神魂神社:八雲ニ散ル花 14

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「ふざけるなっ!」
大庭の王宮に、豪雷のごとき怒声が響いた。
「今すぐ穂日の連中を斬りつけてやるべきだろうが」

出雲の八千戈王、八重波津身副王の遺体が、相次いで孤島の洞窟で見つかった。
すでに腐敗した遺体は、無残なものだった。
手を下したのは、近年出雲にやってきた渡来人の一族であることは、皆勘付いている。
そもそも出雲の民が、人徳ある王と副王に手をあげるはずがない。

遺体はそれぞれ、王家の聖域にある磐座に埋葬された。
出雲では遺体は穢れとみなす。
よって王家の者が直接遺体に触れることは許されない。
彼らは遠く離れた場所に拝石を設け、そこで王の遺体が眠る神名備山を遥拝する。
八重波津身副王、いわゆる少名彦・事代主の拝石も置かれた後のことだった。

王宮に集まった王家の面々の中で、御名方の怒りが爆発した。
副王は有事のために、兵士の訓練も行っていた。
その中で腕力に秀でた息子の御名方は、様々な技術に長けた渡来人相手にも、負ける気がしなかった。
しかし、他の長老たちは違う。
古来、出雲族は争いを好まず、戦に不慣れであった。
半数以上の長老たちは、渡来人を責めることもせず、共存していくことを望んでいた。

「奴らと同じ空気など吸いたくもない、俺たちはここを出ていく。依存はなかろう。」
御名方は立ち上がり、足を鳴らして去っていく。
長老たちは当惑しつつも何事もなかったように振る舞った。
御名方と同年代の奇日方だけは、目をつむったまま、その場にただ坐していた。

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松江市大庭町に鎮座する「神魂神社」(かもすじんじゃ)は、出雲史を語る上で外せない、重要な神社でした。
これまで非常に謎の多い神社でしたが、富家の伝承を知れば、足を向けないわけにはいきません。

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桜の美しい並木が、参道を飾ります。
地名の「大庭」は、「社の祭りの大庭」、「王宮の場所」を意味しています。

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「神魂」というのも「神坐所」(カミマスドコロ)が「カンマス」、「カモス」となったと云われています。

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大きな石がいくつも積み上げられた階段は、当時の石工が技を大いに駆使したことが伺えます。
また長い年月の、気の遠くなるくらい多くの参拝者によって、石の表面は踏み削られています。

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参道の石段は、途中で直角に折れていました。
そこに手水舎があります。

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手水舎も大きな天然石が使われていて、水も清らかです。

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そして竹林や雑木の杜に挟まれて、その先に拝殿が見えてきました。

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これは神社というよりは、屋敷のような雰囲気です。

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そう、神魂神社は、元は、出雲王国初代「菅之八耳」(すがのやつみみ)王から続く、東出雲王家の王宮だったところなのです。
出雲王国滅亡となる、九州物部族の大和東征の折に、当地も物部族の支配下になります。
やがて熊野系物部氏である秋上家(あきあげけ)が、出雲に占領軍司令官として来て当地に住み着きました。
しかし物部王朝は短くして終わりましたので、秋上家は出雲人の中で孤立します。

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境内の案内板を見て、びっくりします。
アマテラスの神勅による国譲りがなされた時、天穂日命が大国主命に出雲国奉還を促し、大庭に鉄の釜に乗って天降り、出雲の守護神として創健したとあります。

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出雲滅亡の危機に際し、穂日家はあたかも出雲の民のように振る舞い、その裏で物部軍を出雲に道案内をし、引き入れたと云います。
そして物部王朝が滅ぶと、それを機に少しずつ勢力をましてきた穂日家は、次第に秋上家を圧迫したそうです。

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しかし秋上家は、出雲王家の王宮だった神魂神社を、そのままの形(純粋の神魂造り)で守ったと云います。
神魂神社を守ってくれた秋上家に東王家の富家は感謝をし、秋上家を助け、これを再興、その子孫は今も神魂神社の宮司を務めています。

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秋上家が守ってくれた社殿がこれです。

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日本最古の大社造り、渋いです。
現在の本殿は、天正11年(1583年)の再建と云われ、豊臣秀吉の大阪城の築城が始まった年にあたるようです。
昭和27年3月に国宝に指定されました。

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千木は横削ぎです。
一般に千木は、男神を祀る場合は縦削ぎ、女神を祀る場合は横削ぎと云われていますが、富氏曰く、出雲系が縦削ぎ、物部系が横削ぎであると云うことです。
神魂神社は出雲王宮の形を神社にしていますが、物部・秋上氏の管理下にあったので、横削ぎになっているということでしょう。

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御祭神は「伊弉冊大神」と「伊弉諾大神」。
神紋は二重龍鱗枠に「有」の字です。
有の字は「十月」を組み合わせたものと言い伝えられ、神在月を示しているそうです。

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「神在月」に神々が集うのはこの「神魂神社」だという噂もあるようですが、ここが出雲王国の初代王からの王宮跡であり、その宮殿の形をそのまま社殿に残しているとするならば、納得な話です。
各地に散った王家の子孫神が集うなら、それは杵築大社ではなく、神魂神社でしょう。

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神魂神社本殿の内部は、心御柱(しんのみはしら)を中心に、コの字型に部屋が仕切られています。

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そして御神体は拝殿側ではなく、西向き、向かって右側を向いているそうです。
つまり、出雲大社(杵築大社)とは逆の造りです。
これは王家の宮殿の造りが、そのまま採用されているからであって、一部のオカルトサイトで囁かれるような怨霊封じのためなどではないそうです。

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出雲大社に倣うなら、拝殿で参拝したのち、本殿の西側からも礼拝すると良いでしょう。

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この正面に、御神体が鎮座しているはずです。

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社務所にて、綺麗な図柄の絵葉書が販売されています。
これは本殿内部に描かれた壁画のものです。

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「老松に鶴・鶺鴒の図」

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「百田馬場 流鏑馬神事」

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「当社の神在祭に因む佐太神社及加賀の潜戸の図」

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「出雲国造神火相続式を終え社務所にて鶴山亀山と呼ぶ祝相撲を観覧の図」

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「日月舞の図」などです。
もちろんはがきは購入しましたが、あえてスキャン画像ではなく、社務所から撮影させていただいたものを載せました。

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そして、何と言っても、この「八雲の図」です。
天井に描かれた五色の雲の図は、出雲大社のものとそっくりですが、「八雲の図」と言いながら、出雲大社のそれは「七つの雲の図」であり、神魂神社は「九つの雲の図」になっています。
一説には出雲大社の雲の図の一つが、「八雲」の一つが故郷を懐かしんで神魂神社に戻って来たと云われています。
8という字は出雲族の聖なる数字であり、7は穂日が信奉した道教の聖数です。
出雲大社創建の際に、故意に出雲の聖数を崩した疑惑が持たれます。

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本殿の左側には天正11年の建立で重要文化財の「貴布祢稲荷両神社」がありますが、豪雪の影響で修復中でした。

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幸い絵葉書に写真がありましたが、社殿は二間社流造で、とても珍しいのだそうです。

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右側にも摂社が連なりますが、その一番奥には、

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大きな鉄の釜が鎮座します。
例の天穂日命が乗ってこの地に降り立ったという釜のようです。
毎年行われる「御釜神事釜」では、釜を通して穀物の豊穣を祈願しているそうです。
穂日は出雲王家にとっても、秋上家にとっても苦々しい存在だと思われますが、物部氏の祖であるスサノオ・徐福の御神体は鉄の釜であると伝わります。
なので祖神の御神体として、秋上家も大切にしているのかもしれません。

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本殿の左奥にも二つの摂社があり、

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ちょっと変わった神籬があります。
ここでは「祷家神事」(とうやしんじ)と呼ばれる祭祀が伝わっていて、五穀豊穣を祈願するそうです。

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そして横には謎の三角柱の石、

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そして謎の行き止まりの飛び石の道、

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そして謎の洞穴。

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特にこの穴は、多くの人が疑問に思っているようです。
宮司さん曰く「ただの穴」、「防空壕の跡」だと云うことです。
しかしそれを塞ぐわけでもなく、ただただ異様に存在するその穴に、手を合わせる人も絶えません。
僕が訪れたこの日も、若い女性が十数分もの間、立ち尽くして暗闇を見つめていました。
この穴は本当にただの穴なのか、何か特別なものなのか、真相は解りません。
が、真に重要な聖地は、実はもう少し別の場所にあったのです。

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さて、神魂神社の境内から出て、200mほど歩いたところに、「立正大学 淞南高等学校」があります。

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ここは文武に長けた高校のようで、数々の大会で入賞をしているようです。

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勝手に高校の敷地内を歩くわけにはいきませんので、事務所に届出をします。
事務所の方もとても感じの良い方で、快くご承諾いただきました。

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ここに「宿祢岩」(天之磐座)と呼ばれる神跡があると云います。

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垂仁天皇は、出雲国造十三代の孫「野見宿祢」(のみのすくね)が怪力であることを御聞きになり、当時大和で日本一の大力と豪語する「當麻蹴速」(たいまのけはや)と角力させんと勅使を大庭に遣わされ、宿祢に伝えさせたそうです。
野見宿祢が神魂神社に参籠、必勝を祈る内に、神夢があり、裏山へ奇岩、怪石を累々と集めて力試をし、天磐座大神を祀り、信仰によって自信を深め遂に蹴速を倒したと云うことです。

が、これは正しい伝承とは言えません。

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出雲大社と書かれた鳥居を潜ります。

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出雲王国時代、王の葬儀は風葬でした。
王が没すると、立て膝で座る姿勢にされて、竹篭に納められます。
遺体には死臭をふせぐ理由から、口に刺した漏斗に朱を注ぎ入れたそうです。
朱は体の総ての細胞に染みわたります。

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出雲地方には両墓制の習慣があり、遺体は遠くの山に葬られ「埋め墓」とされたそうです。
富(向)家の埋め墓は熊野山でした。
その山は神名備山と呼ばれます。
そして屋敷の側には石を置いて、「拝み墓」としたと云います。
古代の出雲では、死した遺体は穢れたものとみなされ、王家の者は触れることも、近づくことも禁忌とされたのです。

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向王家が王の没後、大きな丸岩を運ばせて、拝み墓としたのがここです。
本来の呼び名は「東出雲王墓」です。

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まるで屋久島の苔むす森を切り取って置いたかのよう。
神聖な空気に満たされます。

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そこには大岩が20個ほど積まれていると、富氏の話ではありましたが、もっとたくさんの石があるように思えます。
歴代の王と、そこの岩の数は一致し、17個以外のやや小さい岩は、王国成立前の当主の墓に相当するそうです。

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不慮の死を与えられた事代主のその遺骨は粟嶋(米子市)の洞窟で見つかり、熊野山の岩座の横に埋納されました。
ここに事代主の墓石もあると云います。

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古代出雲王国の歴史は、次のようにして、正確に伝授されたと記されています。

それは、「富當雄」(とみまさお)さんが16歳の時の事でした。
彼は大分の父の元を離れ、本家の富饒若(にぎわか)氏の養子になった最初の冬のことです。
養父から唐突に、風呂場で身を清めるように命じられ、古代服のような白い麻で織った衣服に着替えさせられます。
そして出雲大社の東にある「出雲井神社」へ連れてこられると、社殿の前に葦で編んだ敷物が広げてあり、そこに正座し、語られたと云います。

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「これから語ることはわしが言うのではない。神祖さまがおっしゃるのだ。心して聞け。そしてしっかり覚えよ。
いずれお前が子に伝えるまで、たとえ兄弟たりとも他言無用。命をかけてこれを守れ!」

そこで語られたのは、4千年前からの口承伝承されてきた祖先の生きざまと歴史だったのです。

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この時から10年間、饒若氏は連続反復して當雄氏へ伝授され続けたそうです。
それは、神と人とが対話する形式で語られ、質問は許されません。
養父の言葉をそのまま一語も洩らさず、ひたすら丸暗記するのです。

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そこに語られたのは、記紀が隠し、ごまかしてきた、真の日本古代史だったと云います。
出雲王朝時代から現代に至るまでの富家の歴史は悲惨この上ない血みどろの物語だったのです。

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なぜ、文字のなかった古代ならまだしも、現代においても口伝という方法をとるのか?
富氏はこう話しています。

「文字はただの記号です、本当の感情を伝えることが出来るのは肉声しかない。
しかも、文章にして残せば、敵方に奪われ迫害され、その記録を焼かれ書きかえられてしまう恐れがある」

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出雲ばかりではありませんが、神社を参拝していると、恥ずかしいくらいの嘘を並べた由緒書きを目にします。
記紀創作にあたって、都合の良い歴史に改ざんするため、時の権力者によって、徹底的に各社の由緒を書き換えたと云います。
国譲り神話では真っ先に大国主に恭順した天津族の穂日が、出雲の主要な神社では壮大な由緒を連ねて記されているのを見ると、もはや滑稽でさえあります。

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しかしひっそりと残り続ける真の歴史の前には、人の浅はかななど、全く無価値であると、ここに立つと思い知らされます。
東出雲王墓は今も静かに、真実を我々に、問いかけているのです。

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