新北神社:筑秦ノ饒速日 07

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有明海の海岸からほど近い、小高い丘の上に男はいた。
側には彼の妻だけが寄り添っていた。
深く刻まれた顔のしわには、永い年月の旅の苦労が見て取れる。
その男は、この地で「饒速日」と呼ばれた。

一帯には彼のもたらした、稲作が実り始めていた。
肥沃な干潟は、原住の人たちに海の恵みを与えたが、それでも秋に稲が実れば、彼らの暮らしは安定した。
医薬の知識も豊富だった饒速日は病気の人を助け、またその方法を他に伝授し、食物の安定と伴って救われる命の数は莫大に増えた。
彼は王と呼ばれ、また神と崇める者も少なからずいた。

しかし年老いて思う。
彼にとって、ひとつの心残りを。

「不老不死とは何なのか」

彼は始皇帝を騙し、祖国の幼き者達を連れ、ここに安らぎの地を得ることに成功した。
細々と暮らす人がいただけの場所に、小さな集落ができつつある。
ここはやがて、もっと大きな国となっていくことだろう。

だが、秦王に告げた不老不死の霊薬の話も、まんざら出鱈目というわけではなかった。
霊薬はどこかにある、そう信じていくつかの山も探し歩いた。

「私は十分に人生を生きた。今、この老いた体で不死を得たとて、何の意味があるだろうか」

彼は不老不死を説き、肉体の保存に趣を置く神仙の教えを信奉していたが、かつて出会った出雲の王からは違った考えを教えられた。
それは肉体よりも魂を大切にする、生まれ変わりの思想だった。
自然界の万物に神霊は宿り、先祖の御霊によって世界は守られていくという考えだった。
彼はその教えにも、強く心惹かれた。

「妻よ、私が持ち込んだ、すべての種子はすでに皆に分け与え、それぞれに実りを迎えている。
柏槙の種子だけが数粒、最後に残ったが、それをここに植えた。
見てごらん、小さな芽が、ようやく開いてきたところだ。」

「まあ、可愛いこと。
ここはあなた様の祖国と風土がよく似ていると仰られていましたから、きっと見事に育つことでしょう。
その姿を、私も見てみたいものです。」

「柏槙が大きく育つには、気の遠くなる年月が必要だ。
私が死せば、私の亡骸はそなた達、この国の皆と同じように土に還ろうと思う。
我妻よ、その時はこの柏槙のそばに我が亡骸を埋めて欲しい。
そうすれば、この木とともに永く、愛しいこの地と子らを守り続けていけるだろう。」

そう言うと、男は妻を抱き寄せ、赤く染まり始めた空を見上げた。

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佐賀市諸富町、徐福の上陸した浮盃の近くに、「新北神社」(にきたじんじゃ)があります。

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境内入り口には、どっしりと風格ある肥後鳥居が鎮座します。

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赤と緑の色鮮やかな獅子がドラや笛の音にあわせて舞う「三重の獅子舞」が有名です。

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新北神社の旧社殿は江戸時代に建てられ、老朽化が進んでいたので、御鎮座1430年を迎えた昨年、大改修を計画し、2017年4月に250年ぶりの遷座が行われました。

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御神体は新社殿に移されていますが、旧社殿の中はまだそのままのようでした。

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できたての新社殿です。
その横に、

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天に向かって伸びる「柏槙」(ビャクシン)の木がありました。

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凄い迫力です。

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瘤になり、白骨化した幹は生きています。

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柏槙は日本に元から存在する樹木ではなく、中国から持ち込まれたものと思われます。
樹齢は1600年とも2200年ともいわれていますが、あきらかではなく、年数的には怪しい部分もあるようですが、徐福が種を植え育ったものと言い伝えられています。

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幹回り4.1m、枝張り6m、樹高20mの巨木で、幹は斜上しており、倒伏しないように支柱がそえられています。

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ここは徐福の住まいがあった場所と伝わっています。
新北神社の主祭神は「素盞鳴尊」です。
つまりスサノオとは徐福のことであるという説に適っています。

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と、ここでちょっと不思議なことが起きました。
ビャクシンの写真を撮っていたのですが、どうしてもピントが、勝手に新本殿の屋根のあたりに動いてしまうのです。
隣の旧本殿を撮影していた時も、同様なことが起きていました。
僕はカメラのピントを、画面の中心に固定して撮影するのですが、勝手に右端、左端に移動してしまいます。
困った僕は、一旦新本殿をフレームアウトしてピントを被写体に合わせ、そして再びフレームを戻して撮影しました。

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このことを神主さんにお話ししたところ、興味あるお話を聞かせていただけました。
少し前のこと、神主さんが境内で作業をされていると、境内の入り口に立ち尽くす少年を見かけたそうです。
神主さんが「中へどうぞ」と促しても、少年は動こうとしません。
そこで少年に話を伺うと、ここにはとても偉大な神様がいらっしゃってて、許可をいただくまで境内には入れないと言うのだそうです。
少年の父親にも話を聞いてみると、その少年は霊感がとても強く、彼の希望で父親は仕事を辞め、一緒に全国の霊地を行脚しているところだということでした。

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僕なんか、ずかずか入り込んで、写真撮りまくって、申し訳有りません。。

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しかしそこらの神社とはまた違った、何かしらの気配を感じる、ここはそんな場所です。
自然と敬虔な気持ちになってきます。

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斎木雲州氏の「富家」の伝承では、日本の王になるつもりで渡来したとある徐福。
しかし僕が彼に抱く印象は、徐福は不老不死の研究に没頭する学者気質で、権力などの欲は希薄だったように感じます。
徐福と一緒に連れだって来た武人らには、その欲があったようで、彼らが日本を支配する神輿として徐福を担ぎ上げて来たのではないでしょうか。

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徐福は秦の始皇帝に死罪にされる危険を犯して、2000、3000という彼の祖国の子供達を、平和な日本に連れ出して来ました。

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徐福は西出雲では「火明」(ホアカリ)と呼ばれ、佐賀平野では「饒速日」(ニギハヤヒ)と呼ばれます。
西出雲では出雲王国の「大国主・八千戈王」の娘「高照姫」を妻に貰い受け、佐賀では出雲系宗像族「吾田片隅王」の美人三姉妹の末「市杵島姫」を妻に迎えます。
徐福に日本を乗っ取るような野心があったとしたなら、出雲王家は彼に大切な娘を差し出すことはなかったと思うのです。

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神主さんのご好意で、玉串奉納を特別にさせていただきました。
本殿の前に立ってみると、真新しい木の香りとともに、優しい風が吹いていました。
浮盃にある御手洗いの井戸宅の奥様や、新北神社の神主さん、徐福長寿館のスタッフの方などと会話を交わしていて思うのは、徐福への親近感です。
医薬技術や文化をもたらし、若い命を救った徐福は、地元の人達からは「徐福さん」と親しみを込めて呼ばれています。
彼の温かい人柄が、偲ばれてくるのです。

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ここが徐福の住まいであったなら、一緒にいたのは市杵島姫だったのでしょうか?
当時の日本は妻問婚だったので、日本式に習っていたなら、妻は実家の宗像にいたかもしれませんが、ここからはちょっと遠いように思えます。
中国では王墓の上には松や柏を植えたと云います。
ならばここの柏槙の下に、徐福は眠っているのかもしれません。

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徐福と市杵島姫は1男1女を儲けます。
長男は「彦火々出見」と名乗り、九州物部一族の祖となります。
長女は母親の違う長男「五十猛」(香語山王)に嫁ぎ、「天村雲」を産み落とします。
天村雲は畿内において大王となり、磯城大和王朝のあけぼのを築いていくのです

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4件のコメント 追加

  1. れんげ より:

    開けた土地に新しい社殿の明るい神社のようですが、カメラのエピソードと神主さんのお話、不思議ですね。やはり徐福が眠っている場所なのかも?
    徐福が出雲で高照姫を妻として迎えることができたこと、何でかなぁ〜?と随分モヤモヤしました。八千矛王がお人好し過ぎるのか?とも思いましたが、やはり徐福が「この男なら」と思わせるものを持っていたのでしょう。
    で、なければ市杵島姫まで貰えたことが納得できない。出雲族の寛容さのおかげは大いにあるでしょうが、秦族をどこまで信用するかとは別に、徐福については受け入れざるを得ないくらいの魅力があったのかもしれません。
    でも、佐賀に移り住んでから、徐福は出雲や高照姫に対し、どんな心情でいたのだろう?と考えてしまいます。のちの日本の戦国時代のお姫様なら、夫に父親を殺されるとか、その逆とかよくあることで、それでも当然ものすごく辛かったでしょうに、平和な国のお姫様が、異国の王のような人に嫁ぎ、夫の部下に敬愛する父親を殺され、夫も祖国に帰ってしまう。小さな息子を抱えた中、実家の一族と夫の一族との関係は当然微妙に…可哀想すぎます。その後、穂屋姫が五十猛に嫁ぐのだから交流はあったのでしょうが。
    そして、宗像三姉妹、こちらもお市の方の娘の浅井三姉妹みたいですよね。どちらも三女は特に逞しい?

    いいね: 1人

    1. CHIRICO より:

      王と副王の同時暗殺、普通なら報復戦争だと思います。
      いくら人の良い出雲族だとしても。
      その点は今も疑問です。
      当時は確証が得られなかったのか、ずっと後になって、出雲族も真実を知ったということなのか、謎です。
      徐福がどんな人物だったのか、今となっては分かりかねますが、僕が訪ね歩いて感じたのはブログにある通りです。
      今回、例の系図を改めて考察してみましたが、天皇家の系統に、出雲王家と徐福の血が、かろうじて途切れず受け継がれていることを確信し、改めて万世一系に偽りなしとして再掲載に臨みました。
      そして私たち日本人の多くにも、その血が受け継がれていることでしょう。

      以前nokanannさんがコメントくださいましたが、道端の小さな花を美しく思える感性は、大和民族しかいないと何かで読み、そこで、思い至ったのが「出芽」だったとのことでした。
      ドルヴィタ族の血を濃く引く者には、特に独自の美学が有るのでは?とおっしゃっており、なるほどな、と思ったものです。

      一夫多妻が当たり前の時代ですから、今以上に母子家庭的なところが多かったのかもしれません。
      いつの時代も、女性は美しくたくましい。
      私は三姉妹の次女を嫁にもらいましたが、それでもなかなか。
      もし三女だったかと思うと、ひやりと背中に冷たいものが流れそうです(苦笑)

      いいね

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