織幡神社~神功皇后紀 2

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激しい潮流の中、関門海峡を越える熊鰐は焦っていた。
大王が留まられている豊浦宮が賊に襲われたというのだ。
しかもそれは、新羅の塵輪という者が扇動し、この熊鰐が治める筑紫を抜けて事を成したという。
その被害は甚大で、弓の名手と謳われた高麿・助麿兄弟も討ち死にしたらしい。
あわや大王みずから弓を取り、塵輪を打ち取ったとは聞いている。
しかし大王は、そしてあの美しい姫様は無事なのか。

王軍が豊浦宮から移った、周防の「沙麼の浦」が見えてきた。
「おお、あれは」
そこで熊鰐が見たのは、沙麼の青い海に洋々と浮かぶ48隻の軍船。
その先端には紅白二流の幟旗が眩くたなびいている。

大王率いる一船団、紛れもないその姿だった。

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【佐波神社】
北九州一帯に勢力をもつ熊鰐(くまわに)は天皇軍を筑紫に案内するために周防の「沙麼の浦」(さばのうら)まで出迎えに行きます。
下関の豊浦宮から周防までは、奈良の大和へ80Kmほど戻る形で離れていていますが、なにゆえ沙麼の浦なのか。
それは日本書紀には書かれていない塵輪の襲撃があったためではないかと「綾杉るな」さんは著書「神功皇后伝承を歩く」の中で述べています。
周防の沙麼の浦とは防府の佐波神社のことです。

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佐波神社に訪れてみると、なるほど小高く登った場所にありました。
太古の海が今よりもっと陸上に迫っていたならここは岬になっていたはずです。

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相応の警戒をしていたにもかかわらず、いとも簡単に襲撃を受けた王は豊浦宮から下がり、沙麼の浦に仮宮を建てます。
ここはひらけているとは言いがたく、その分襲撃は受けにくそうな場所にありました。

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皇軍を出迎えに行った「熊鰐」(くまわに)は岡県主(おかのあがたぬし)の祖先です。
「岡」とは「遠賀」の事で、北九州一帯に勢力を持っていました。
熊鰐は関門海峡を含む北九州の水域に詳しく、皇軍の水先案内人として従軍します。
また熊鰐は、賢木(さかき)を船の先に立て、上枝には白銅鏡(ますみのかがみ)、中枝には十握剣(とつかのつるぎ)、
下枝には八尺瓊(やさかに/大きな勾玉)をかけて出迎え、自分の領地の「魚塩(なしお)の地」(=魚や塩が取れる土地)を天皇に献上しました。

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【勝田勝山神社】
日本書紀によると仲哀天皇は下関の豊浦宮に6年間も留まったとあります。
書紀の年数は故意に引き伸ばして記載されているようですが、実際には2、3年そこにいたのでしょう。
熊襲征伐を決行しなけばならないのに、なぜここに留まったか?
その間は軍船を造っていたようです。
その数48隻。
当時の労務・債務は兵庫から山口、福岡、大分の各地の広範囲に課せられます。

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この軍船でとりわけ目を惹いたのが紅白の幟旗。
この旗=幡はやがて勝利の象徴となっていきます。
また神功皇后も祭器として使うようになり、
その子、応神天皇の象徴として八つの幟旗、「八幡」(はちまん)の由来となったと云います。

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旗竿として切り出された場所もいくつかあるようですが、その一つが「勝山勝田神社」(かつやまかつたじんじゃ)です。
八幡区勝山の大蔵小学校の裏手にひっそりとあります。

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神功皇后は三韓征伐から凱旋の折、この「めでたい」縁でここを「勝山」と名付け、自ら社を祀られました。

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手水舎の奥に注連縄が張られています。

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奥にはなんとも神々しい、竹林がありました。

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【織幡神社】
日本で初めての紅白の幡が織られたという「織幡神社」(おりはたじんじゃ)は宗像の鐘崎の先にあります。
鳥居からは神奈備の山がきれいに見えました。

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鐘崎といえば宗像族の聖地でもありますが、ここの祭神は志賀島の安曇族が祀る「綿津見三神」、住吉族が祀る「住吉三神」であり、
「天照大神」と続いて「宗像三神」などが祀られています。
海を統べる全ての神々が祀られていると言ってよいでしょう。

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境内に入って「鐘崎海女の像」の向かいに

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巨大な岩が置かれています。
これは「鐘崎」という名の由来の岩です。

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ここの海には彼方から来た釣鐘が沈んでいるといい伝わっていました。
黒田長政や歴代の錚々たる人がこれを引き上げようとしましたが失敗に終わります。
大正8年に山本菊次郎という炭坑王が巨万の費用を投じて見事釣り上げてみれば、それは大きな岩だったということです。
その岩がこれ。

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参道を進み、やや勾配のきつい石段を上ります。

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途中にある今宮社。

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災難を避けてくれるそうです。

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ようやく本殿が見えてきました。

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ここ織幡宮は武内宿禰がこよなく愛した場所だそうです。

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風雨にさらされて、狛犬もなんとも味のある姿に。

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織幡宮の主祭神は「竹内大臣」、つまり武内宿禰です。

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境内にある銀杏の木、これは早くに亡くなった仲哀天皇を偲んで、
武内宿禰が植えた銀杏の木の末裔だそうです。

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仲哀天皇の死は唐突で不可思議な伝承が伝わっていることから、
神功皇后と武内宿禰が姦通し、計り、殺害したのではないかと言う説もあります。
しかし宿禰がこよなく愛した場所に、こうした天皇を偲ぶ銀杏を植えたり、
豊浦宮の最も素晴らし場所を見つけ御殯斂地としたりとその行動を見ると、
そのようなことは無いように思います。
武内宿禰は仲哀天皇に忠誠を誓い、その妻と子を天皇亡き後までしっかりと見守ってきたのでしょう。

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長寿を誇った武内宿禰もやがて死を迎えます。
宿禰はここに沓だけを残し、その身を昇天させたと伝わります。

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沓は「沓塚」となって武内宿禰の和魂(にぎみたま)を祀るようになりました。
神殿は荒魂(あらみたま)を祀ります。

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武内宿禰はこの鐘崎の地に魂を残し、異敵から今も、美しいこの国を守っているのです。

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