
今回の富士山一周旅は、剗海神社も素晴らしかったですが、ここに来ることができたのが1番のご褒美でした。
いにしえから続く、我々の先祖の微かな痕跡を知った時、胸に込み上げる熱いものを感じるのです。


山梨県南都留郡山中湖村山中、山中湖畔に鎮座する「山中諏訪神社」(やまなかすわじんじゃ)を訪ねてみました。

これまで全くノーマークだった神社ですが、富士旅の1ヶ月ほど前でしょうか、『偲フ花』に、とある方からコメントで情報をいただき、気になったのでした。
訪ねてみると、小社ながらとても心地よい雰囲気で、時間を作って立ち寄った甲斐があったと、思ったものです。

同じ富士五湖でも、河口湖周辺の観光スポットは人で溢れていましたが、山中湖は落ち着いた感じで、豊かな自然と人の営みの中を、気持ちよく散策できます。
境内では薄暮の頃、運がよければムササビが滑空しているところが見られることもあるようです。

当社祭神は「豊玉姫命」(とよたまひめのみこと)と「建御名方命」(たけみなかたのこと)。
アレっ?と思う方は神社通の方です。
諏訪社で、豊玉姫が祀られている神社は珍しいからです。

僕がこの神社に興味を抱いたのも、この点でした。
諏訪社と豊玉姫に、どのような繋がりがあるのか。

由緒では、山中諏訪神社は、崇神天皇の御代7年(104年)、疫病が蔓延したため、勅命を以って豊玉姫命を奉り、創祀されたのが創建だと伝えています。
さらに康和3年(966年)、村人が開墾の守護神として建御名方命を合祀し、諏訪大明神、山中明神とも呼ばれてきたとのこと。

祭神の豊玉姫は、記紀には、産屋の屋根も葺き終らないうちに鵜葺屋葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を出産したと記されており、それに基づき、結婚、出産、即ち縁結び、子授け、安産、子育ての神として崇められてきたそうです。

秋の例祭は「山中明神安産祭り」として知られ、毎年9月4日から6日にかけて行われます。
例大祭の宵宮の朝には、対岸の明神山奥宮にむら雲が湧き、豊玉姫命が白龍に乗って湖水を渡るお渡りの御儀があり、湖上にくっきりと御道がつき、この道を拝観された時は吉兆とされ、豊年万作、思う事が思う叶うとされています。

4日から5日にかけては、御旅所で神社役員、崇敬者によるお籠りがあり、深夜丑の刻(午前2時)には御祭神が寝てしまわぬよう御神歌を謡い、三度神輿をゆり動かす特殊神事が執り行われます。この時に、緑の藻が水面に浮いて、魚類も明神様を送迎すると伝えられ、漁師は湖に網を張る事、舟を乗り入れる事を禁じています。

神輿は4日にお旅所まで渡御し、翌5日に本宮に戻ります。
この際、神輿を舁ぐとより御利益があると云われ、足袋、裸足姿の婦人達(子宝に恵まれたい人、安産を願う人、嬰児を背負った安産の人)が競って神輿に群がり、その御神徳にあやかります。
神輿が本殿に納まる前には神輿を先頭に大勢の人が数珠つなぎになって、
「諏訪の宮 みかげさす 右龍がいにも 左龍がいにも もそろに げに もそろ」
と、「諏訪の宮」の御神歌を唱えながら、御神木の周りを3回廻ります。
妊婦が神輿を担ぐところから「山中明神安産祭り」は「孕み祭」、「はらぼて祭」とも呼ばれ、奇祭として全国に知られます。



山中諏訪神社から赤い雅な橋を渡ると、山中浅間神社が鎮座しています。

浅間神社は、平安時代の承平元年(西暦931)、郷民社殿を造営し、三柱の神(木花開耶姫命、天津彦々火瓊々杵尊、大山子祇命)を勧請して奉ったことが始まりと伝えられます。

ところでこの山中諏訪神社と浅間神社には、鳥居がありません。
それはなぜか、理由はよく分かっていないようなのですが、Googleで山中諏訪神社を検索しようとすると、関連キーワードで「行ってはいけない」という言葉が表示されます。
見てみると、どうやらサイトやSNS、YouTubeで、この山中諏訪神社は行くべきでない神社としてランキングされているものがあるようなのです。

それは実にくだらない、勉強不足の人が言っているだけの、無責任な誹謗中傷でした。

まず当社に鳥居がないことを挙げ、「本来神社にあるべき、神様と人間の領域を分ける鳥居がない」「今まで何度も鳥居を建てようとしたが、その度に落雷によって壊されているらしい」と書いています。
これに対し、社側は「隣の浅間神社に鳥居が無いのは事実ですが、落雷で壊された事実はございません」とホームページで回答されています。
仮に、一度くらいは落雷があったとしても、鳥居を建てるたびに落雷で破壊されるということは、普通に常識的に考えられる人であれば、あり得ないことだと理解できることです。
それに、神社における社殿や鳥居と言った造形物は、あくまで後付けのものであって、本来は無くても良いものです。ただあった方が、霊的知覚能力が退化した現代人に、その場所が聖地として認識しやすいというだけの、マーキングのようなもの。それが無いからと言って行くべきで無い神社だというのは滑稽な話です。
ちなみに、鳥居がない神社なんて、他にもいくつもあります。

次にこの取るに足らないサイト・SNS・ユーチューバーは、山中諏訪神社には「伊邪那岐神」とその妻の「伊邪那美神」が祀られていると言い出します。
記紀では、黄泉の国に旅立った妻神と、約束を破った夫神が、壮大な夫婦喧嘩の末、離別します。
それを理由に、山中諏訪神社にはカップルで決して行ってはいけない、安産を願う場合も女性だけで訪れましょうなどと、トンデモ理論を展開します。

これにも社側は、「お祀りしている神様ですが、伊邪那岐、伊邪那美は祀っておりません。当神社では、初代神武天皇の祖母にあたる豊玉姫命を主祭神としてお祀りし、建御名方命を合祀しております」と明記した上で、「豊玉姫命は安産の神様として祀られております。カップル、ご夫婦でのお参りをしてはいけないとありますが、鳥居が無いこと以外は事実無根ですので、ご心配なさらず、是非お二人でいらしてください」と結んであります。
仮に伊邪那岐、伊邪那美が祀ってあるとしても、その正体はクナト大神や幸姫だったりするわけで、記紀神話の作り話を間に受け、素晴らしい神社の本質を見誤るようでは、似非スピリチュアリストが極まっているよと言わざるを得ません。
山中諏訪神社は素晴らしい神社です。ぜひカップル、ご夫婦でご参拝ください。



山中諏訪神社から少し離れたところに「九郎貴神社」という、少し変わった神社がありました。

当神社の由緒によれば、「天明2年から7年(1782~1787年)にかけ、異常気象等により世に云われる天明の大飢饉が起こり、天明3年には死者2千人以上と云われる浅間山の大噴火があり、その粉塵は江戸をも覆いつくし、更にこれを遡ること約70年前の宝永4年(1707)の富士山の大噴火、又これが起因と云われる同年10月4日の死者・行方不明者合わせて2万人以上の犠牲者を数えた宝永大地震等の天変地異により、人心大いに乱れ、世情の不安は極に達し、朝廷はこれを憂い、奉斎随順の衆生救済と富士山鳴動の鎮静を願い、天明4年3月勅命によって、山城守藤原右京に「九郎貴様」を奉持させ京都を旅立たせた」とあります。

この右京は、各地の神社仏閣を加持祈祷しつつ富士に辿り着き、富士山周辺を行脚した後、山中部落に逗留することになりました。
右京は富士溶岩流の先端がある当地に小祠を建て「九郎貴様」を奉祀。翌年旧暦の3月15日衆生救済を祈願し自ら即神仏となるため、一升三合の「むすび」を持って富士に入山し帰らぬ人となったと伝えられます。
九郎貴様というのはどのような神なのでしょうか。源九郎稲荷のことなのかな?

九郎貴神社の周りをよくみると、溶岩の岩壁があちこちにあり、なるほど確かにここが、富士溶岩流の先端であると理解できます。

こんなところまで溶岩を押し流す、噴火のエネルギーというものを、改めて思い知らされました。



山中湖畔を歩いていると、「白龍の松」と呼ばれる松の木がありました。

「山中明神安産祭り」の御神歌の一節「右龍がいにも 左龍がいにも」は、「諏訪の宮」の神体である豊玉姫命が、右龍と左龍の二頭の白龍に道を導かれて、あるいは龍を従えて当社においでになる、と解釈されています。
この龍のような造形の松は、その到達地点の目印というわけです。

山中湖はその名の通り、なだらかな山に囲まれた中にある湖です。
湖面の海抜は982mと日本3番目の高所に位置し、夏でも最高気温が30度を超える日は少なく、富士五湖の中でも1番富士山に近い湖です。

その対岸にある明神山山頂に、山中諏訪神社の「奥宮」が鎮座しており、神はそこから山中諏訪神社へとやって来るのです。
近年は見ることが少なくなったそうですが、冷え込みの強い時は、諏訪湖同様に神が通る道と伝えられる、御神渡り(おみわたり)が見られるのだそうです。



と、言うわけで、五条桐彦、登ってます。

いや~もういいかな、とも思ったのですが、晴れてしまったんで、登ってます。
明神山山頂に山中諏訪神社の「奥宮」があるなんて、山中諏訪神社に来てから知ったんですよ、僕は。
そんな心の準備もなかったし、その日は曇っていたからもういいやって、思いますよね普通は。

でも翌日晴れちゃうんだもん、それも清々しく。
「きたれよ」って言ってるじゃん、山が。
それで登ってます、明神山を。

うひょ~絶景♪
登山途中でも、振り返ればこの絶景です。

一見なだらかな山ですが、登山は登山、むちゃキツい。

30分くらいで登れるってどこかに書いてあったけど、キツいんじゃ~。。

下山してきたバカップルが「うふふふふ、あはははは、つかまえてごら~ん」していたので、さっきの”行くべきでない神社の噂”、広めたろかい!って心の狭い僕はちょっと思いました。

でもごらん、お山が微笑んでいるじゃないか。がんばれ、桐彦。
山中湖側から見る富士山は、左右対称に見えるっていうけど、本当なんだな。

諏訪神社と豊玉姫の関係ですが、実は少し思い当たることがあります。
福岡の諏訪神社には、当地に訪れたタケミナカタを助けたのが大なまずだったという話があります。
なまずは、豊玉姫の眷属として九州では祀られているのです。

山中諏訪神社は、崇神天皇の御代7年(104年)に豊玉姫命を奉り、創祀したとありましたが、崇神(物部イニエ)王の御代というと、第二次物部東征の少し前ということになります。
豊玉姫とはいわゆるヤマタイ国の女王ヒミコとされる人で、確かにイニエ王の頃の人物ですので、彼女の威光が遠く東の地まで伝わっていたということを示しているのかもしれません。

諏訪神社に関しては、「北口本宮冨士浅間神社」は、元は諏訪神社だったとのことでしたので、諏訪族もやはり早い時点で当地に勢力を持っていたということになるのでしょう。

するとこの一帯には、豊系の一族と諏訪系の一族の2族がそれぞれ支配していたのか、もしくは諏訪族には豊系ゆかり血が流れていたということか。

と、ついに来たよ~奥宮たん。

豊玉姫はここに鎮座し、2頭の白龍に導かれて、里宮にやって来るのです。
2匹の白龍、そう、白龍です。

そして神の眺める景色が

なんと、デジャブ。

長野諏訪の高ボッチ高原から見る景色と瓜二つです。
そしてこの景色は、タケミナカタが出雲の故郷、美保関から霊峰大山を望んだ景色に繋がっています。

確かに、タケミナカタを奉祀する諏訪族は当地に来ていた。
しかしさらに驚く景色が、僕の目に映り込みました。

ここから見た山中湖は、なんと大きな勾玉の形をしているのです。
大きな勾玉といえば、三種の神器のひとつ、「八尺瓊勾玉」を連想させますが、僕の脳裏にはもうひとつ別の人物が思い浮かびます。

大分由布に祀られる「宇奈岐日女」(うなぎひめ)です。
この「うなぎ」とは魚のそれではなく、「うなぐ」という大きな勾玉を意味する古語が由来です。

宇奈岐日女は豊玉姫の前身にあたる人物であると僕は推察しており、彼女が大分に来たあたりから、宇佐家は豊王家として大きな勢力を築き始めます。

まるで月を映す大きな水鏡のような勾玉の海、不死の山、諏訪族に白龍と、偉大なる月読みの巫女。
それらが複雑に、シンプルに、融合している奇跡の景色が、ここに残されていたのでした。



山中諏訪神社にも行きました。
神職のお姉さん(妙齢)?が挨拶してくださったので、お話を聞かせていただきました。
そのなかで、豊玉姫はヒミコであるとの説があるがどうでしょう?、と尋ねると!
そのとおりですと、間髪入れずに答えてくれました。
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おおー、やはり伝わるところには伝わっているのですね!感動です。
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🐥…山中諏訪神社奥宮。それは切った石を積んだだけの何かのモニュメント…🍡
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神社もお寺も教会も、言ってみればそんなものですよね。
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