
吹きすさぶ風の中、岩に寄せる波は飛沫を上げ、水の塊が砕ける轟音を響かせていた。
ゴツゴツとした岩山に大きな窪地があり、その穴には海水が流れ込んでいる。
女は岩の上に坐し、火を吹く島々の神に問う。
ここは眼前に荒海、背後に荒山迫る狭き土地。
我らは極寒の故郷を離れ、遠く海の見えるここまでやって来た。
もはや歩く気力も尽きかけているが、この土地は我らの安住を許したもうか。
日が昇る。
紅い閃光が海と空の境界を裂く。
やがて水平線から離れた日の光は、女の前にある窪地の水に差し込んだ。
光が眩しくて、目から雫が溢れる。
八方に広がる光は女を包み、そして優しく告げた。
我と共にあれ、と。


河津桜で有名な河津町の裏手に、ひっそりと「姫宮神社」が鎮座します。

祭神は「笹原姫命」(ささはらひめのみこと)。

旧社地からは弥生時代早期の遺跡が発掘されており、奥伊豆最古の社とも云われているそうです。

この笹原姫は「イコナ姫」のことであるという話もあるようです。



伊豆の南端に近い白浜に、「伊古奈比咩命神社」(いこなひめのみことじんじゃ)があります。

通称「白濱神社」(白浜神社)と呼ばれる当社は、白浜海岸にある丘陵「火達山」(ひたちやま/ひたつやま)に鎮座しています。

当社も「伊豆最古の宮」を掲げていて、

多くの歴史的人物も訪れたと言い伝えられています。

境内を見渡してみると、枯れて白骨化したものを含め、多数のビャクシンが林立しているのに驚きます。

徐福の伝承を追っていた時、ビャクシンは日本の風土に自生する植物ではなく、当時、支那国から持ち込んで人が世話しないと育たないものだったと学びました。

ゆえに佐賀の新北神社の境内に古くからそびえるビャクシンは、徐福が植えたものと伝えてあり、徐福渡来地の根拠の一つとなっています。

伊古奈比咩命神社の最も大きなビャクシン「薬師の柏槇」はまだ生きて葉を茂らせており、

虚になった幹には薬師如来が祀られています。
このビャクシンは樹齢1500年だそうですが、

こちらの「白龍の柏槇」は、枯れてから1300年の年月を経ていると云います。

それが本当なら、地中から天に向かう白龍を模したこのビャクシンは、紀元前に当地に根付いていた可能性があります。

とするなら、荒波で散り散りになった秦族が、伊豆にも漂着していたのかもしれません。

伊古奈比咩命神社の主祭神は言うまでもなく「伊古奈比咩命」(いこなひめのみこと)となります。
彼女は三嶋神の後后であると伝えられます。

相殿神として祀られるのは、「三嶋大明神」(事代主)、「見目大神」(みめおおかみ・ 女神)、「若宮大神」、 「劔御子大神」で、後半の三神は 三嶋大明神の随神となります。

扁額には伊古奈比咩命神社の他に、「伊豆三嶌神社」の文字が記されています。
当社は「三島神社」を名乗っていた時期があるそうですが、三島市の三嶋大社へ、三島神のみが当社から遷座し、今の社名になりました。

ちなみに『続日本後紀』によると、三島神の正后は「阿波神」であり、伊豆諸島の一つ神津島の「阿波命神社」に祀られているそうです。
正后よりも後后の方が本土で大々的に祀られているということになります。



境内社の一つに「見目弁財天」社がありました。
これは相殿神の一柱を独立させ、縁結び神社として祀ったものです。
由緒では、見目大神が三嶋神に、五柱の御后との縁を結んだということのようです。
2001年6月30日には、西城秀樹が当社で結婚しているのだそうです。

境内の左側に、本殿へと続く参道があります。

その左には、二十六社を総括した、神明造一殿の総合末社が鎮座しています。

この中に26柱もの神様がぎゅうぎゅう詰めでお住まいです。

稲荷神などを経て、

参道を進みます。

この本殿へ続く参道を覆う深い社叢は、「青桐の樹林」と呼ばれ、天然記念物に指定されています。

心地よいマイナスイオンを浴びつつ階段を上ると、御本殿の神域が見えて来ました。



本殿神域の手前に「目の神様」という社があります。

「昔、ここに大きなあすなろうの木がありました。その木の幹には大きなこぶがあって、その中にはどんな日照りにも乾かないきれいな水が入っていました。 土地には、この水で目を洗うと、どんな眼病も治るという言い伝えがあり、村人はこの木を目の神様と呼んで大変信仰していました。」

「しかし、今はその木も枯れてしまった為、ここに社を造って目の神様をお祭りしています。」

いよいよ、神域へ足を踏み入れます。
「御神前」です。

杜に囲まれた神殿からは、ピリピリとした神気を感じます。

後ろを振り返れば、拝殿から道がまっすぐに伸びていました。

千年以上の昔は、二社あったという本殿。
右に三島神、左に伊古奈比咩が祀られていたと云います。

本殿が建つこの場所は、火達山と言います。

本殿の奥は禁足地となっていて、そこからは多くの祭器具が見つかっており、古代から祭祀が行われていたものと推測されています。

禁足地には大きな御釜(みかま・クド神)と呼ばれる岩の窪みがあり、実はそれが伊古奈比咩の真の御神体のようです。
この窪みは噴火口跡のようですが、ここには三方から海蝕洞が通じ、常時海水が流れ込んでいるそうです。
かつて神職が大潮の時に御釜に入ってみると、奥にはさらに洞窟があり、本殿の真下あたりに漆塗りの祠があったと云うことです。

Googleマップで確認してみましたが、御釜は思った以上に大きなもののようです。
現在、御釜および洞窟は、地震による崩壊で近づくことは出来ないということです。



伊古奈比咩命神社が白濱神社と呼ばれる所以、それはこの、白浜海岸の聖地に由来するものと思われます。

日本海の荒波に洗われつつ立つ鳥居。
ここは何を遥拝しているのか。

由緒によると、今から二千年以上も昔のこと、三島大神は、南方より海を渡って伊豆にやって来たのだと云います。

白浜に着いた三島大神は、富士の神や高天原の神々に許しを得て、伊豆の白浜に宮を造りました。
そして伊古奈比咩を后に迎えたのです。

宮造りがひと段落した三島大神は、今度は伊豆の沖合に島々を造ることにしました。

お供の神々の協力を得て、大神は7日で10の島を造り、島々に后神を置き、御子を儲けました。

そして再び白浜に帰り、白浜の地に大きな社を造って御鎮座したと云うことです。

この大神の島造りは「島焼き」と呼ばれています。
島焼きとは、つまり火山の噴火のことで、これを畏れた古代人が神の御業と奉ったのです。
この海に面した鳥居は、伊豆諸島の島々を遥拝しているようです。

『続日本後紀』によると、承和5年(838年)7月5日夜の伊豆神津島での噴火に際し、祝(はふり)・刀禰(とね)らが召集され、その祟りが卜(うらな)われたそうです。
すると、この噴火は、本后である阿波神がないがしろにされていることが原因であると告げられました。
このままないがしろにされ続けるなら、禰宜・国・郡司に至るまで滅ぼすぞといった脅し付きで。
この神託を受けて、阿波咩命と物忌奈命(阿波神の御子神)の神階が無位から従五位下に、そして従五位上から正五位下まで上げられたといいます。

御釜があるという火達山を見上げます。
伊豆国発祥の地とまで言わしめる「伊古奈比咩」とは何者なのか?

伊豆半島の最果てに居住した可能性ある一族を考えてみます。
(1)出雲族よりも古い土着の民
(2)漂着した秦族の末裔
(3)諏訪から南下して来たタケミナカタの子孫
(4)大和から敗走して来た大彦の子ヌナカワワケの一行
(5)ヌナカワワケらを追って来た物部(秦)族

伊豆に古代遺跡は多いものの、縄文遺跡は少なく、ほとんどが弥生早期の遺跡になります。
この点で(1)の時代には、当地に有力者はいなかったと考えられます。

窪地の祭祀は、古代出雲の幸の神信仰を連想させます。
また伊豆諸島を遥拝していると思われる岸壁の鳥居ですが、これは朝日を拝む場でもあると思います。
つまり伊古奈比咩は出雲族を継承する者と思われます。
また物部・海部といった秦族は父系社会でしたので、女性を頂きに置くことはありませんでした。

伊古奈比咩とは「刀自」であり、「戸畔」と呼ばれる女首長だった、と考えられます。
そして後から来た事代主を奉じる者たちが三島神であるとするなら、彼らはヌナカワワケの一行であり、それより先んじて伊豆に定住した一族はタケミナカタの子孫であったのではないかと、推察します。

諏訪を南下し、富士の裾野を通り抜け、天城峠を越えて進むと河津に至ります。
そこから更に南に至ると白浜は見えてきます。
島々は火を吹き、温泉が湧き、狭くとも温暖で豊かな土地「伊豆」。
そこには戸畔を中心とした大らかな母系社会が広がっていたのかもしれません。


火達山ってのも、いかにも製鉄の匂いを漂わせていますね。
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narisawa110
先生的に、淡島神をどう思われますか?
ttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/淡島神
まるで阿波ですよね。
阿波神=淡島(粟島)
私はそう思います
実は稲作ほど研究が進んでいないのが粟です。
稲作より前の作物としてはまさに粟であり、縄文海進前後の高地性集落のメインの作物であったと思われます。
おそらく、かつての出雲においても粟は肥料も必要とせず、栽培期間が短い粟は主力の農作物であったと思われます。
そして、その粟の原種の呼び方が
エノコログサなんです。
粟と交雑しやすく、おそらくですが利用しやすい雑種もあったかと思われます。
粟作の本質が出雲であるのであればオノコロ島とは、粟の島であり
当然に事代主が降臨するワケです。
縄文海進後もある期間は四国も陸続きになっていると思われるので、淡路とは、やはり淡島神である事代主の居る和歌山から起点ではなかろうかと思うワケです。
オノコロとは、作物としての粟であり、記紀のそれは持ち込んだ一族の紹介ではなかろうかと
少彦名神社が、粟に乗って飛んで行った先は、死国であったとな。
私は出雲の粟嶋神社が元宮でないかと思います。
本日の妄想終わり
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僕はずっと、事代主=淡島神というのに違和感を感じていました。全国の淡島社を訪ねてみれば、だいたいあるのは陰陽神か人形供養です。事代主との繋がりは、粟に乗って旅立ったという記述と、無くなった場所が粟島だったということくらいです。
今は事代主が亡くなった場所が粟島だったのではなく、亡くなったから、そこが粟島と呼ばれるようになったのではないかと思うようになりました。
四国吉野川の日本最大の川中島、粟島を訪れてからです。
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narisawa110
私はですね、原初の先祖信仰は、基本的に氏神であって、同族の繁栄を目的とし、今の様に他家の誰でもご利益を追求してお参りするスタイルではなかったと思っています。
基本的に現世利益は後付けかなと考えています
大阪あたりに行くと、事代主はコロナに効くらしいw
婦人病なんて、梅毒あたりの後年の人々の縋りを意味していると思います
〉亡くなったから、そこが粟島と呼ばれるようになったのではないかと思うようになりました。
私もそう思っていまして、コメが主力になる前は粟は出雲の象徴であり、事代主が阿波に飛んで行ったのではなく、粟が四国に飛んで行ったとする話でも記紀の様な記述になるのかなと思っています。
木を持ち込んだ須佐男の様に、粟は出雲が持ち込んだという設定になっているのかもしれません。
先生の書かれた本にも延喜式の話が出ておりますね。
(私の習慣の、口伝の反復に先生の本もちゃんと入っているんですよ〜)
延喜式神名帳は、延喜式の単なる一部であって、重要なのは、他の部分。
本来の高天原がどこにあるのか(本はヤマトであり、瑞穂は元々石見の人麻呂の実家の近くの地名)、更には口伝を紡ぐ一族が、淡路島に二つ(四国には存在しない)ある事が出ています。
記紀の話が何かの譬え話であるならば、四国の歴史は淡路島からであり、最古級の出雲に並ぶ銅鐸は淡路島から出ている事から、なんらかの出雲系の文化はそこから四国に流れていると思われるのです。
記紀成立後役二百年経ってからの延喜式でありますので、少なくとも口伝が、口伝者の住む所なのか、どの地方の口伝であるのかは分かりませんが、少なくとも記紀に抵触するリスクを敢えて被り、高天原の本来の位置が書かれている延喜式には一定の旧家への配慮や尊敬を感じます。
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