檜原神社:八雲ニ散ル花 56

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至魏景初三年 公孫淵誅後卑彌呼始遣使朝貢 魏以為親魏王假金印紫綬 正始中卑彌死更立男王國中不服更相誅殺 復立卑彌呼宗女臺與為王 其後復立男王並受中國爵命

「魏の景初三年(239年)に至り、公孫淵が滅ぼされた後、卑彌呼は初めて使者を派遣して朝貢した。魏は親魏王と為して金印紫綬を与えた。正始中(240~248年)、卑彌呼が死に、交代して男王を立てたが、国中が服さず、互いに誅殺しあったので、女王に戻して卑彌呼の宗女、臺與を立てて王にした。その後、また男の王が立ち、いずれも中国の爵命を受けた。」

女王豊玉姫の葬儀を終えた豊彦と豊姫は、イクメ王に遅れて大和入りを果たした。
人々は豊国から大和入りした二人を、「豊来入彦」「豊来入姫」と呼んだ。

「イクメのやつは何を勝手なことをしている。敵国の女を后に迎え、あまつさえ姫巫女として祭り上げるとは何事か。」

豊来入彦は、異母兄弟であるイクメ王の勝手な振る舞いに激昂していた。
イクメは兄ではあるが、親魏倭王の女王・豊玉姫の長子こそは我であるという自負があった。
豊来入彦は早速イクメに詰め寄り、彼が姫巫女に仕立て上げようとしていた狭穂姫と離縁させた。

「皆の者聞け、魏国より親魏倭王の後継者として正式に認められた者こそ、我が妹である。これより妹、豊来入姫が三輪山の巫女を務める。そして我こそが大和の大王とならん。」

豊来入彦は、大和の祭りの庭「登美の霊時」を占拠し、三輪山の西北麓、笠縫村に檜原神社を建て、豊来入姫に宇佐の月神を祀らせた。
それは大和・豊王国の栄華が最も輝いた瞬間だった。
しかしそれを面白くないと思う男がいた。
物部イクメ王である。
兄である自分をないがしろにする義弟をハメる、狡猾な計画を思いついていた。

「おい、使者を出せ。」

イクメ王が文を届けさせた先は、旧出雲王家であった。

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大神神社と同じく、三輪山を御神体とする由緒ある神社があります。
それは太古に「倭笠縫邑」(やまとのかさぬいむら)と呼ばれた場所にある「檜原神社」(ひばらじんじゃ)です。

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大神神社から桧原神社へ向かうには、「山辺の道」という遊歩道を歩くと良いです。

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山辺の道には、のどかな遊歩道に沿って古社古跡が残ります。

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また途中には感じの良い茶屋などもあって、

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一息いれるのに良いです。

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さて、檜原神社が見えてきました。

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かってこの付近は「倭笠縫邑」(やまとのかさぬいむら)と呼ばれていました。
「日本書紀」によると、第10代崇神天皇(物部イニエ王)は『宮中に天照大神の御神体を置いておくのは畏れ多い』と、皇女「豊鍬入姫命」(とよすきいりひめのみこと)に託して御神体を宮中から大和の笠縫邑に遷させたとあります。
豊鍬入姫命は、その場所に堅固な石の神籬を造り祀りましたが、それがこの檜原神社です。
やがて豊鍬入姫命から天照大神の鎮座する場所の選定を受け継いだ「倭姫命」(やまとひめのみこと)は、最終的に伊勢国の度会宮(今の伊勢神宮)に天照大神を遷したと記され、故に檜原神社は「元伊勢」と今に呼ばれるようになったと云います。

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が、これは全くデタラメな話であって、そもそも大和にいるかのように記された崇神・イニエ王は九州の都萬国から出ることなく亡くなっています。
イニエの代わりに大和入りを果たしたのがイクメであり、豊彦・豊姫でした。

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檜原神社に来てみると、一般的な神社にあるはずのものがありません。
そう、ここにはおよそ社殿と呼べるものがないのです。
そこは変わった形の鳥居のみがあり、三輪山自体を御神体として直接祭祀する、太古の形式を今に残しているのです。
檜原神社の鳥居は「三ツ鳥居」、または「三輪鳥居」と呼ばれる形式のもので、大神神社では垣間見ることしかできなかった三ツ鳥居とほぼ同じ形をしています。

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田道間守らを大和から放逐し、イクメ王がほっとしたのも束の間でした。
大和王国で最後まで抵抗していた「道主大王」の軍勢に、紀伊国で集めた軍勢を率いて、「武内大田根」が味方したのです。
大田根はイニエ王から宿禰の称号をもらい、「武内宿禰」と称していたくらいなので、当然イクメ王は味方であると思っていたのです。
しかし大田根は、豊玉姫とイクメが謀って、魏国で大田根に銀印青綬と位を授けないようにしたのを恨んでいました。

一時劣勢となったイクメ軍でしたが、豊玉姫の葬儀・築墓を終えた豊彦が率いる豊国軍が、遅れて瀬戸内海から河内に到着しました。
これで一気に形勢を逆転させたイクメ軍は道主王・武内宿禰軍を丹波まで追いやることに成功するのです。

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豊国から大和入りした豊彦は「豊来入彦」と呼ばれるようになり、その妹、豊姫は「豊来入姫」と呼ばれました。
豊来入彦は、妹の豊来入姫を月の女神の姫巫女として、新政権の中心にする計画を持っていました。
しかしいざ豊来入彦が大和に入ってみると、イクメ王は狭穂彦と休戦し、その妹「狭穂姫」を后に迎え、先に三輪山の姫巫女として彼女を任命していたのです。

魏国から和国王に任命された女王は宇佐の豊玉姫であったので、その息子たる豊来入彦は、自分が物部イクメ王より上で、親魏和王の後継者となる資格があると考えていました。
事実、月読の神の信仰を広めて人気を集めていた豊来入姫は、魏の使節「張政」から宇佐豊玉姫の後継者として指名されていました。
つまり彼女が、『魏書』に書かれた卑弥呼の後継者「台与」(トヨ / 臺與)だったのです。

和国が魏国の属国になっている以上、イクメ王もその事実を認めざるを得なかったと云います。
豊来入彦は、イクメ王が狭穂姫と手を切ることを求め、イクメ王はそれに応じざるを得ませんでした。

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檜原神社の敷地内に「豊鍬入姫宮」(とよすきりびめぐう)があります。
由緒では、当地は伊勢神宮選定の折、一時的に天照大神が鎮座した場所なので「元伊勢」と呼ばれていると記されています。

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「豊鍬入姫」は、大和姫に先駆けて天照大神の鎮座地を探し歩いた王女と記紀に記されていますが、事実は豊国の豊来入姫のことでした。
記紀は魏国の属国となった、親魏倭王の事実をどうしても隠したかったらしく、「豊国から来た」ことを示す「豊来」の文字を書き換えて「豊鍬入姫」と記したのでした。

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豊国の軍勢を引き連れてきた豊来入彦は、奈良盆地の南方を通り、三輪山に向かって軍を進めましたが、途中で進路を変えます。
その先には、三輪山の南方、鳥見山の「登美の霊時」があったのです。
豊国の軍勢は鳥見山に攻めのぼって登美の霊時を占領します。
次に、三輪山の西方と南麓を地盤とする登美・賀茂家の人々を追い払い、豊国の兵士をその村々に住み着かせました。
登美・賀茂家は大和の大豪族で勢力をもっていましたが、豊国軍の不意打ちを防御できず、南河内や山城国に逃れることになりました。

豊来入彦とともに来た豊来入姫は、三輪山の西北麓・笠縫村に檜原神社を建てて、宇佐の月神を祀りました。
当時は陰暦を使う時代でしたので、月の干満を見て月日を決めたことから、月神は「月読の神」と呼ばれました。

檜原神社では毎月、満月の夕方に、豊来入姫による月読の神の礼拝が行われました。
春秋の満月の夜に行われた大祭には、多くの人々が参加し信者が次第に増えていったと云います。
豊来入姫は「若霊留女貴」(ワカヒルメムチ)と呼ばれるようになり、やがてその名は月神の代名詞になりました。
しかし「大日霊女貴」(オオヒルメムチ)と呼ばれた狭穂姫が祀る、太陽の女神の時ほどの隆盛には至らなかったと云うことです。

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それまでの登美の霊時に登れなくなった賀茂氏は、仕方なく三輪山の東方の山を鳥見山と定め、新しい登美の霊時とし、三輪山を裏から、秘かに遥拝することにしました。
この新霊時の祭りに、大和の豪族が大勢参列するのを知ったイクメ王は、とある計画を立てます。

親魏倭王には成れないと悟ったイクメ王は、「和国の戦乱は収まった」ということにして、魏国の使者「張政」を国に帰し、魏との国交を止めたいと考えました。

さらにイクメ王は、出雲の富家に密使を送りました。
内容は出雲兵を大和に送り、豊国軍を追い払ったら、三輪山と磯城郡の領地を与えるというものでした。

イクメ王はまたさらに、豊来入彦軍の武力を利用することを考え、豊来入彦に狭穂彦軍の討伐を命じました。
これにより狭穂彦は甲斐国まで追われ、そこで日下部連と苗字を変えました。
狭穂姫は三輪山の太陽の女神を奉じて近江から尾張国の丹羽郡に逃げ隠れたと云うことです。

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豊国軍が近江攻撃に向かった隙に、大和国磯城郡から山城国に追われていた賀茂家当主「賀茂田田彦」(カモノタタヒコ)は、三輪山に向かって進撃しました。
出雲から出陣してきた軍勢の応援を得て、田田彦は旧領地を奪い返し、さらに磯城王家の領地の一部も手に入れました。
笠縫村にいた豊来入姫は、田田彦の軍勢に追われて北方へ逃げるしかありません。

賀茂田田彦は、三輪山の祭祀を復活させましたが、このときから、三輪山の司祭者は男となりました。
豊来入彦は、大王軍を迎え討つために丹波国に陣を敷きます。
大和から追われた豊来入姫は、豊国軍の駐留する丹波国に一時避難しました。
その場所は、天橋立そばにある「籠神社」であると云うことです。
豊来入姫(豊鍬入姫)が避難したということで、そこも今は檜原神社と同じく「元伊勢」と呼ばれています。

こうして物部イクメ王は邪魔者を狡猾に全て排除し、大和の新王朝の大王となったのです。

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