守屋神社:八雲ニ散ル花 愛瀰詩ノ王篇 番外

投稿日:

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長野県諏訪市と伊那市との境には、標高1,651mの「守屋山」(もりやさん)が鎮座しています。
その麓にある「守屋神社」を訪ねてみました。

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神社はとてもローカルな場所にあり、ともすれば通り過ぎてしまいそうでした。

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この守屋神社、洩矢神を祀る神社であるという話もありますが、

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扁額に「物部守屋神社」とあるように、祭神はあの物部守屋だということのようです。

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松の木の参道が心地よい。

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参道を進むと、すぐに社殿が見えてきます。

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これは拝殿のようです。
それにしてもなぜこの長野に物部守屋が祀られているのか、謎です。

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この件につきまして、以前「ブサイク王」さんより次の情報をいただきました。

「物部守屋の次男の武麿が聖徳太子に攻められた後、諏訪に逃亡して森山(守屋山)に籠り、守矢氏の神長の養子となったという伝承がありますよ。
天保5年の井出道貞著『信濃奇勝録』に記述があります。
守屋氏は物部の守屋の一男弟君と号る者森山に忍ひ居て、後神長の養子となる、永禄年中より官の一字添て神長官と云う、森山に守屋の霊を祀り今守屋が岳といふ、弟君より当神長官まで四十八代と云」

さらに

「気になって調べてみたところ、物部 麁鹿火の母が須羽直(すわのあたい)女・妹古とあります。
これを諏訪とみる説がありますが、丹波綾部の須波伎物部氏とみる説もあります。
須波伎物部氏の氏神とする須波伎部神社の祭神はオオヒルメムチ…佐保姫ですから物部というか複雑そうな気がします。
また、物部守屋神社の鳥居の扁額に「物部守屋神社 従六位物部連比良麿謹書」とあり、揮毫したのは物部神社石見国造金子家の方だそうです。
山梨笛吹に式内社・物部神社(祭神饒速日命 宇麻志麻治命 より物部氏祖神十柱)があり、この地方に物部氏の影響力があったことは否定できないと思います」

と。

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また「らはえう」さんからも、貴重な情報をいただきました。

「守屋山麓に物部守屋神社があるのは子供の頃に登山した時に参拝して知っていました。なので物部守屋は諏訪の人かと思ってました。(笑)
また、諏訪大社上社の近くに松尾山善光寺(昔は諏訪大社上社の敷地内だったとか…)があり物部守屋との関連を感じます。長野市の善光寺の戒壇めぐりは守屋柱をまわります。さらに建御名方神を祀る水内大社は善光寺の地主神(守護)として元は善光寺内にあったと知りました。
諏訪大社と物部氏には隠された関係かありそうですね。
物部守屋神社は出雲石見国 国造の物部神社神職の金子家との事ですが、諏訪大社上社の近くには上金子、下金子という地区(旧金子村)があり御柱祭で柱を立てる先の特殊な神事があるのですが、その地区の氏子のみが行います。
上社のある西山側には金子という苗字の人は多いですよ。苗字で呼びあうとみんな金子になっちゃうから名前で呼び合います。(笑)」

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まず大和が物部イクメに統治されて以降、諏訪はエミシ王国として敵視され、幾度も制圧の対象とされてきました。
当然長野には物部に対する怨嗟が渦巻くことになります。
そこへ聖徳太子に敗れ追われた守屋の次男「武麿」が諏訪に逃げようと考えたことに違和感を感じます。
彼が逃げるなら、それは東ではなく、物部の本拠地、西の九州ではなかったかと。

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須波伎物部氏の氏神「大日霊女貴」は磯城・大和王朝のサホ彦の妹、「サホ姫」を指します。
サホ彦は物部イクメ軍の侵攻を阻みますが戦いに敗れ、サホ姫はイクメ王と和睦して妻となりました。
イクメ王と組んだサホ姫は三輪山の太陽の女神の司祭者になり大日霊女貴と呼ばれますが、遅れて大和入りした豊彦らに追われて近江から尾張へと逃亡してます。
須波伎物部氏はサホ姫の後裔ということになりそうですが、当氏族が諏訪の物部守屋神社に関連していることは無さそうに感じます。

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ブサイク王さんによると、扁額を揮毫した「物部連比良麿」は物部神社石見国造金子家の方だと云います。
またらはえうさんによれば、諏訪大社上社の近くには上金子、下金子という旧金子村があり、上社のある西山側には金子という苗字の人が多いとのこと。
石見は物部進軍の前線基地「物部神社」があり、物部王朝の諏訪制圧において金子家が進出したということなのでしょう。

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拝殿の裏手の階段を登ると本殿がありました。

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撮影し損ねましたが、この社殿の下には四角い穴が掘られており、そこにかつて石棒が置かれていたと云います。
ミシャグチ信仰では縄文中期の石棒・石皿を御神体として祀る風習が残っています。
それは出雲のサイノカミ信仰に似ており、出雲・熊野大社の「鑚火殿」(さんかでん)に収められる神器「燧臼」(ひきりうす)と「燧杵」(ひきりきね)に通じるものがあると感じました。

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つまり守屋山は本来「森山」(もりやま)と呼ばれ、タケミナカタ族と洩矢族が習合した祭祀形態をもった神奈備であったのではないでしょうか。
守屋山山頂には奥宮が鎮座し、そこに磐座信仰の痕跡もあるという話です。

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本殿の裏に回ってみると、何か見えます。

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なんとまだ上があるということのようです。

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僕は長野を訪ね歩いてみて、もっと古い時代に物部族は諏訪に至っていたのではないかという疑問が湧きました。
なぜならタケミナカタが築いたはずの諏訪王国には、あまりに出雲族の痕跡が薄く、また洩矢家の正当な後継である千鹿頭神がある時期に諏訪を追われて出ている形跡があったからです。
これについて安曇野にお住まいのある方から、「千鹿頭は物部に乗っ取られたよ」と教えていただいたことがあります。

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これについて「narisawa110」さんは、物部イクメに欺かれ追われた豊彦が、千鹿頭族と習合して上毛国に移住したのではないかと考察されており、イクメの時代に物部族が諏訪地区へ進出した可能性が示唆されます。
それが石見の金子氏だったのでは。

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そこで僕が考えるのは、物部守屋は、実は物部系洩矢族の出身だったのでは?ということです。
諏訪に入った物部族は現地で、人の良いタケミナカタ族も抱きこんで勢力を有していた洩矢族の地位をそのまま乗っ取ったのではないか、と。
そして聖徳太子より少し先の時代、物部系洩矢族の一人の男が大和で出身、名を故郷・出身部族に因んで物部守屋と名乗ったのだ、なんてのは考えすぎでしょうか。

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しかしまあ、それこそなんの確証もないことではあります。

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大祝やおこうさまの生贄の儀式、また毎回死亡者が出ても尚続けられる御柱祭、その根元にも物部的な考え方が潜んでもいるのではないかと思えたのでした。

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20件のコメント 追加

  1. 不明 のアバター 匿名 より:

    narisawa110

    kaneko様ですが、おそらく金子公爵家の弟さんの方のお血筋ではないかと考えております。片倉物部神社の神社額のご署名は弟様の方のお名前です。

    魂と対話する神秘は神魂神社の秋上氏にも継承され、千家には渡されませんでした。出雲の旧家が千家と婚姻を結んだ割にある意味奇異なことではあります。人の心には必ず綻びが生じるもので、それが王家による、千家の出雲臣呼称の利用許可などに繋がると考えられます。

    ただ、伊弉諾、伊弉冉本来の隠された神性が、橋本家に有るような本質を持つ場合は、物部氏オンリーの関係性とも言えなくもないと思いますので千家には元々無理であったと言うようにも受け取れます。

    まだ公式には明らかではないようですが、東北の守屋の子供の唐松神社、諏訪の神長官家、石上神宮を見ると、少なくともトオチネの代では大まかに術式の体系化が済んでいたと思われますので、景行期に発生し、継体期には神社化したという島根の物部神社の金子様の代数、確か50代というのはやはり隠されてきた何かを窺わせるものだと考えます。

    あと、話は変わりますが、宇佐の系図は公式にはオオミワ、つまり太田家になってるんですよ〜

    系図の誤魔化し方の共通性に最近注目して居ます

    いいね: 2人

    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      金子さんは、物部の母系にあたるようですよ。
      実は近々、お会いする予定です😊

      宇佐と三輪家の接点が、あるにはあるんですよねぇ。穴森神社、とか。

      いいね: 1人

    2. Tomi Kaneko のアバター Tomi Kaneko より:

      金子です。こちらにも失礼いたします。五条様の仰る通り明治以前から母系で婿取りとして金子姓を名乗っている者と他姓となり祭祀に携わっていた者と両方おり、物部神社宮司直系はご承知かと思いますが金子有卿男爵となり神奈川に今も子孫が居住しております。 系図の改変は…あります。はい。

      いいね: 1人

  2. 不明 のアバター narisawa110 より:

    まえにちょっとだけ仮説を述べましたが、やっぱり神長官家って正体が物部氏としか思えないんですよね。
    まず、神長官家の系図です。
    https://www.zero-position.com/entry/2022/12/29/063000

    ここで出てくる片倉氏の祖神である片倉部命がポイントなのです。
    そもそもが諏訪神長官家は、途中で守屋の次男武麿さんが養子入りしていますが、前宮の祭祀が確立したのはこの頃だと言われています。
    故に生贄祭祀や石上や神魂神社の様に魂を呼び出す秘術があり、イスラエル的な建築があり、九州志賀島に共通する鹿の神事があるのだとおもわれます。
    五官の仕組みは、実は京都の加茂神社と同じ形式です。

    守屋の曽祖父あたりの親戚、継体帝あたりの就任を依頼した麁鹿火大連公の父親は、須羽直の女の妹古を妻としています。おそらくこの家がミナカタの血を引いていたと思われます。

    そして、系図上はミナカタの子供の片倉部ですが、実は片倉の子孫は物部一族の子孫を名乗り、物部守屋神社の氏子なのです。
    物部守屋神社の地籍は高遠町藤沢片倉です。
    物部守屋の子孫を名乗る片倉氏は仙台藩にもあります。東北に物部神社があるのは恐らく片倉氏が関係していると思われます。
    https://note.com/oichan2816/n/n1af462c0f630

    そして決定的なのはこれです
    https://note.com/kinuzuka/n/n130d8d0d6ce0#e6e0c5f3-626c-4a6c-8f9d-60bca8d333ef
    引用:
    明治36年3月に長野県知事あてに提出された「村社守屋本務社由緒取調書」の中の「古老伝」です。藤澤に逃れてきた守屋の子孫を称する片倉氏のまとめたもので、そこには
    天目一箇神末裔作で物部守屋の佩剣と伝わる一振りの宝剣を守屋神社の石祠の石室に納めている、というのです。
    また守屋は忌部氏の血も引いており、母親の弓削氏のため、物部弓削守屋が一応、公式の名になっています。

    さて、ここからなのですが、北斗神社おさらいです。あそこの常夜灯だかの石塔に、物部姓が刻まれています。
    https://www.yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo2/yasusada.htm
    あの近くには五官家次席の禰宜(ねぎ、禰宜大夫(ねぎだゆう)) – 小出氏断絶ののち守矢氏兼務→守屋氏管轄 – の屋敷跡があります。
    https://www.yatsu-genjin.jp/suwataisya/sanpo/negitayuu.htm
    諏方において物部氏は再興され江戸中期までは物部姓を名乗っていました。
    この家は、なんと守矢神長官家の分家なのです。つまり、守矢氏の分家の守屋氏は、物部姓を名乗ったという事ですね。

    此処から導き出せるのは、物部氏は記紀服属で系図や代数を誤魔化し、家名を守っていると思われます。
    男系は物部氏、女系は諏訪祭祀のミナカタの系譜で、屋敷神規模の祭祀を物部氏が大きくしたのではないでしょうか?
    現在まで伝わるミシャクジの本質は、実際には物部氏がバックボーンではないかと。

    つまり、出雲系の関東国造系の家が、奈良磯城登美家の先祖にいる千家の女系のサマナ姫を利用してホヒの子孫であるかのように系図をいじり迫害から逃れようとしたのと同じと思われます

    あと、事代主の伊豆建国にある様に安倍系の子孫は名を変えて諏訪祭祀に関わっていると思われ、五官祝家のどれかが阿部系なのではないでしょうか?
    矢島氏辺りが怪しい。先生の行かれた辰野町の諏訪神社の西側の霊園西には清明不動尊石碑があります。

    結論として、神長官家の系図のミナカタのあとの「片倉部、出早雄、守達神」は全て物部氏だとしても私はもう驚きません。

    原始諏訪信仰のソノウ神は、ミシャグジの前からの神とされ、両者が習合したのが今のミシャクジと思われます(御室神事)。
    何と、ソノウ神は、白の蛇体の女神なのだそうです。この神が、穢れを嫌う神なんですって。こっちの方が出雲的ですよね。

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      narisawaさん、いつも貴重な情報ありがとうございます。
      返信が遅れて、失礼しました。

      ソソウ神(ソノウ神)が諏訪の原始的信仰であり、ミシャクジは後から派生したものだと、最近別の方からも情報をいただきました。
      僕は越智=阿波系の一族が天竜川を遡って、諏訪まで至っていたという仮説を立てていて、そこから更に北上して越(越智)国を築いたのではないかと考えています。
      それはおそらく出雲族渡来よりも古い時期に行われていて、白蛇祭祀がその時に持ち込まれていたという僕の考えにとても合致したものです。
      阿波・越智族は出雲族が鉄を生み出すよりも古く、黒曜石を求めてその勢力を広げていたのではないか、と最近考えるようになりました。
      天之冬衣のお后やミゾクイ姫、沼川姫も、阿波・越智由来の姫であった可能性を、現在考察しています。神津島に伝わるところでは、阿波姫は三島大神の本妻であり、つまりミゾクイ姫のことだったということになります。

      しかしながら、ミシャクジ信仰になると、生贄的要素がつよいあの禍々しさはどこから来るのだろうと不思議に思います。
      当時の諏訪一帯は厳冬であったでしょうから、生きるためにそのような思想が生まれたのかもしれません。
      ある人はユダヤ的だと言いますが、それにしても壮絶な気がします。
      物部由来だとしても同じです。
      薙鎌打ち神事も、御神木を傷つけるという祭祀を、他所ではほとんど見ることがありません。唯一、和歌山の鎌八幡宮で見ることがありました。
      これは丑の刻参りに通じるような、なんとも背筋の寒くなる思いがします。
      ソノウ神をミシャクジに変えた力とは、どこから来たのか、未だ僕には納得できないでいます。

      ただ、諏訪に物部がやって来て、諏訪の歴史を大きく書き換えているとしても、そう驚きませんね。
      記紀も、物部守屋が亡くなって大きく衰退したにもかかわらず、あれほど物部優位に書いてあることが不思議でなりません。

      ソノウ神は、白の蛇体の女神で、穢れを嫌う神とのこと、これはいわゆる瀬織津姫を表しており、宮崎の瀬織津姫の聖地、速川神社の神体が白蛇であることと共通するのではないでしょうか。つまり、出雲的であるのですが、それ以上に阿波的、越智的と言えるかもしれません。
      出雲の龍蛇神がセグロウミヘビであるのに対し、太平洋側では白い筋の入ったはちまき石の磐座が点在し、静岡三保の松原は常世から来る神に、はちまき石を納めます。

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      1. 不明 のアバター narisawa110 より:

        もしかしたら九州の安曇氏と関連付けられたアズミノイソラと同じ構図が諏訪においても出来上がったのかもしれません
        日本書紀の神功皇后に後付けでぶら下がる様にして記紀に全く出てこないイソラの話が地元で作られました

        対して、古事記にだけ出てくるミナカタは、本来であれば隠されたままのはずの存在です

        つまり、古事記編纂に関わった忌部氏だけが一般には隠されたはずのミナカタの話を後で半ば公然と追加できた様な気がするのです

        ミシャクジは、やはり社宮司であり、地元でいう婿殿の様な呼び方で、忌部天太玉に関連すると思われるヤサカトメ、天白社との重曹関係からしても、戦で撤退した大彦のエリアにミシャクジが存在しない事と符合する気がします
        大彦は忌部を伴わずに北陸三島(越知)を頼って移動して、清水峠から関東方面に展開して息子の阿部と日高見国になった
        神功皇后はヒボコの弟の家系である中臣家と仲が良かったので物部忌部エリアを使用せず大彦越知ルートで竹葉瀬君を呼び寄せた

        物部と仲が良かった忌部氏は、大陸出自ではなく、出雲の事代主の系譜を、中臣のミカヅチの様に名乗ったのかも知れませんし、出雲伝承だとミナカタは諏訪にはあまり留まらずに関東に向かったという話と矛盾が出ません

        新潟には道祖神やクナト神は存在しますが、社宮司はほぼ存在しません
        ミシャクジは火焔土器などの縄文文化との関連は薄いと思われます

        麻績村、安房峠、よく考えれば長野県は忌部氏の色彩は色濃く出ていますし、伊那富など、冨地名も多いです

        南からのルートのミナカタ入諏方伝承はイセツヒコと同一視する説があり、ヤサカトメが天白の姫である説を補強すると考えられます

        諏訪の下社は安曇氏が持ち込んだとも言われますが、穂高神社の摂社である南宮社で御柱をやっていたのであれば、ヤサカトメ安曇説が出るのもこれまた頷けます

        ほんのつい最近まで、四国の神社からミナカタが諏訪に連れて来られたという話を与太話として切り捨てていましたが、とても注目に値する気がしています

        第一次物部東征で忌部氏が関東まで伸長
        第二次東征後に物部氏が再び関東に
        それぞれ関東ミナカタ勢力との縁で長野にまで集合が進んだ

        ミナカタという事にされた守屋家の入諏方が、神話の時代に持って行かれて、真実は隠された

        忌部氏によりミナカタのルートが二つに分かれたので、ヤサカトメも二つに分かれた

        穂高の上高地の隣のエリアが安房峠です

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        1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

          なるほど、確かに説得力がある内容ですね。ご考察、参考にさせていただきます!
          タケミナカタの伝承にはブレがあり、それは彼の全ての話は、一人の人物の話ではないのではないかと考えていました。
          阿波ミナカタ=イセツヒコというのも面白いと思います。
          ただ、この辺りの話は、現在僕がハマっている阿波・越智も含めて、とにかく漠然としており、結局どういう風にも話を結びつけられてしまうことになりやすいです。
          決定的根拠がない以上は仕方ないのですが、もう少し旅を続けて、僕なりの考察の結論を導き出したいと思っています。
          長野には、あと2回ほどは、旅したいと思います。

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  3. 不明 のアバター らはえう より:

    今年(2023年)になって、物部氏の本拠地にある奈良県富雄丸山古墳(4世紀後半)から国内最大となる長さ237センチの蛇行剣が出土したとニュースになっていました。
    そこで、ピンときたのですが、
    諏訪大社上社本宮のすぐ上にフネ古墳、片山古墳があります。5世紀前半の方墳とされていて、西日本ではいくつか出土していますが、信濃では他に見られない蛇行剣が出土している事を思い出しました。

    フネ古墳の埋葬者は、「古墳の立地や呪術性を持つ副葬品(蛇行剣・鏡・釧・鹿角小刀子等)が大量にみられることから、被葬者は武力と呪術性に傑出して天竜川上流と諏訪湖水系を統治した人物と考えられている」→wikipedia抜粋

    その頃から物部氏族が統治していたのかもしれませんね。
    北信濃の安曇野は安曇族が古代から入植してますし、諏訪勢力の最盛期には安曇野の穂高神社も御柱祭が行われていたと聞きました。

    諏訪大社下社ではお船祭りもありますから、
    安曇族も諏訪に古墳時代より前に入植してきていたのかもしれないです。
    弥生時代〜古墳時代頃の土器の分布で、松本と安曇野、下社のある諏訪湖の北側の岡谷、下諏訪あたりは北陸式土器で、上社のある諏訪湖の南西は甲斐式土器が出土していると上社にある博物館の学芸員の人に聞いたことがあります。
    甲斐(山梨)は物部神社もあり、物部族は南から諏訪に入植してきたかもです。

    古代の諏訪地域は八ヶ岳山麓中心に縄文文化もかなり栄えていたし、弥生時代から出雲族、物部族や安曇族も入植して、西日本(倭国)と東日本(日高見国)の境目にあたる地域で、欧州のスイスのような場所だったんじゃないかなって思いました。

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    1. 五条 桐彦 のアバター 五条 桐彦 より:

      富雄丸山古墳のニュースで蛇行剣というものを意識するようになりましたが、その名の通り、この剣は龍蛇神を表しているのかもしれません。ではその持ち主は龍蛇神信仰のある一族なのかも。
      洩矢族は蛇神信仰があったと想像つくのですが、支那系の物部族に果たしてそのような信仰があったかは確信が持てずにいます。
      ミシャクジの狩猟系祭事や常に死者の出る御柱神事はユダヤ的な印象もあり、そうした血統をもつ一族が出雲族よりも古い時代から諏訪にはいたのではないかと、最近考えるようになりました。

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  4. 不明 のアバター narisawa110 より:

    最近すごいニュースが入ってまいりまして。
    諏方の御柱ですが、説によると成立は桓武記以降という考え方もあるんです。
    そして、最近になって、安倍家の系図の方が諏訪で伝承を公開して居ます。

    結論から申し上げますと、物部家は諏訪で再興されており、江戸末期に断絶しましたと言う事なのです
    なんと諏訪の五官の祝の職のうち、禰宜大夫が、物部家の世襲だった事が分かりました。

    諏方大社本宮近くには、妙見=カガセオを祀る北斗神社があり、昔から石塔に守屋ではなく、物部姓が刻まれている事が長らく謎になって居ました

    その情報を持ってる人が、桓武天皇の関係で、伊勢神宮の棟梁だった安倍家が、名を変えて諏訪に来たと言う事なんです。
    まさかの桓武期情報がでて少しワクワクの状態です

    いいね: 1人

    1. 五条 桐彦 のアバター CHIRICO より:

      桓武期、藤原全盛期で坂上田村麻呂の時代ですね。有員大祝も絡む話なのでしょうかね。何かが紐解けそうな予感♪

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      1. 不明 のアバター narisawa110 より:

        下社は、安曇族が出雲系を連れてきたとも出て居ますので、おもしろ情報だと思いますが、地元情報と照らし合わせると、実は驚くほどの確度の分野があり、驚いています。
        辰野町の病院近くの諏訪神社ですが、矢島家の話が出てきますが、実は現在でも女性宮司で、それにも言及があり、注目しているところです
        改めて、人の口伝、出雲伝承の正確さというか、他の事例も出てきた所で偉大さを再認識して居ます

        いいね: 1人

        1. 五条 桐彦 のアバター CHIRICO より:

          隠されていた真実が、だんだんと表に出てきているのでしょうか。僕は明日、吉野ヶ里遺跡に行ってみるつもりです。最近新たな発掘が始まっていまして、ちょっと楽しみにしています。

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      2. 不明 のアバター narisawa110 より:

        最近、大元本を見直しています。
        昔の本も取り寄せており、五条先生の本の元になったのはコレかな?とか考察を巡らせております

        物部守矢の政変は、中臣家も一緒に関わっているんですね
        大友皇子は、関東(鹿島の近く?)で亡くなったとも

        その後、蘇我と物部の血が入った桓武天皇の期に鹿の神が大移動を始めたとかかもしれません
        京都の四神対応を見ると正に安倍家が隆盛の時代の様にも映ります

        あと、話は変わりますが、飛鳥時代と宗教騒乱の本は、焼き直しされて再販されてますよね
        何と、新しい本のカラーの表紙の折り込み側に富編集長の写真が追加されていて驚きました

        いいね

        1. 五条 桐彦 のアバター CHIRICO より:

          すみません、いただいたコメントが迷子になっていて今気がつきました。
          返信が遅れて大変失礼しました。

          そうなんですよ、折り込みのあの写真は驚きですよね。
          しかもかなり若い(笑)
          斎木雲州著のいくつかの本では焼き直しがされていますね。内容的に大きな変更はないのですが、呼称などが若干変更されているようです。

          いいね

  5. 不明 のアバター narisawa110 より:

    もうちょっと掘り下げてみました。
    今井さんの説は、諏方大明神画詞からの引用かもしれませんね。

    https://www.wikiwand.com/ja/%E5%85%AB%E5%9D%82%E5%88%80%E5%A3%B2%E7%A5%9E

    更には延宝2年(1674年)の『諏方講之式』では「下宮亦八坂姫之云豊姫神」とあり、豊姫は八坂刀売神と比定されている。『高島藩書上帳』にも、下社の女神に関して「又名高知尾豊姫命」とあると出ています。

    ぐぬぬ、ここでもまじりあってファンタジーになっているのかもしれませんね・

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    1. 五条 桐彦 のアバター CHIRICO より:

      うわ〜すごい情報が出てきました!
      前々から諏訪と阿蘇・高千穂の不思議なリンクに?となっていましたが、またしても。
      高知尾=高千穂とみれるのかもしれません。
      また高千穂に祖母山があるのですが、祖母神豊玉姫を祀る山なので、その名がついたと云います。
      そこにオロチ伝承があるのですが、その大蛇が日向国の高知尾明神であると伝えられています。

      穴森神社:八雲ニ散ル花 アララギ遺文篇 番外

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  6. 不明 のアバター narisawa110 より:

    守屋氏に関して色々考え中の私narisawa110です(笑)
    事代主の子孫なら、代数が120代以上を数えるはずの神長官家が、物部守屋の息子が婿入りしたのが第三代。で、80代程度。おかしい。おかしいのです。
    物部の色彩が思った以上に強いのが、神長官家の守矢家です。

    さて、タテミナカタの奥さんは、安曇族の長の妹説と、もう一つ、伊勢国の姫説があります。野菊さんはその説をとります。
    何と、天白神→天八坂彦→八坂斗女。(ヤサカノトベ?)
    イセツ彦が長野県に逃げてきたという伝承もある何でもありの諏方ですが、物部の親戚の八坂入彦系なら相性は良さそうです。
    伊勢と伊那谷(一説によれば稲谷)は、製鉄に関しては伊勢と全く同じ地名があります。箕輪とか(私の自宅があるのは南箕輪村)
    天白神のシンボルは、何と北斗七星。もうカガセオ的な道教の神様なのです。
    ただいま、今井野菊さんの「神々の里」を読んでいます。月神の話が出てきたらもうバッチリかもしれませんね。
    実は、ここが富編集長に聞きたいところなのです。事代主40代分は何処に行ったのか?守矢はやはり、(物部)守屋ではないのか。
    非売品の野菊さんの本、「洩矢氏族 千鹿頭神」には、「紀元前数世紀か?」と括弧書きでタテミナカタが入ってきたと、出雲伝承に迫る記述があります。
    時期的に、タテミナカタと八坂は婚姻できない。長野に来た安曇も無理。しかし、後年の物部氏なら、可能。
    どうも、以前書いた、タテミナカタが諏方には行ったときには、すでに事代主が居たという、今は参照できないHPの根拠はこの本にあるようです。
    「洩矢氏族 千鹿頭神」39P抜粋。
    出雲民族タテミナカタが信濃に入ったことは、当時すでに出雲民族が信濃国に先住し、その同族たちの迎え入れがあった・・・
    千鹿頭神が上毛野に以降した事は、同地には洩矢民族が先住していた事の裏付けと見てよい

    時間的な認識の重複があるのか、ただ単に系図を保つことが出来なかったのか?うーむなのであります。
    富士見町の休戸千鹿頭神社にはヤマトタケル伝承があります。諏方にも物部氏は攻め込んできていると考えられます。
    私のレコ。キリコさんは高ボッチ行かれたんですね。鉢伏山はとなりのピークです。
    https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-1348617.html

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    1. 五条 桐彦 のアバター CHIRICO より:

      富氏はどうでしょう、タケミナカタの話に関してはあまり情報をお持ちではないかもしれません。
      富氏への意見の相違から仲違いしましたが、以前Facebookで知り合った方に、タケミナカタの御子孫を称する方がいました。彼はタケミナカタとヤサカトメ媛の子孫だとおっしゃっておられます。
      お父様、御祖父から伝承を受けているそうで、彼の主張は超古代的な話になっており、メソポタミアやムーなどに至るものです。
      それはさておき、その方のお話では出雲族と共闘したのが安曇族であり、たしかヤサカトメ媛は安曇族の媛でした。出雲族の王にスサノオや五十猛も出てきて、いやそれは海部じゃないの?って内心思っていたのを覚えています。

      諏訪は阿蘇にも関連があり、もう頭ごちゃごちゃです😅タケミナカタの子孫はとうに諏訪を捨て、伊豆にでも行っちゃったんですかね。高ボッチからの景色を見た時は目が潤みましたが、僕ならあの富士山を目指して歩いてみたくなります。

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      1. 不明 のアバター narisawa110 より:

        ただいま戻りましたです。
        今井野菊さんの本には、八坂斗女の本名が載っています。
        伊勢国多気郡麻績(たけごおりおみ)の豪族の媛、高知尾豊姫巫(たかしるおとよひめみこ)豊が出てきちゃったw

        『先代旧事本紀』天神紀に「八坂彦命、伊勢神麻績連等の祖」とある八坂彦命の後裔とする説がある。と出ています。
        https://genbu.net/saijin/yasakatome.htm

        確か出雲伝承だと、イクメの異母兄妹でしたっけ。
        長野県松本市の北には麻績村があります。物部との相性はよさそうな印象ですね。

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