「アタカタス様、お生まれになりました。女子にございます。」
「なに、そうか!」
海辺に面したアタカタスの屋敷は開放的で、爽やかな潮風が吹いていた。
懐かしい出雲の地を離れて筑紫まで来たが、彼はこの土地をとても気に入り、愛していた。
時に荒々しさを見せる玄界灘の海も、航海術に長けたアタカタスの一族にとっては、多くの魚介をもたらす恵の海だった。
この日は空も海も、眩いくらいに碧く澄んでいた。
足早に産屋へ駆けつけると、そこには愛しい妻とまだ幼い二人の娘が彼を迎える。
アタカタスは妻のもとへ寄り、その傍にいる生まれたばかりの三人目の娘をそっと抱え上げ、見つめた。
「おお、儂はなんと果報者よ。わが娘たちは皆、玉のように見目麗しいことよ。
儂の娘たちは、一族が祀る島々の聖地にふさわしい巫女となろう。
そして王にも恥じぬ、高貴な后となるに違いない。」
彼は幼子を両手で天高く差し出し、神に届かんばかりに声を上げていた。
大いなる大和時代の到来を告げるかのように、産声は響き渡った。
ついに世界遺産の認定を受けた『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群ですが、その祭祀の中心はやはり、宗像大社「辺津宮」(へつみや)となります。
宗像大社とは沖ノ島の「沖津宮」(おきつみや)、大島の「中津宮」(なかつみや)、そして「辺津宮」の三社の総称となります。
辺津宮は本土にあることもあり、規模も最も大きく、気軽に参拝できます。
神域を守る狛犬も
とても精悍です。
御祭神は三女の「市杵島姫命」(イチキシマヒメノミコト)。
他、「沖津宮」が長女の「田心姫命」(タゴリヒメノミコト)、「中津宮」が二女の「湍津姫命」(タギツヒメノミコト)を祀っています。
この三姉妹をして「宗像三女神」(むなかたさんじょじん)と云います。
「宗像三女神」は「道主貴」(ミチヌシノムチ)とも呼ばれます。
この「貴」(ムチ)とはとても高貴な神に用いる敬称で
天照大神=大日孁貴(オオヒルメノムチ)/伊勢神宮の御祭神
大国主命=大己貴(オオナムチ)/出雲大社の御祭神
と、そうそうたる神のみに与えられる称号であると、一般には云われます。
宗像三女神誕生の神話はこう伝えられています。
スサノオが高天原にやってきたときに姉のアマテラスは武装して迎えました。
これはアマテラスは、スサノオが高天原を荒らしにやってきたと早合点したからです。
これに対し、スサノオはそんな思惑はない事を誓約(うけい)によって証明します。
誓約(うけい)とは占いによって正邪などを判断することです。
アマテラスはスサノオの持つ「十握剣」(とつかのつるぎ)を噛み砕き、スサノオはアマテラスの持つ勾玉を噛み砕きました。
それぞれ噛み砕いたものを吹きかけると、スサノオのつるぎを噛み砕いたアマテラスからは美しい三姉妹の神が、
アマテラスの勾玉を噛み砕いたスサノオからは勇ましい五兄弟の神が生まれた。
この美しい三姉妹が宗像三女神であり、スサノオの剣から生まれたのでスサノオの娘ということになりました。
つまり美しい娘が生まれるほどに、スサノオの心は穢れなくやましさはないということの証明となりました。
やがてアマテラスの孫ニニギノミコトが地上に降り立ったとき、
アマテラスはニニギノミコトの道行きを助けるよう、この三姉妹を地上に遣わします。
この功績が彼女たちをして道主貴と呼ばせ、航海や交通安全のご利益につながっているようです。
さて、境内の端の方に見落としがちな一本の木があります。
これは「楢」(なら)の木で、こちらが当社の御神木になります。
宗像大社の表紋は菊の御紋ですが、裏紋としてこの楢の葉紋を用いています。
この御神木は樹齢550年になるそうで、歴代の宗像大宮司家の家紋としても用いられてきたそうです。
本殿は深みを帯びた杜に囲われており、その奥へ誘う参道が設けられています。
足を踏み込んですぐに、通り過ぎることのできない雰囲気の小社がありました。
そこに鎮座するのは二社、
「松尾神社」は
「大山咋」「若山咋」「市杵島姫」を祀ります。
もう一社は「蛭子神社」、祭神は当然「事代主」でしょう。
周りには意味ありげにたくさんの石や石碑が置かれています。
杜の奥にも石碑が見えますが、そちらに入り込むことはできかねます。
参道は鬱蒼としていて杜の気が濃厚です。
その敷地は決して広いとは言えないのですが、外界と切り離されているのか、太古の空気を今に残しています。
参道の外れに
御神木の「相生の樫」があります。
二本の幹から伸びた枝が仲睦まじく交差する連理の樹木。
恋愛成就、夫婦円満の福徳が有ると云い伝えられているそうです。
相生の樫の先には「高宮祭場」に続く参道がありますが、ひとまずここを左に折れて進みます。
その先にあるのが「第二宮・第三宮」(ていにぐう・ていさんぐう)です。
向かって右の「第二宮」には沖津宮の御祭神で長女の「田心姫命」を
「第三宮」には中津宮の二女「湍津姫命」を祀っています。
この二社の本宮は遠く玄海の先の離島にありますが、こちらで三社参りを叶えることができます。
どこかで見たことのあるこの社殿は伊勢神宮の遷宮の折、別宮のものを下賜されたものになります。
小ぶりながらも重厚な社殿は、宗像大社の境内にもよく馴染み、清浄な気配が漂っていました。
宗像大社最大の聖域のひとつである「高宮祭場」へ向かいます。
そこから先は、これまでの杜とはまた違った、心が天に引き上げられるような気持ちにさせられます。
少しきつめの階段が続きますが、それも苦になりません。
ひとしきり階段を登りきると、
まるで三柱の女神のような樹木があります。
これまでの樹木とは明らかに違う存在感を放っているのですが、
特別な御神木というわけではないようです。
名もなき三本の霊樹の先にあるのが
高宮祭場です。
高宮祭場とは、宗像大社に社殿が造られる以前から存在する、自然崇拝の「神籬」(ひもろぎ)がある場所です。
そこは大聖地である「沖ノ島」と同等の聖域であると云われています。
玉垣に囲われたその奥を包む深い神気。
禁足の聖域奥には、更なる結界で囲われた連理の木が立っています。
社伝ではここに宗像三女神は降臨したと伝えられています。
記紀では、誓約の話から、宗像三女神はスサノオ、もしくはアマテラスの子供であると云われてきました。
しかしそれは誤った伝承です。
「出雲と大和のあけぼの」の著者「斎木雲州」氏は、古代出雲王朝の王家「富家(向家)」の直系の子孫です。
富家では、記紀の創作により失われてしまった正確な古代史を、口伝で秘密裏に今日まで伝え受け継いできました。
その氏が、著書で驚くべき、真実の古代史を述べておられるのですが、その中に宗像三女神にまつわる話も出て来ます。
畿内に大和王国が誕生する以前、日本で最も大きな支配力を持った国が出雲王国でした。
その出雲王国の6代目王「臣津野」(八束水臣津野/ヤツカミズオミツノ)の子である「吾田片隅」(アタカタス)が筑紫にて宗像家の祖となります。
出雲王朝は富家(向家)と神門臣家の二つの王家があり、時の最年長者が王に、別の王家の年長者が副王になりました。
王は「大名持」(おおなもち/大穴持)、副王は「少名彦」(すくなひこ)とその役職名を呼んだそうです。
臣津野は神門臣家の出身でした。
「新撰姓氏録」によると「宗形君、大国主命六世孫、吾田片隅命之後也」とあり、吾田片隅は宗像氏の祖であると伝えていますが、同時に大国主の6世孫であると云います。
また、素盞鳴尊8世孫であるとか、宗像三女神の7世孫とする説もありますが、これらは真実と違っています。
大国主というのは歴代出雲王の8代目の王「八千矛」(やちほこ)に付けられた名です。
吾田片隅は渡来人であるスサノオとは全く血縁がなく、大国主よりも古い出雲王家の血筋というのが真実です。
そしてその吾田片隅の子として生まれたのが、その名も麗しい、宗像三女神の姉妹です。
出雲王国の時代には、王の死後は風葬だったと云います。
王の遺体は朱で死臭を防ぎ、駕籠に入れて山奥の大木に隠し置いたそうです。
その木はしめ縄が巻かれ、紙幣が付けられました。
数年後、遺体は洗骨され、巨大な岩の下に埋葬されます。
遺骨が外された大木はその後、「ひもろぎ」(神籬・霊モロギ)と呼ばれ大切に祀られました。
遺体の埋められた大岩は「磐座」と呼ばれますが、遺体の穢れを嫌う出雲族は磐座に直接近づくことなく、別の場所に拝み墓の石を置いてそこから先祖を拝したと云います。
この高宮斎場の神籬に、三女神の遺体が置かれたとは思えませんが、何やら神聖であるということだけは間違い無く感じます。
恐らくは「吾田片隅王」を始めとした歴代の宗像王のひもろぎではないかと思われます。
では埋め墓である磐座はどこにあるのか?
思い起こせば遠く玄海の先に、磐座だらけの、正にそれ自体が磐座であると言わんばかりの神の島がありました。
沖ノ島は玄界灘の海原にあって、多くの島々への中継点として重要な位置にあります。
故に航海の安全を願うため、古代から祈りが捧げられた島であると一般には考えられてきました。
しかし正木晃氏の「宗像大社・古代祭祀の原風景」という著書を拝読していると、あることに気付かされました。
沖ノ島で神への祭祀のために捧げられた宝物の数々の圧倒的に多いこと。
そしてその種類の豊富さです。
鏡や杯のみならず、金銅製の馬具や五弦琴・機織り機のミニチュアなど、祭祀のためのものというより、むしろ古墳の副葬品に相応しいものが多いのではないかということです。
それら圧倒的な宝物の数々は、宗像大社辺津宮の宝物館で見ることができます。
沖ノ島が宗像族の磐座・埋め墓であるとしたら、なんと出雲族らしい、海の民らしい聖地のあり方ではないでしょうか。
三姉妹のうち、長女の田心姫は7代目大名持の「天之冬衣王」(アメノフユキヌ・富家)の妻となり、次女の湍津姫は8代目大名持の「八千矛王」(ヤチホコ・大国主・神門臣家)の妻となります。
そして末の市杵島姫は渡来人「饒速日」(ニギハヤヒ)の妻になりました。
饒速日はまたの名を「火明」(ホアカリ)、また別の名を「スサノオ」といい、物部氏の祖となる人です。
宗像の姫神はそれぞれの王の子を成し、その子孫たちが複雑に絡み合って、初期の大和王国、つまりこの日本の礎を築いていくのです。