熊野大社(出雲):八雲ニ散ル花 53

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顔を上げると、天宮山にうっすら朝霧がかかっていた。
敷地に湧き出た清水で手口をすすぐと、冷たさが身にしみて、意識が目を覚ます。
大田彦はおもむろに社の前に向かい、そこへ正座し祝詞を唱えた。

物部軍との戦いに負けた東出雲王家は、「富家」の名を「向家」に変えた。
外国では旧王朝の親族は、新王朝の兵によって皆殺しにされるか、国外へ亡命するのが常だった。
しかし古代日本では、旧王朝の親族でも姓を変えれば許される、という慣行があった。

富家の当主、17代少名彦の「大田彦」が敗北宣言をした後、物部の将軍「十千根」と講和条約を締結したのは、出雲王家の代理を買って出た穂日家の「日狭」だった。
条約の内容は、出雲国を除く広域出雲王国の支配権を物部政権が受け継ぐこと、王宮を十千根が使うこと、などであった。
700年以上続いた日本最初の王国は、ついに終わりを告げたのだった。
大田彦は八雲村熊野に移り、そこに屋敷を構え、邸内に久那戸社を建てた。
社には始祖の「クナト王」と、祖先にして富家の大英雄「事代主」を祀った。

祖神への朝の参拝を終え、大田彦は大きく息をつく。
返答を伺いに日狭が屋敷を訪れたと先ほど従者が告げにきていた。
日狭の頼みとは、大田彦に、あの田道間守を討って欲しいというものだった。

「日狭殿、ご存知の通り、物部は我が王国に終わりをもたらした張本人である。その物部イクメ王が田道間守を邪魔だといって、私が手伝う義理はない。」
「それはもっともだが儂は終戦の手続きが忙しくての。無理を聞いてくれぬか、大田彦殿。」
「うむ、がしかし、我が民に直接手をかけたのは、あの田道間守だ。物部のためではない。出雲の民の無念を晴らすために、貴殿の申し出、この大田彦が承ろう。」

かくして大田彦は、出雲各地にいる旧王国の兵士を呼び寄せた。
一時ののち熊野の屋敷前には、一大軍勢が揃う。
大和からは、大和直の祖「市磯長尾市」(イチシノナガオチ)が、出雲まで大田彦を迎えに来ていた。

「出雲のもののふ達よ、先の大戦では苦しい思いをさせてすまない。田和山の神殿は破壊され、我が重鎮、飯入根を含む多くの同胞の命が失われた。これを指揮したるは田道間守である。奴は先祖の逆恨みで我らに剣を向けたのだ。
今、我らは復讐の機会を得た。今こそ不当に散った我が民の命の重さを、奴らに償わせる時だ。我は名を変え、出雲の雷となって、宿敵田道間守を討つ。我が名は野見、野見の大田彦なり。」

一斉に兵士らの劇声が鳴り響いた。
それは熊野の山々にこだまし、出雲に響く雷鳴の如しであった。

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松江市の八雲町、山あいを流れる意宇川(おうがわ)を渡った先に、「熊野大社」があります。

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熊野大社といえば和歌山の本宮を思い浮かべますが、歴史的には当社が古く、和歌山の元宮と言うこともできるでしょう。

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朱塗りの橋の先に、幽玄な世界が広がっています。

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この赤い橋は「八雲橋」と呼ばれ、

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その下に意宇川が流れています。

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意宇川とは「王の川」という意味で、この下流に神魂神社など、旧東出雲王家の町がありました。

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物部との戦に負けた東出雲王家の富家は、王宮を物部十千根にゆずり、意宇川を遡って熊野の地に館を構えることにしました。

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なぜ熊野の地であったかというと、当地は古来より、東出雲王家にとってここだけは譲れない、最重要な聖地であったからだと思われます。

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隋神門に掛かるしめ縄も、出雲大社のそれに負けず劣らず立派なものです。

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程よい広さの境内には、朝の空気も相まって、神聖さに満たされています。

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戦に負けた富家に代わり穂日家の韓日狭(カラヒサ)が、出雲占領軍司令官だった物部十千根と終戦の手続きを行いました。
そこでは、今後、出雲国だけを残し、出雲領であった他の国々はイクメ王朝に任せるという取り決めがなされます。
富家の旧王宮は十千根に譲られ、その奥部屋には、熊野速玉神がまつられましたが、それが今の神魂神社となっています。
出雲の監視役は十千根が引き継ぎ、その子孫は秋上家を名のりました。
日狭は王宮跡近くに屋敷が与えられ、秋上家に仕えることになりました。

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王宮を去った富家は熊野に館を構え、向家(ムカイ)と名を変えました。
邸内には祠を建て、始祖「クナト大神」と祖先「事代主」を祀りましたが、後世には邸内社は独立し、次第に大きくなって、今の熊野大社になったと云います。

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ところが当社、熊野大社の祭神は現在、
 「伊邪那伎日真名子」(イザナギノヒマナコ)/伊邪那伎命がかわいがった御子
 「加夫呂伎熊野大神」(カブロギクマノオオカミ)/熊野の地の神聖なる神
 「櫛御気野命」(クシミケヌノミコト)/素戔嗚尊(スサノオノミコト)の別名
となっており、これは全てスサノオのことを讃えた言葉であると伝えています。

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これは富家・神門臣家に取って代わって、後に出雲で力をつけた穂日家によって、祭神が書き換えられたことを示しているようです。

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富家にとって熊野が最大の聖地とされた理由は、大社の対面にそびえる天宮山に、8代目少名彦「事代主」の遺体が眠る磐座があるからでした。
『出雲国風土記』に「熊野大神の社坐す」と書かれていますが、熊野山とは現在の天宮山のことですので、熊野大神は本来、事代主を示していたことになります。
富家の伝承によると、スサノオとは渡来人「徐福」のことですので、穂日家や物部家、海部家といった一族の大祖神なのですが、古代出雲の聖地とは関係がないのです。

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また、「クマ」とは神に供えるための米の古語で、それを栽培した野が、クマノだと云われています。

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熊野大社の創建は神代と云われていますが、 中世に入ると、熊野山の麓に鎮座し、「上の宮」と「下の宮」の2社に分けられていたそうです。
今も天宮山の磐座のそばに、上の宮跡が残されています。

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本殿右側に、「稲田神社」が鎮座します。

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祭神はスサノオの后「櫛稲田姫」(クシイナダヒメ)ですが、クシナダヒメのモデルとされる「稲田姫」は、出雲の初代王「菅之八耳」(スガノヤツミミ)の后であって、スサノオこと徐福とは、時代が合わないことになります。

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左側には稲田神社より一回り大きく造られた「伊邪那美神社」があります。

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イザナミはスサノオの母神であるという、神話上の設定で造られているようです。

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大社造ではありませんが、小ぶりな風格ある神殿です。

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境内の更に奥に「御神水」が流れ、

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「荒神社」と「稲荷社」が並んで鎮座しています。

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毎年10月15日、出雲大社の宮司は「古伝新嘗祭」で使用する「燧臼」(ひきりうす)と「燧杵」(ひきりぎね)を授かるために、熊野大社で「亀太夫神事」を行います。

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この「亀太夫神事」において、出雲大社の宮司は「餅」を熊野大社に奉納するのですが、 面白いことに熊野大社側は、その「餅」の出来栄えに苦情を言い立てるのです。
そして神事が滞りなく終わると、出雲大社の宮司が「百番の舞」を奉納して終了となります。
この奇妙な神事と関連するような話が、富家の伝承にあります。

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熊野大社が向(富)家の領地であった頃、祭りになると、各地に散らばった旧出雲の人達が帰省参列し、各地の出来事を向家に報告するようになりました。
それはやがて「散自出雲」という秘密情報組織になり、日本の大事件の裏表を探る仕事を行うようになっていったと云います。
その結果、向家に「日本史の真実」の情報が集まったので、出雲の地元では、向家を「日本史の家」と呼んだそうです。
大元出版の本は、この情報などをもとに著作されているようです。

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ある時、穂日家の日狭が向家の姫を嫁に求めました。
当初は難色を示したものの、時代が変わったので、旧王家はこれを許します。
しかし旧王家の血が入ったことで日狭は、勝手に出雲臣家を名乗りはじめました。
本来、出雲臣家は向家が名乗っていたのですが、2家がこれを称する状態になったのです。

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そんな折、物部王朝を築いたイクメ大王は、物部十千根を出雲国造に任命しました。
すると穂日家で日狭の息子「ウカツクヌ」は怒って、家族を連れて大和まで押しかけ、自分の功績が十千根より勝ると主張しました。
穂日家が国造になる方が、出雲は良く治まるとあくまで言い張ったと云います。
結局、国造家は穂日家に変えられ、『旧事本紀』や『新撰姓氏録』に書かれているように、初代国造はウカツクヌが任命されました。

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穂日家が物部王朝から出雲国造家に任じられたことで、出雲において穂日家が強くなり過ぎることを、出雲の豪族たちは恐れました。
そこで旧出雲両王家の親族たちは相談し、「財筋」(たからすじ)という秘密組織を作って、穂日家を牽制することにしました。
財筋とは、富家と神門臣家の王族連合体であり、後には北陸の蘇我家も加わっていたそうです。
ある時、穂日家が自分たちの巨大な古墳を築く気配がありましたが、そうなると、出雲人が重労働で苦しむことになるので、それを防ぐ方法を財筋が考えたと云います。
以来、出雲国造の古墳は、出雲国内には1基も存在していないのです。

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こうした経緯が、亀太夫神事で「餅」の出来栄えを、出雲大社の宮司に苦情を言い立てる様子に表れているように思うのです。

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境内には茅葺のひときわ目につく建物があります。
「鑚火殿」(さんかでん)という建物で、神聖な火を起こすための発火の神器「燧臼」(ひきりうす)と「燧杵」(ひきりきね)が保管されています。

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「燧臼」は約100cm×12cm×3cmの檜の板で、「燧杵」は長さ80cm×直径2cmの卯木の棒です。
これは熊野山(天宮山)の御神霊が本殿に遷されたことを示すために熊野山の木で作られ、火切神事が行われたことに由来します。
古来出雲では、臼は女神で、杵は男神だとされ、突いて出来た「餅」は子宝だとされました。
臼と呼ばれる板の上で杵を錐のように擦って火を起こし、その火で神に供える食事を作り、「火切り臼」と「火切り杵」は神の依り代として尊重されたと云います。

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東征に成功した物部イクメは、新大和王朝で大王になりました。
しかし、大和に先に領地を広めて有力になった田道間守は、自分が大王であるかのように振る舞いました。
困ったイクメ大王は、出雲にいる秋上十千根に田道間守の勢力を抑えるように指示します。
そこで十千根は、国造である日狭に、出陣を頼みました。

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ところが日狭は出雲ではまだ人望がなく、命令に応じる者はいなかったそうです。
仕方なく、日狭は熊野に住む旧王家の向家に、出陣を頼まざるを得ませんでした。
出雲王国を亡ぼした物部政権に協力することに、大田彦は当然気が進みません。
しかし田和山神殿を破壊した田道間守に、何としても復讐したい気持も持っていました。
またそれは、田和山で戦死した向家の飯入根の霊を慰めることでもありました。

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大田彦は、「富家」の名を「野見家」に変え、野見大田彦と名乗ります。
ついに野見大田彦は、旧東出雲王国の軍勢を率いて出陣しました。
出雲軍は奈良盆地に西北から侵入し、当麻に割拠する田道間守軍の兵士を探し出し、ことごとく河内国に追いやっていくのでした。

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