皐月宮・浜宮:八雲ニ散ル花 海祇ノ比賣巫女篇 番外

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宗像大社 秋季大祭に伺った際、片道3kmを歩いて道の駅に向かった時の、素敵な出会いがここでした。
表からは何もわからない松林の一角に、何かある。

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何だろう、これは。

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確認してみたら、どうやらこれは、「皐月宮」(さつきぐう)と言うらしい。

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皐月宮と浜宮社では、毎年5月5日に「五月祭」が斎行されています。
今はささやかな神事のようですが、かつては田楽や流鏑馬なども行われ、大変賑わった神事だったとのこと。

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当時は、浮殿造りの御旅所が設けられ、「濱殿」と呼ばれていたそうです。
五月祭では、この濱殿へ、田島宮(現在の辺津宮)から三宮(沖津宮中津宮、辺津宮[現、頓宮?])と許斐神社、織幡神社、宗像五社のお神輿が御神幸したと伝えられます。

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皐月(五月)は、稲を植え始める月。「早苗月」(さなえづき)とも呼ばれていました。

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この場所は知らなければ、まず辿り着けないでしょう。
かつては松林の入口に「宗像大社 五月宮」と書かれた標識が立っていたようですが、今はありません。

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さすがに誰も知らないだろうと思って検索したら、この辺りの重鎮の方々は既にご存知のようでした。
まだまだ、僕も未熟だなと思い知らされます。

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Googleの口コミには、「好きな場所だが、なるべく人には教えたくない」という旨の書き込みがありました。同感です。
こういった場所は、なるだけそっとしていて欲しい、そう願います。

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「道の駅むなかた」から、東に500mほど歩いたところに、「辻八幡宮」(つじはちまんぐう)があります。

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鳥居の反対側を見ると、向こうにも鳥居が。
国道495号線を挟んで、参道が南北に伸びています。

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うひゃ~不気味。

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恐る恐る足を踏み入れると、

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繊細そうな狛犬が出迎えてくれました。

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幾多の蜘蛛の巣と格闘の末、

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拝殿にたどり着きました。

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祭神は「大鷦鷯命」(おおさざきのみこと)。

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普通、オオサザキといえば、仁徳大君のことを指しますが、『宗像郡誌』他の資料では、「丸山村南に有産神なり。辻八幡と称す。所祭応神天皇、今宮明神、武内大臣なり」とあって、本来の祭神は応神大君だったような感じです。

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応神大君とは、豊王国の末裔・竹葉瀬ノ君のことですが、彼の皇子にワキイラツコがいました。
大和の人たちは、応神大君は、有力者・葛城(武内)襲津彦の血を引く根鳥御子(ねとりのみこ)を皇太子にすると思われていましたが、ところが次の大君になったのは、宇治ノワキイラツコでした。
『播磨国風土記』揖保郡には、宇治ノワキイラツコを「宇治天皇」と書き記しています。これは、宇治ノワキイラツコが大君に就任していたことを示しています。
各国の風土記は、記紀と内容が食い違っていたため、ほとんどが焼却処分されましたが、数ヵ国の風土記は写本として残されました。『播磨国風土記』もその一つであったので、その内容は真実を伝えている可能性が高いと考えられます。

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応神大君が亡くなった後、宇治ノワキイラツコは跡を継いで、宇治大君となりましたが、この継承に大いに不満を感じていたのが、襲津彦の親族である葛城氏一族でした。
彼らは新羅、百済の征服は、自分たちの功績であるという思いが強かったのです。
この武内宿祢の子孫たちの勢力をうまくまとめたのが、葛城氏の親族の「星川建彦」(ほしかわたてひこ)でした。彼の率いる水軍が淀川を逆上り、宇治の宮を襲います。
そして宇治大君は星川建彦の策略に嵌り、命を落としたのです。
これによって、星川建彦が仁徳大君(オオサザキ帝となり、新しい王朝が成立したのでした。
この辺りの話は、大元出版 富士林雅樹著『仁徳や若タケル大君』に詳しく記されています。

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さて、『宗像郡誌』によれば、辻八幡宮の境内神社五社に
豊受神社 祭神:豊受大神・高龗神
蛭子神社 祭神:蛭子神・火産霊神
須賀神社 祭神:素戔嗚命
大日霊神社 祭神:大日霊大神
皐月神社 祭神:瀬織津姫命・宗像三柱神・速秋津姫命・神功皇后
とあり、先程の皐月宮はこちらに合祀されていました。祭神のうち、神功皇后は別社からの合祀ですので、皐月宮に祀られていたのは宗像三柱神に加えて瀬織津姫と速秋津姫になります。

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海辺の住宅街の一角に、「浜宮」があります。

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ここはなかなか見つかりませんでした。

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きれいな鳥居と、

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年季の入った鳥居。

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その先に、まるで南国のような聖地がありました。

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祭神は宗像三柱大神で、辺津神社、木皮社とも呼ばれています。

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『宗像神社史』は、浜宮は浜降り修祓の行事を行う宮だと記しています。

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浜宮は貝塚の上に鎮座しているとのことで、土器なども出土しているようです。

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縄文時代の先住民は、シジミやサザエ、アワビなどの貝を貴重な食糧と考え、身を取ったあと、その魂を天に送るために貝塚で拝んでいました。

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ところが、ハタ族は宗教上の禁忌により、貝は食べませんでした。しかも、彼らは貝塚を踏み荒らし、先住民たちから嫌われていたということです。
ハタ族は海岸方面を占領して住みついたため、その地方では貝はあまり取られなくなり、貝塚も作られなくなっていきました。
弥生時代に貝塚が作られなくなる理由は、このハタ族の影響が大きかったと考えられます。

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これらのことを察すると、宗像の祭祀に物部族の関与は薄かったということが導き出せます。
市杵島姫を后にもらった徐福でしたが、彼らの信仰にまでは、手を出せなかったものと思われます。

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