土佐神社

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雄略大君が大和葛城山にて狩りをしている最中、顔が大君に似た長人の神が現れた。神は一言主神と言ったが、不遜であると大君はこれを土佐に流した。
流された一言主神は、土佐において初め「賀茂之地」に祀られ、のちに「土佐高賀茂大社」に遷祀された。
「一言主神は即葛城の高賀茂に坐す味耜高根彦尊なり」
天平宝字8年(764年)に賀茂氏の奏言によって一言主神は大和国の「葛城山東下高宮岡上」に遷されたが、その和魂はなお土佐国に留まり祀られているという。

- 『釈日本紀』より

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高知県高知市一宮しなね鎮座の「土佐神社」(とさじんじゃ)を参拝します。
地名の一宮は「いっく」と呼び、「しなね」は、風神のシナツヒコや、新稲祭(新嘗祭)に由来するなどと云われています。

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境内入り口に建つ楼門は江戸時代前期の寛永8年(1631年)、土佐藩第2代藩主の山内忠義による造営で 「神光門」とも呼ばれます。
全体的に着色のない素木で作られ、質素ながら重厚さを備えています。

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しばし参道を歩くと「土佐一ノ宮」の扁額を掲げた鳥居がありました。
扁額の文字は近衛文麿の筆。

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鳥居の横を見ると、鬼太郎ハウスのような秋葉神社が立っています。
火之迦具土神を祀っていますが、この神がこの位置に祀られているのはめずらしいかも。

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鳥居を潜ると立派な社殿が見えます。が、残念ながら一部補修中でした。

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拝殿南東にある華やかな建物は、慶安2年(1649年)に楼門と同じく山内忠義によって造営された鼓楼です。
内部には時を知らせるための太鼓が吊るされています。

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鼓楼の奥にある放生池に浮かぶ小島の上には、厳島神社が鎮座していました。

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祭神は市寸嶋姫命・多紀理比賣命・多岐都比賣命の宗像三女神です。

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いよいよ拝殿へと向かいますが、土佐神社の祭神は「味鋤高彦根神」(あじすきたかひこねのかみ)と「一言主神」(ひとことぬしのかみ)の二柱。
こんなところで出雲のビックツーに出会いました。

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味鋤高彦根神は『古事記』では「阿遅鉏高日子根神」、『日本書紀』では「味耜高彦根神」と記されますが、彼は西出雲王家・郷戸家(ごうどけ)の8代大名持・八千矛(大国主)と宗像の三姉妹・多岐津姫との間に生まれた皇子で、9代目少名彦を務めたと考えられます。
記紀は余計な「根」の字を加えていますが、正式名称は「味鍬高彦」(あじすきたかひこ)となります。

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一言主神は狩をする雄略帝の前に姿を現し、「吾(あ)は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言、言離(ことさか)の神、葛城の一言主の大神なり」と告げたと伝わる神で、奈良の「葛城一言主神社」に祀られています。
その正体は息子・クシヒカタが祀った父で、東出雲王家・富家の8代少名彦の八重波津身・事代主でした。

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なぜ、そのような二柱の神が当地に祀られているのか。
それは先の一言主神と雄略帝が出会ったという説話のバリエーションによるものでした。

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『古事記』では雄略帝は、狩で出会った者が一言主だと知ると、恐れおののき、供の者の衣服まで差し出したと記します。
これが『日本書紀』になると、雄略帝と一言主神はその場で意気投合し、大いに狩りを楽しんだとあります。つまり帝と神が対等の立場になるのです。

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そして『釈日本紀』にいたっては、一言主神は帝に対し不遜な言動をとり、それによりに土佐に流されたとあります。
流された一言主神は、土佐において初め「賀茂之地」に祀られ、のち「土佐高賀茂大社」に遷祀されたのが今の土佐神社であると云うことです。

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この『釈日本紀』には『土佐国風土記』を引用した部分(逸文)があり、そこには「土左の郡。郡家の西のかた去(ゆ)くこと四里に土左の高賀茂の大社(おほやしろ)あり。その神の名(みな)を一言主の尊(みこと)とせり。その祖(みおや)は詳かにあらず。一説(あるつたへ)に曰はく、大穴六道の尊(おほあなむちのみこと)の子、味鉏高彦根の尊なりといふ」とあり、これらの記述によって土佐神社祭神は、「一言主説」、「味鋤高彦根説」、「一言主・味鋤高彦根同一神説」などが唱えられ、現在では二柱とも祭神としているということのようです。

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現在の土佐神社の社殿は、旧社殿が本山氏による岡豊城侵攻の兵火で焼失したため、永禄11年(1567年)、室町時代後期の戦国大名「長宗我部元親」が四国平定を祈念してに再建に着手し、元亀2年(1571年)に完成したとされるものです。

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本殿前に建つ幣殿と拝殿は平面に「十」字形を成し、これらは本殿を頭としたトンボが飛び込む形をしており、「入蜻蛉」(いりとんぼ)形式といわれる土佐神社独特の造りなのだそうです。
これは戦からの凱旋報告を意味するとされています。

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本殿の西側に摂社群がありました。

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三社が並ぶ形状。

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右側は大国主神社で、

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祭神は大国主命。

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左側は事代主神社で、

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祭神は事代主命。まあ、言うまでもないことですが。

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そして中央の西御前社、こちらの祭神は未詳です。

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この祭神は当地に土佐大神を祀った者だろうと思われるのですが、どうでしょうか。

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しかも大国主と事代主の両者を傍に侍られているのだから、これは出雲系の人物であったことが推察されます。

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土佐神社本殿裏の杜は、「志那祢(しなね)の森めぐり」と称する遊歩道が設けられています。

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マイナスイオンにあふれた心地よい空間、

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そこに聳える一本の大杉があります。

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これは土佐神社の御神木の一柱。

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土佐神社の祭神は、大和の葛城からやってきた(配流された)一言主、もしくは味鋤高彦根ということになっています。
記紀や釈日本紀における一言主の扱いの変遷は、時代の流れにおける葛城氏の盛衰に関連しているようです。

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葛城で一言主や味鋤高彦根を祀る葛城一言主神社や高鴨神社は、事代主の息子・クシヒカタや味鍬高彦の息子・多岐都彦らが建てたものでした。
しかし葛城地方で古代の最大勢力を誇ったのは、神功皇后の三韓(二韓)征伐の功労者「葛城(武内)襲津彦」(そつひこ)の時代でした。

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しかし彼らの栄華も、後のオオサザキ王朝の雄略帝の時代に制圧を受けました。
その事実を釈日本紀を書く頃には、神話としてではありますが、記すことが可能になったということなのでしょうか。
古事記・日本書紀はさまざまな思惑の中、右大臣による監禁状態の中で、執筆されていました。

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土佐神社境内の東端に、「礫石」(つぶていし)という磐座があります。

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土佐に流されてきた一言主神は、「初め賀茂の地に到り、のち高賀茂の社に遷座す」とあるように、最初は別の地に鎮座していたとされています。
しかし一言主神は「此処は神慮に叶わず」として大石を取ってを投げ、これの落ちた地を新たな宮とすることにしました。
投げた石は7日7晩ぐるぐるとまわり、14里(約55km)離れたところに落ちました。
それがこの「礫石」であると云います。

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実はこの一帯の地層は蛇紋岩でできていますが、礫石は性質の違う珪石(けいせき)になります。
学者はこれを「転石」として研究しているのだそうです。

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この礫石を見ていると、古代に当地で磐座祭祀が行われていた印象を強く受けます。
土佐神社付近にはすでに消失していますが、一宮古墳群と呼ばれた古墳2基もあったことが知られています。

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一言主が最初に土佐にいた場所は、浦ノ内の「鳴無神社」であると考えられています。
土佐神社では8月24日・25日に「土佐三大祭」の1つに数えられる例祭で、「志那禰祭」(しなねまつり)が執り行われています。
これは天平宝字3年(759年)に始まるといい、別名を「御船遊び」といって古代には鳴無神社まで御座船で海上神幸を行なったと伝えられています。
しかし海難や赤木山(現・青龍寺)の山犬に襲われることがあったので、現在は五台山北麓に御旅所を設けて、そこまでの船渡御に変わり、明治13年(1880年)には更に一本松御旅所までの徒歩神幸と改められました。

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伝承をそのまま受け取るなら、この磐座は鳴無神社から運び込まれたものなのでしょうか。

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よく見たら岩下にひっそり小さな社が祀られており、今も信仰が続いていることを感じさせられたのでした。

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このほか境内には、かつてしなね川に所在していたという「禊岩」(みそぎいわ)や、雨乞神事が行われたと伝える「御手洗池」(みたらしいけ)がありました。

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当地は古代から、在地豪族の都佐国造が「土左大神」の原始祭祀を行なっていたと考えられています。
『土佐国風土記』逸文には、土左大神には御子神として「天河命」(あまのかわのみこと)が、さらに天河命には娘神として「浄川媛命」(きよかわひめのみこと)がいたと記されています。
また同書には当社のことを「土左高賀茂大社 」と記してあり、祭神の別称を「迦毛大御神」(かものおおみかみ)と呼んでいたらしく、「土左大神=高鴨神」とされていた様子が窺えます。

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つまり本来、土佐には西出雲王家由来の一族が定住していた可能性が浮かび上がってきます。
地元では「土佐神社」を「しなねさま」と呼んでいますが、この志那禰の由来も気になるところ。

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時を経て雄略帝の時代に土佐に逃れた葛城襲津彦の末裔たちは、そこにいた前代の賀茂族と習合したのかもしれません。
『日本書紀』には686年、土左大神から天武天皇に「神刀1口」(あやしきたちひとから)を献上したという記載が見られ、土左大神奉斎氏族の朝廷への服属があったことを思わせます。

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かくして天平宝字8年(764年)に賀茂氏の奏言によって、一言主神は大和国の「葛城山東下高宮岡上」に遷されたのですが、その和魂は今なお土佐国に留まり祀られているのだと、『釈日本紀』は綴っているのでした。

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