに頼らず、天皇自身が徳を積むべきだ。人徳をもって政事を行うべき」と申した道真公。左遷させられてしまいますが、安倍晴明とは同期だったんですね。自分とは真逆の信念を持ってた道真公に対して晴明は、どこかこの人には敵わない、と、一目置いていたのではないかと想像します。

        この2人をモデルにドラマがあったら、白い巨塔ではありませんが、面白いだろうなあと思います。
        また、安倍一族の高屋安倍神社の近くに安倍晴明の文殊院があるのも、同じ氏族の可能性がありそうですね。大彦命と、この漢字で書いてあるとは沙沙貴神社以来の興奮になります(笑)

        歴史をこうして足を運んで辿ると、五条さんが口伝をベースにそれぞれの神様と呼ばれた方々に想いを巡らせながらストーリーにされたくなる気持ちがなんとなくわかるような気がします。

        考察とかは難しいし、そちら方面の識者でもないから、いつかエンタメとして、退職後に旅日記でも書けたらいいなあと思いはじめました☺ かなり偏りそうですけど。

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        1. 五条 桐彦 より:

          霊時と宗像神社は別の場所にあります。
          Googleマップで検索してみてください。
          良い旅を願ってます。

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  3. nakagawa より:

    詳しくありがとうございます。
    (斎木氏の本も通読し、キリコさんの記事も読んでいるのにいろいろ忘れてしまっています。)

    鳥見山はポイントとして出てきたのですが、地図で見ても書いてあることと合わなくて困っていました。
    鳥見山が複数あるという発想がなかったので、おかげで先へ進めそうです。
    改めて地図を見てみると、今のところ計3カ所の鳥見山を発見。
    つい有名なところと結びつけがちですが、そうではない場合もあると改めて思いました。

    日光へ行かれたのですか、いつもすごい行動力でいらっしゃいますね。
    またまた真鍋大覚の話で恐縮ですが、舳艫を高く結い上げた葦舟を「二荒舟(ふたらぶね)」と言うと書かれていまして、「二荒山」の由来なのかしらと妄想しています。
    材料の葦は信濃にたくさんあったのだそうです。だから「信濃」の枕詞が「み薦刈る」なのだとか。

    関係ない話をしてすみません。
    キリコさんの視点で語られる旅のお話をいつも楽しみにさせていただいています。

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    1. CHIRICO より:

      こちらこそ、いつも興味深いお話、参考にさせていただいてます。
      時空の旅を続ける上で、客観的な視点はとても重要です。
      nakagawaさんのアプローチもまた、そうした客観性を取り戻すのにとても有益でして、また違うアプローチが一点で交差する瞬間は、とても興奮するものです。
      二荒舟、おもしろいですね、記事を書く上で、ご参考にさせていただきます!

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  4. nakagawa より:

    こんばんは。
    真鍋大覚氏の本に鳥見山が出てきたのでこちらの記事を思い出し、お邪魔しました。
    鳥見山は二つあるのですね。知りませんでした。
    ありがとうございます。
    それから、カモノタテツミは登美家の歴代当主の一人なのですか。
    余談ですが先日訪れた賀茂神社(うきは市)に賀茂建角身賀茂尊は宇佐から来たという伝承があり、何を意味しているのだろうと思っていたところでした。
    何かを伝えているのでしょうけれど、謎が多くて面白すぎます。

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    1. CHIRICO より:

      おはようございます。
      昨日、日光旅から帰ってきました。
      鳥見山は三輪山を遥拝するための祭りの場「霊時」でしたが、豊彦らの軍勢に占拠されたので、密かに祭りの場を移し、2箇所にその名を残しています。
      豊彦が鳥見山を占拠したのちに、大和笠縫邑で月神を祀ったのが豊姫です。
      豊彦・豊姫は豊国(宇佐)から攻めてきたので、豊来入彦・豊来入姫と呼ばれるようになります。
      豊来入姫は古事記などに「豊鍬入姫」として大和姫の前に天照大神の遷宮の任を承ったと伝えられている人です。

      豊彦ら宇佐族が物部族と手を組み、大和入りをしたのが「第二次物部東征」であり、物部族の五瀬・御毛入・稲飯の三兄弟です。
      和歌山熊野から大和入りを目指した彼らは、高倉下の子孫「珍彦」の攻撃に遭い、五瀬は戦死します。
      御毛入・稲飯らは熊野大社の本宮「大斎原」の中州で進退窮まっていましたが、そこへ助け舟を出したのがカモノタテツミとなります。
      加茂建津乃身は登美家の当主であり、ヤタガラスと呼ばれた人です。
      彼は荒れた大和を一緒に立て直したいと、物部族に手を差し伸べたのですが、実際にはその思いは裏切られたようです。

      加茂建津乃身と宇佐族には直接の繋がりは見られませんが、二度の物部東征を経て、後に彼の子孫「加茂族」の誰かが宇佐を訪ねたのかもしれません。
      後に遷座して、うきはに祖先を祀ったのではないでしょうか。

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