土佐国一宮「土佐神社」(とさじんじゃ)を再訪します。
前回参拝した時は、社殿の一部が修復中でしたが、きれいに完成していました。
土佐神社の祭神は、「味鋤高彦根神」(あじすきたかひこねのかみ)と、「一言主神」(ひとことぬしのかみ)。
この二柱の神が祭神の由来は、『釈日本紀』内の『土佐国風土記』逸文にあるといいます。
「土左の郡。郡家の西のかた去(ゆ)くこと四里に、土左の高賀茂の大社あり。その神の名(みな)を一言主の尊とせり。その祖(みおや)は詳かにあらず。一説(あるつたへ)に曰はく、大穴六道の尊(おほあなむちのみこと)の子、味鉏高彦根の尊なりといふ」
また同じく『釈日本紀』では、一言主が当地に祀られるようになった経緯を、次のように伝えています。
-雄略大君が大和葛城山にて狩りをしている最中、顔が大君に似た長人の神が現れた。神は一言主神と言ったが、不遜であると大君はこれを土佐に流した。
流された一言主神は、土佐において初め「賀茂之地」に祀られ、のちに「土佐高賀茂大社」に遷祀された-
一言主とは、出雲の八重波津身(事代主)の息子・天日方奇日方(あめのひかたくしひかた)が、葛城の地で父を祀ったものです。
その一言主が土佐に流されたという話は、何かしらの悪意・思惑を感じます。
また、朝倉神社祭神と夫婦の関係であると仮定する上でも、土佐神社の祭神が事代主であることは無いという結論に至ります。
では、土佐神社の真の祭神はアジスキタカヒコなのか。
アジスキタカヒコは都佐国造の祖神とされており、大山奥宮「大神山神社」の相見宮司家の口伝からもその可能性を見ることはできます。
毎年8月24日、25日に土佐神社で行われる大祭を、高知市の人は親しみを込めて「志那祢様」(しなねさま)と呼びます。たくさんの人で賑わう祭りですが、この志那祢様に、祭神の秘密があるのかもしれません。
土佐神社から南南西方面5kmのところ、高知市吸江に「土佐神社離宮」があります。
土佐神社が「一宮」(いっく)と呼ばれるのに対し、「小一宮」(こいっく)とも称されます。
奥は五台山の北麓にあたり、大きく杜が迫り出しています。
当社の創建は、土佐三大祭りのひとつ「志那祢様」と関連がありました。
祭りでは、25日の午後3時から「御神幸」(おなばれ)が行われます。この御神幸は日中にもかかわらず、明かりを灯した松明を持って行くのだそうです。
この御神幸は元々は、浦の内の「鳴無神社」(おとなしじんじゃ)まで行われていました。ある時、御神幸の帰りに風雨が強くなったため磯伝いに帰っていると、途中で狼に襲われ、とっさに松明を振りかざし、狼を追い払った古事に基づくのだといわれています。
この帰り道に狼に襲われたことから、江戸時代、当地に御旅所が設けられ、船渡御しをするようになりました。それが土佐神社離宮です。
明治13年には、土佐神社により近い一本松に、別の御旅所が建立され、その後、鳴無神社や土佐神社離宮までの御神幸は行われなくはなりました。
土佐神社で志那祢祭が行われる8月24日、25日には、鳴無神社や土佐神社離宮に御神幸はないものの、それぞれ単独の志那祢祭が行われています。
志那祢の語源は諸説あり、祭りの行われる日は旧暦7月3日にあたるそうで、7月は台風吹き荒ぶことから風の神志那都比古から発したという説、新稲(しいね)がつづまったという説、さらに当社祭神と関係する鍛冶と風の関連からとする説などがあるようです。
「あんでぃ」さんによれば、「稲」も製鉄用語で、砂鉄を稲種に見立てているとのことです。
であれば、志那祢様とは、製鉄に関連づけられた志那都比古、ということになるのでしょうか。
本殿の右脇には、目を見張る平たい大岩があり、ここで高僧「絶海和尚」が座禅を組んだとの言い伝えがありました。
土佐神社の南南西約1.2km、明治13年、一本松にに建てられた新しい御旅所です。
境内は近隣の駐車場と化していました。
鳥居は不思議なことに、境内の横に建っています。これは御旅所の鳥居ではなく、土佐神社のもののようです。
通常、御旅所は四角柱の石の台が置かれているものですが、土佐神社のそれは神殿造りの立派なもので、一宮としての威厳を感じさせます。
土佐神社の北東に、「東天神社」(ひがしてんじんじゃ)が鎮座しています。
明治期に書かれた『土佐郡一宮村合社帳』には、「土佐神社艮寅方東ノ元の山上に鎮座」とあり、元は現在地から約100m東の山腹に祀られていたとされています。
かつては土佐神社の末社であり、祭神は不明とのこと。
社名から一宮西町に祀られる西天神社に対応する神社であると考えられ、そこが天満宮であったという記録が残っていることから、当社祭神も菅原道真公であると考えられています。
しかしその真実は、猫だらけの猫神社でした。
東天神社の少し先に、土佐神社の末社「瀧宮」(たきぐう)があります。
境外の北東、いわゆる丑寅・鬼門の位置にあり、ねっとりとした空気に満たされています。
祭神は未詳。しかし、農業繁栄の神徳があるとされています。
社殿の裏には、木の根、蔦の絡みついた磐座があり、それが神体だと云われています。
辺りを見ても、瀧らしいものは見当たりませんが、なにゆえ瀧宮なのでしょうか。瀧ではなく龍神だとか?!
社殿裏の磐座の他に、境内脇に見過ごせない巨石があります。
どちらかというと、こちらの巨石の方が、生きているような、そんな印象を受けました。
土佐神社の北300mの所に、「斎籠岩」(いごもりいわ)があります。
土佐神社では毎年3月11日の夕刻より、13日の早朝にかけて、斎籠祭が行われていますが、古くはこの上部の岩で行われていたとのことです。
素晴らしい磐座ですが、この巨岩の上にもさらに巨岩があるようで、そこで斎籠祭は行われていたのでしょう。
こうして見てみると、土佐神社は境内の「礫石」(つぶていし)も含め、磐座信仰がベースとなっているような印象があります。
それは阿波の忌部神社系に見られるような、人工的に積み重ねられたものではなく、自然のままの巨石を磐座としています。
この感じは出雲的というか、熊野的というか。
土佐神社の末社・関連社を巡った後では、本社を参拝した時の印象とは随分違って見えるのでした。