
兵庫県姫路市に聳える「姫路城」(ひめじじょう)。

別名「白鷺城」(はくろじょう/しらさぎじょう)と呼ばれる純白の名城は、まるで僕の純真な心を映しとったかのよう。

うむ、これは良いものだ。



ぶらり歩いていると、「血の池」という怪しげなネーミングの公園がありました。

案内板によると、
かつて総社に人々が抜刀して踊り舞う「刀劔おとり神事」と呼ばれる旧暦7月の恒例行事があり、江戸時代には「踊舞神事」「修羅念仏」、江戸時代後半には「修羅踊り」「豊年踊り」と呼ばれた。その行事で傷を被った者が池で洗うと止血したとされたことが池の名称の由来という。
なるほど、ヒーリングスポットでしたか。

そうして、「射楯兵主神社」(いたてひょうずじんじゃ)にやってきました。

この参道は「ひめじ縁結び通り」と呼ばれる、ハートが並んだプレートが埋め込まれたラヴストリート。

プレートは、幅のある参道石畳の左右に1枚ずつあって、それが本殿まで縦に11枚続いています。
このプレートをたどって本殿前まで進み、縁結びの神様である大国主命に良縁を願うと、きゃわいい娘とお近づきになれるというシステムです。

射楯兵主神社には入口が二つあります。正面側のいぶし銀「御神門」と、

姫路城側にあるエキゾチックな「総社御門」。

射楯兵主神社は播磨国総社で、地元では「そうしゃさん」と呼び親しまれています。

当地は飾磨郡伊和里と呼ばれ、伊和族の平野部においての拠点であったと考えられています。

祭神は「射楯大神」と「兵主大神」。
前者は「五十猛」(イソタケ)のことであり、後者は「伊和大神」すなわち「大国主」のこととなります。

当社の由緒によると、欽明天皇25年(564年)6月11日に影向(神仏の本体が一時応現すること)があり、飾磨郡伊和里水尾山に、大己貴命(兵主の神)を祀ると伝えられています。
また、播磨国風土記に「因達と称ふは息長帯比売命(中略)渡りましし時、御船前に御しし伊太代の神(射楯の神)此処に在す。故、神のみ名に因りて里の名と為す」と記されているところから、8世紀以前には、射楯の神が飾磨郡因達里に祀られていたと考えられます。

二神をいつ合座したのかについては、明確な資料が存在せず、927年に編纂された延喜式神明帳に「射楯兵主神社二座」とあり、9世紀後半には合座されていたと分かるのみとなっています。

大元出版 富士林雅樹 著『出雲王国とヤマト政権』によれば、射楯兵主神社は、穴師の地から播磨国に分遷されたものだと記されます。

大和の初代大君となった天村雲(あめのむらくも)は、穴師の地(桜井市穴師)に射楯兵主神社を建て、そこに父君・五十猛を祀りました。
「イタテ」とは、五十猛(イソタケ)の発音を縮めて、「イタケ」から「イタテ」と変えられたものです。
「猛」の字は、「建」の字に変える場合も多いので、建を「タテ」と読んだものと考えられます。

兵主とは、シナのシャントン半島地方の古代信仰の神であり、徐福がいた斉国の八神に由来するとされます。

徐福は村雲の祖父であり、出雲ではホアカリと名乗りましたが、彼は八神信仰を和国に伝えました。
兵主は、『史記』「封禅書」によると八神のうちの第三の神「蚩尤」(しゆう)に相当するとされ、戦の神と考えられています。

蚩尤は『路史』で、姓は姜で炎帝神農氏の子孫であるとされます。獣身で銅の頭に鉄の額を持つという神です。
また四目六臂で人の身体に牛の頭と鳥の蹄を持つとか、頭に角があるなどとも伝えられます。

『述異記』によると石や鉄を食べたといい、超能力を持ち、性格は勇敢で忍耐強く、同じ姿をした魔神のような兄弟が81人いたとも伝えられます。
『書経』では性格は邪であり、その凶暴・貪欲さはフクロウにたとえられて「鴟義」(しぎ)と表現されたりしており、「反乱」というものをはじめて行った存在として挙げられています。

また蚩尤は、戦争で必要となる戦斧、楯、弓矢など、優れた武器を発明、あるいはそれらに金属を用いるようになったと伝えられ、『世本』では蚩尤が発明した五兵(5つの兵器)として戈(か)・矛(ぼう)・戟(げき)・酋矛(しゅうぼう)・夷矛(いぼう)が、『初学記』では蚩尤が発明した剣が、『龍魚河図』では兵杖・戟・刀・大弩が挙げられています。

秦族には、西を守るという考えがあり、蚩尤は西方を守る武の神とされていました。
村雲は、神名備の三輪山の西方を守る穴師の地に、蚩尤として兵主の神を祀ったと考えられます。

播磨国の射楯兵主神社は、古くは八丈岩山(因達の神山)に祀られていましたが、後に今の場所に遷されました。
因達の里のとなりには、昔は穴師の里があり、風土記には、因達の神山に来たホアカリの話が書かれています。

「昔、大汝命の御子神には火明命(ホアカリ)がいた。火明命は心も行(わざ)もとても怖かったので、大汝は憂いて、火明を捨てて逃げようと思った。
そこで大汝は、火明に因達の神山(いだてのかみやま)から水を汲んでくるように命じ、帰ってくる前に船を出して逃げ去った。
この後、火明命水を持って帰ってきたが、船が出ているのを見て激怒した。そして、父を怨んだ火明は、風波を起こして船の方に迫らせると、大汝の船は進むことができなくなり、遂に壊されてしまった」

ここでいうホアカリは、彼(徐福)の子孫のことで、秦族ががこの付近にも住んでいたものと考えられます。

大和からやってきた秦族とは尾張族のことでしょうか。
彼らは出雲族の導きで、当地に移住し、射楯の神「五十猛」を祭祀したので、そこは因達と呼ばれるようになったのでしょう。

いつごろから、なぜ、兵主神が蚩尤から大己貴になったのかは分かりませんが、当社が五十猛と大己貴を並べて祀っているところをみると、両者の子孫がうまく関係を築いていたことが窺えます。

しかし風土記は、ホアカリが粗暴なので、オオナムチは船出しようとして、これに腹を立てたホアカリが災いを起こした、と記します。
これはホアカリの子孫であるフトニ大君が、息子の吉備津彦兄弟を引きつれて出雲を攻めた事件を語るものでしょうか。

風土記は続けて、十四丘の一つである日女道(ひめぢ)丘(姫山)の神は、大汝少日子根(おおなむちすくなひこね)命の求愛をうけ、筥(はこ)丘に食物などを供えたという話も残しています。

それにしても、射楯兵主神社は摂社・末社がとにかく多い。

さすが総社というだけのことはあります。



境内に怪しげな磐座がありました。

「鬼石」だそうです。

おじさんの証明写真好きの女子高校生にバズりそうな、おちゃめな作法も掲示されています。

何でもご利益にしてしまう、日本人のたくましさ。

射楯兵主神社では有名なお祭りがあります。
60年に1度の一ツ山大祭と、20年に1度の三ツ山大祭です。

一ツ山大祭と三ツ山大祭は、かつては神事の内容が異なっていたそうですが、現在は同じものとなっています。
5種の神事(流鏑馬・競馬・神子渡り・一つ物・弓鉾指)が行われ、大変賑わうのだそうです。

播磨国一宮(宍粟市一宮町)の伊和神社においても、神社を囲む白倉山・花咲山・高畑山(三ツ山)、宮山(一ツ山)という実際の山において、一つ山祭と三つ山祭が斎行されていますが、射楯兵主神社の一ツ山と三ツ山はそれらを象ったものであるという伝承があり、この辺りからも両社の関係の深さを窺うことができます。
古くから、神は山やその山頂の岩や樹木を依り代として降臨すると考えられており、日本人の自然崇拝と先祖崇拝を合わせた、麗しい祭りが目に浮かぶようです。

narisawa110
南九州市に釜蓋神社(射楯兵主神社)があるんですね。
?どうも素戔嗚系と出雲系がある様な
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イタテ=海部・多氏系と出雲系ですかね。
大彦が多彦、つまり多氏系だとすると、辻褄が合いそうです。
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narisawa110
一つ謎がありましてね
兵庫の射楯兵主神社に関しては射楯神と兵主神が後年に合わさった経緯が確認できます
ヒボコに攻め込まれたか、半島の人たちがいたところに尾張氏が占領で入り込んでこの名になったと
大元本には不思議な事にいきなり射楯兵主神社となっており、神様が合わさった経緯が全くたどれないのです
明治期には半島系の神様が圧迫された時期がある様で謎の出雲帝国にもその辺の話が出ています
朝鮮系の神社はウズメに変えられたり、地方ではミナカタに上書きされたりしています
確か穴師坐兵主神社もヒボコがウズメに変えられています
しかし、謎の出雲帝国では兵頭神をヒボコとして見る視点が強く、蚩尤の色彩が薄いのです
何故突然に奈良のそれが射楯兵主神社として出てくるのか、細かなことが気になって仕方がありません
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そうでしたね、ヒボコの関連も気になる所です。
現在は穴師坐兵主神社と呼ばれる神社は、元は射楯兵主神社と呼ばれていたのでしょうかね。その辺は僕も詳しくわかりません。
蚩尤は鉄の武器に精通していたようなので、製鉄民族の出雲王と置き換えられたということでしょうかね🤔
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narisawa110
私的には、穴師のそれは、イタテは元々付いていなかったと考えています。(王家本の誤植)
イタテが合わさるのは複数のケースで播磨の特徴の様な気がします。穴師の兵主神社は、調べてもイタテが付いていた形跡が見られません。兵頭と、大兵主の祀られ方がヒントの様な気がします。
兵主の元々の神様は、出雲系と海部系の様な気がしてきております。蚩尤は神仏習合とか修験の後のような気がします。
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