
琵琶湖の東岸、織田信長の安土城で有名な安土に「沙沙貴神社」(ささきじんじゃ)が鎮座しています。

参道入口では、平成30年の台風21号で倒れた大樹の根本が残されていました。

表参道を進み、

突き当たりを右に折れると

重厚な藁葺屋根の神門に出会います。

この折れ曲がる参道、軽いデジャブを覚えます。
そう、あの兵主大社です。

神門の手前には「男石」(おのこいし)と

「女石」(おみないし)。
サイノカミ的な夫婦石がありました。

神門を潜ると、威厳に溢れた社殿が姿を現します。

沙沙貴神社はその名前からお察しの通り、全国の「佐々木」さん発祥の神社だと云われています。

当社周辺にあった佐々木荘が佐々木氏の荘園であったとも。

佐々木氏は出雲王の系譜を持つ古い家柄です。
事代主の子孫が奈良・葛城地方に進出し、その姫君が磯城王朝の后となりました。

日本書紀に、次の記事があります。
「(磯城王朝8代)クニクル大王(孝元帝)の御子に、大彦がいる。かれは狭々城山君の始祖である」と。

もはや偽書と言って差し支えないほど正しい古代史を伝えていない日本書紀ですが、この記述はかなり良い線をいっています。
時代的に、大彦は2代前のクニオシヒト大王(孝安帝)の御子と考えられますが、彼こそが狭々城山君の始祖に間違いありません。
狭々城山君の子孫がこの地方の領主であり、沙沙貴神社の社家を今も続けている、と言います。

本殿の祭神は「佐佐木大明神」と称し、一座に「少彦名命」、二座に「大彦命」(大毘古神)、 三座に「仁徳天皇」(大鷦鷯尊) 、四座に「宇多天皇」「敦実親王」を祀ります。

由緒には、神代に少彦名神を祀ったことに始まり、古代に沙沙貴山君が大彦命を祭り、景行天皇が志賀高穴穂宮遷都に際して大規模な社殿を造営させたと伝えられています。

後にこの地に土着した宇多源氏によって宇多天皇とその皇子であり宇多源氏の祖である敦實親王が祭られ、それ以降佐々木源氏の氏神とされて子々孫々の篤い崇敬を得て今日に至るようです。

少彦名神とは出雲の副王の役職名「少名彦」からきており、ここで意味するのは東出雲王国8代目少名彦「八重波津身・事代主」のことになります。

由緒を素直に受け取るなら、当地に事代主を祀ったのは大彦だったのではないか、と推察するところです。

しかし 三座の仁徳帝、由緒の景行帝云々の話は胡散臭くて見ていられません。

佐々木源氏・宇多源氏にゆかりある人物に、婆沙羅大名の「佐々木道誉」、江戸時代天保年間の大名「京極高明」、『解体新書』を刊行した江戸の蘭学医「杉田玄白」、江戸時代後期に北方・樺太を探索した「間宮林蔵」、日露戦争の英雄・陸軍大将「乃木希典」らがおり、佐々木家、六角家、京極家、朽木家、黒田家、馬淵家、堀部家、青地家、曲直瀬家、森川家、三井家など二百二十余の氏族へと広がりを見せています。

境内には「乃木将軍御手植の松」があり、明治39年(1906年)6月28日に参拝された折、本人が鍬を持って植えたと伝えられます。

ちょっとした作庭もあり、境内全体がまるで庭園のような趣となっていました。

大彦は出雲の富家から「富」を名乗ることを禁じられたのちは、「阿倍」姓を名乗りました。
大彦の第一の息子はヌナカワワケであり、彼の子孫が阿部氏となっていきます。

しかし大彦は大変な人気者でしたので、多くの豪族が姫を嫁がせ、多くの子孫を残すこととなりました。

その大彦の別の子息が「狭々城山ノ君」であったということです。

兵主大社の南側、守山市南部にあたる地域は、かつて物部郷と呼ばれていました。
そこの「勝部神社」には物部氏の祖神「物部布津神」が祀られています。

これは大和の物部勢が、近江の大彦勢拠点を制圧した名残りであると考えられます。

大彦勢が当地を去ったあと、大彦の息子の1人である佐々城山君はこの地に住み着いて、なんとか生きながらえたのでしょう。

近くにある「安土瓢箪山古墳」は、佐々木氏の古墳であると云われています。

ところで楼門の扁額の文字は有栖川熾仁親王、

一の鳥居の扁額は源頼朝公の御真筆とのことで、御朱印にも用いられていました。



「日野が製鉄由来」に関するリンクです。以前に貼らせていただきましたが、バリバリの製鉄用語のササの神社のページにもう一度、クリーンリンク化して情報共有します。
https://www.hinonohi.com/about/hino/%E3%81%9F%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%AE%E9%87%8C-%E5%A5%A5%E6%97%A5%E9%87%8E%E3%81%B8%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%9D/
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ササは鉄!
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気になって「笹」の成り立ちを調べてみたら、国字(日本で作られた漢字)でした。
竹 + 世(木の葉)で、小さい竹…つまり、ササらしいです。
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なるほど🤔
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先祖の地を求めるのでしょうね☺️
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五条先生こんばんは。
沙沙貴神社でご祈祷をして頂き、頂いた神紋の鈴がカバンの中でリンと鳴る度、心晴れやかに清々しい気持ちになります。安土駅近くの老舗和菓子店で夏は、みかん葛バーを買って食べるのがお気に入りです。葛なので垂れないし、アイスより美味しいのでおすすめです☺
ところで、今回の近江旅は白髭神社参拝のために近くの宿をとりました。単に名前で決めました。恵美寿荘(笑)玄関先にうちの家紋と同じ家紋が飾られていて、聞けばオーナーはやはり佐々木さんでした。ご先祖様がなぜ旅館名をエビスにしたのか想像してニヤりとしました(笑)
そういえば、美保神社前の青畳通りにも、鷦鷯(ささき)氏の資料館がありますね。事代主あるところに、ササキありですね。
沙沙貴山君といえば祖は大彦。その関連で最近は伊勢遺跡が気になって仕方ありません。幸い、この度は所長さんから考古学的発見と、伊勢遺跡の他の遺跡には例をみない異色さについて、その理由を伺うことができました。もちろん、所長様は出雲の口伝については触れられませんでしたが、伊勢遺跡は出雲色がとても濃いと仰っていました。伊勢遺跡の一番中央の祭り事の中心であった方画にある建造物には棟持柱があり、それが松江の神魂神社の造りにそっくりだと。所長様は確認のために神魂神社を何度か見に行ったけど間違いないとお話しされました。
そして私は今回、伊勢遺跡で確信に近い感覚を得ました。狗奴国は近江⇔東海なのではないかと。伊勢遺跡周辺の野洲で数十年王国を築いていた大彦。(富治林先生の書籍にも書かれていますが。。)そして三遠式銅鐸を広めた息子の武沼河別の東海エリア。
その南に狗奴国あり。男子を王となす、その官に狗古智卑狗あり。女王に属さず。「其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不属女王」 — 『魏書』東夷伝
以前、五条先生も宮島のブログでこのように書かれていました。↓
「久久能智は木の神とされますが、その名は、出雲族の出身であることを誇りにした磯城・大和王朝の後年の皇子「大彦」、その子孫・阿倍一族の「久々智彦」(くくちひこ/狗古智卑狗)に由来するものだろうと思われます。」
神魂神社は東出雲王家の宮殿。大彦が伊勢遺跡に住居を構え、神魂神社そっくりな建造物のある祭祀空間で近畿式の見る銅鐸を用いて祭祀を行い、祭り事のみのためにあったあの伊勢遺跡で王国を築いていたとしてもおかしくないんじゃないかなあと。
御上神社にも兵主大社にも五所神社にも藤ヶ崎龍神社にも多賀大社にも大彦の痕跡はありませんでした。でも滋賀には大彦やその子孫が残した源郷出雲の痕跡をなぜか感じますね。
唯一、沙沙貴神社に大彦の名前があるのを見ると、安心するというかやはりここは聖地なのですね☺
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多賀大社は行ったことないので次回、ぜひ行ってみようとおもいます。滋賀はまだまだ行きたくても行ってないところがたくさんあります。
前回は、JRの運行が事故で遅れて駅で長い時間ボーッと待ってて、竹生島への船にのりおくれてしまうのが確定寸前だったので、駅員さんに無理ですよね~と話し掛けてしょぼ~んとしてたら、待合にこれまた足止めになっていたおじさんが声をかけてくださり、とても優しい方で駅員さんと一緒に、とりあえず彦根までタクシーのってどうじゃ〜こうじゃあ〜と竹生島までのプランaからBまで(笑)を考えてくださりなんとか行けました。お財布的には寒かったけど、滋賀の温かい方々のおかげで、冬に温かい気持ちになりました。
奈良でも十二柱神社で大雨にあい、バスを待ちで、コンビニもなく、雨宿りできない中、近くに精肉を卸しているお店があって門前でしょぼ~んと雨宿りしていたら、心優しい従業員のオジさまが、三輪の近くに行くからついでによろしければと声をかけてくださいました。こんな大雨だから1時間も待つのは気の毒だと、なんとかミートと書かれてるトラックに乗せてくださいました。大神神社のお守りがトラックにあり、毎年初詣に行かれてることが乗る前にわかって、なんだかホッとして、ご厚意に甘えさせて頂くことにしました。
我ながら、なんか学生みたいなことしてるなあと思いましたが(海外でも日本でもあまりこれはおすすめできない行為かもですが。。)でも、滋賀も奈良も山陰故郷を思いだす懐かしさがありました。京都や大阪、東京などの都ではなかなか遭遇しない出来事でした。
滋賀はとくに、確かに出雲を感じます☺
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去年ここを参拝したときに、少名彦が祀られているところに、願い石があり今でも、石にブツブツいいながら、毎朝手を合わせています。
松江城は前身は末次城と呼ばれていました。近江から出雲源氏分流、末次氏は尼子に仕えており、毛利に攻められ、島根半島に退陣、尼子毛利の抗争の跡地が、忠山にあり尼子一族(山中鹿之介ら)の墓石がありました。古事記に出てくるその山の眼下の小さな小濱。その近くにある奴奈彌神社(野浪神社)の御祭神は少名彦こと事代主でした。
滋賀県と島根県松江市はひよっとして古代の姉妹都市かな?と思うくらいです。宍道湖に浮かぶ嫁ヶ島には竹生島神社(赤い鳥居)がありますよね。そう、琵琶湖の竹生島神社と同じです、市杵島姫さんの。松江では、年に1回、湖中を歩いて嫁ヶ島まで渡るイベントがありまして、今年初めて浮き輪持参で参加します。(浮き輪持参せよと書いてありまして)ただですねえ、富家伝承によると、古代、天穂日命一族は亡くなると赤い牛の背に乗せられここに水葬されていた、というのがありましたよね。。。水中を歩きながら、なんとかそれを思い出さないようにしたいです(T_T) 絶対に忘れるように渡ります(どうやって???(T_T))
沙沙貴神社に話を戻します。いつかお参りをと長年思っていたのが去年ようやく叶いました。実家のルーツがまさか近江、滋賀県だとは知らずに学生時代を京都で過ごしていました。JRで15分ほどで滋賀に着くのに。。。いま思うとなんてもったいないお馬鹿な学生時代だったんだろうと悔やまれます。まあ、サークルで神社廻りはしてたけど、その後の飲み会やコンパにうつつを抜かしてばかりいたんでしょう(^_^;)
五十路になってから、長男が言い出したことがキッカケで、いろいろ調べるようになりました。尼子を攻めた毛利元就も元を辿れば出雲族、東出雲王家出自だったんですよね。。。
こんなブログを見つけちゃいました。難しいけどなかなか面白かったですよ☺
https://romanticism.jp/archives/2201
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滋賀は確かに出雲に近いですね。
多賀大社もクナト信仰だったようですし。
ただ、滋賀の磐座はもっと古い信仰を感じました。
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へえ、寒川と繋がるのですか🤔
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確認を怠っておりました。
はい、迷子になっておりましたね、大変失礼しました😅
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