守屋神社:八雲ニ散ル花 愛瀰詩ノ王篇 番外

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長野県諏訪市と伊那市との境には、標高1,651mの「守屋山」(もりやさん)が鎮座しています。
その麓にある「守屋神社」を訪ねてみました。

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神社はとてもローカルな場所にあり、ともすれば通り過ぎてしまいそうでした。

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この守屋神社、洩矢神を祀る神社であるという話もありますが、

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扁額に「物部守屋神社」とあるように、祭神はあの物部守屋だということのようです。

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松の木の参道が心地よい。

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参道を進むと、すぐに社殿が見えてきます。

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これは拝殿のようです。
それにしてもなぜこの長野に物部守屋が祀られているのか、謎です。

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この件につきまして、以前「ブサイク王」さんより次の情報をいただきました。

「物部守屋の次男の武麿が聖徳太子に攻められた後、諏訪に逃亡して森山(守屋山)に籠り、守矢氏の神長の養子となったという伝承がありますよ。
天保5年の井出道貞著『信濃奇勝録』に記述があります。
守屋氏は物部の守屋の一男弟君と号る者森山に忍ひ居て、後神長の養子となる、永禄年中より官の一字添て神長官と云う、森山に守屋の霊を祀り今守屋が岳といふ、弟君より当神長官まで四十八代と云」

さらに

「気になって調べてみたところ、物部 麁鹿火の母が須羽直(すわのあたい)女・妹古とあります。
これを諏訪とみる説がありますが、丹波綾部の須波伎物部氏とみる説もあります。
須波伎物部氏の氏神とする須波伎部神社の祭神はオオヒルメムチ…佐保姫ですから物部というか複雑そうな気がします。
また、物部守屋神社の鳥居の扁額に「物部守屋神社 従六位物部連比良麿謹書」とあり、揮毫したのは物部神社石見国造金子家の方だそうです。
山梨笛吹に式内社・物部神社(祭神饒速日命 宇麻志麻治命 より物部氏祖神十柱)があり、この地方に物部氏の影響力があったことは否定できないと思います」

と。

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また「らはえう」さんからも、貴重な情報をいただきました。

「守屋山麓に物部守屋神社があるのは子供の頃に登山した時に参拝して知っていました。なので物部守屋は諏訪の人かと思ってました。(笑)
また、諏訪大社上社の近くに松尾山善光寺(昔は諏訪大社上社の敷地内だったとか…)があり物部守屋との関連を感じます。長野市の善光寺の戒壇めぐりは守屋柱をまわります。さらに建御名方神を祀る水内大社は善光寺の地主神(守護)として元は善光寺内にあったと知りました。
諏訪大社と物部氏には隠された関係かありそうですね。
物部守屋神社は出雲石見国 国造の物部神社神職の金子家との事ですが、諏訪大社上社の近くには上金子、下金子という地区(旧金子村)があり御柱祭で柱を立てる先の特殊な神事があるのですが、その地区の氏子のみが行います。
上社のある西山側には金子という苗字の人は多いですよ。苗字で呼びあうとみんな金子になっちゃうから名前で呼び合います。(笑)」

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まず大和が物部イクメに統治されて以降、諏訪はエミシ王国として敵視され、幾度も制圧の対象とされてきました。
当然長野には物部に対する怨嗟が渦巻くことになります。
そこへ聖徳太子に敗れ追われた守屋の次男「武麿」が諏訪に逃げようと考えたことに違和感を感じます。
彼が逃げるなら、それは東ではなく、物部の本拠地、西の九州ではなかったかと。

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須波伎物部氏の氏神「大日霊女貴」は磯城・大和王朝のサホ彦の妹、「サホ姫」を指します。
サホ彦は物部イクメ軍の侵攻を阻みますが戦いに敗れ、サホ姫はイクメ王と和睦して妻となりました。
イクメ王と組んだサホ姫は三輪山の太陽の女神の司祭者になり大日霊女貴と呼ばれますが、遅れて大和入りした豊彦らに追われて近江から尾張へと逃亡してます。
須波伎物部氏はサホ姫の後裔ということになりそうですが、当氏族が諏訪の物部守屋神社に関連していることは無さそうに感じます。

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ブサイク王さんによると、扁額を揮毫した「物部連比良麿」は物部神社石見国造金子家の方だと云います。
またらはえうさんによれば、諏訪大社上社の近くには上金子、下金子という旧金子村があり、上社のある西山側には金子という苗字の人が多いとのこと。
石見は物部進軍の前線基地「物部神社」があり、物部王朝の諏訪制圧において金子家が進出したということなのでしょう。

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拝殿の裏手の階段を登ると本殿がありました。

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撮影し損ねましたが、この社殿の下には四角い穴が掘られており、そこにかつて石棒が置かれていたと云います。
ミシャグチ信仰では縄文中期の石棒・石皿を御神体として祀る風習が残っています。
それは出雲のサイノカミ信仰に似ており、出雲・熊野大社の「鑚火殿」(さんかでん)に収められる神器「燧臼」(ひきりうす)と「燧杵」(ひきりきね)に通じるものがあると感じました。

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つまり守屋山は本来「森山」(もりやま)と呼ばれ、タケミナカタ族と洩矢族が習合した祭祀形態をもった神奈備であったのではないでしょうか。
守屋山山頂には奥宮が鎮座し、そこに磐座信仰の痕跡もあるという話です。

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本殿の裏に回ってみると、何か見えます。

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なんとまだ上があるということのようです。

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僕は長野を訪ね歩いてみて、もっと古い時代に物部族は諏訪に至っていたのではないかという疑問が湧きました。
なぜならタケミナカタが築いたはずの諏訪王国には、あまりに出雲族の痕跡が薄く、また洩矢家の正当な後継である千鹿頭神がある時期に諏訪を追われて出ている形跡があったからです。
これについて安曇野にお住まいのある方から、「千鹿頭は物部に乗っ取られたよ」と教えていただいたことがあります。

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これについて「narisawa110」さんは、物部イクメに欺かれ追われた豊彦が、千鹿頭族と習合して上毛国に移住したのではないかと考察されており、イクメの時代に物部族が諏訪地区へ進出した可能性が示唆されます。
それが石見の金子氏だったのでは。

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そこで僕が考えるのは、物部守屋は、実は物部系洩矢族の出身だったのでは?ということです。
諏訪に入った物部族は現地で、人の良いタケミナカタ族も抱きこんで勢力を有していた洩矢族の地位をそのまま乗っ取ったのではないか、と。
そして聖徳太子より少し先の時代、物部系洩矢族の一人の男が大和で出身、名を故郷・出身部族に因んで物部守屋と名乗ったのだ、なんてのは考えすぎでしょうか。

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しかしまあ、それこそなんの確証もないことではあります。

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大祝やおこうさまの生贄の儀式、また毎回死亡者が出ても尚続けられる御柱祭、その根元にも物部的な考え方が潜んでもいるのではないかと思えたのでした。

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