徐福集団の和国渡来の後に、出雲王の「大国主」と副王「事代主」が、不慮の死を遂げる事件が起きました。
出雲人の中には、渡来集団との共住を嫌う人たちがいましたが、それは西出雲の神門臣家勢力も同じであったと云います。
神門臣家の「多岐津彦」は、「クシヒカタ」を頼リ葛城ヘ移ることを決めました。
彼は家来を連れて、葛城南部に移住し、その方面を開拓します。
葛城は古くは「カヅラキ」と発音したそうですが、今は「カツラギ」と呼ばれています。
クシヒカタの勧めで多岐津彦が住んだ所は、葛城川の上流地域(鳴神上)でした。
彼は父「味鋤高彦命」と祖母「多紀理姫命(多岐津姫)」の霊を祭る社を建てます。
それが「高鴨神社」(たかかもじんじゃ)です。
神社の境内前に遥拝所があります。
こちらも御所を遥拝しているのでしょうか。
高鴨神社は、奈良県御所市鴨神の金剛山東山麓にあります。
当社は京都の賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)を始めとする全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社と称しています。
その根拠は、「当地は鴨氏一族の発祥の地であり、その氏神として祀られたものである」というものです。
鴨氏はこの丘陵から奈良盆地に出て、葛城川の岸辺に移った一族が「鴨都波神社」を、東持田に移った一族が「葛木御歳神社」を祀ったと伝えています。
今は高鴨神社を「上鴨社」、御歳神社を「中鴨社」、鴨都波神社を「下鴨社」と呼ぶ向きもあるようです。
延喜式神名帳では「高鴨阿治須岐託彦根命神社 四座」と記載され、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗の幣帛に預ると記されているそうです。
しかしながら富家の伝承によれば、最初に葛城を開拓したのは東出雲王家の「クシヒカタ」であり、彼が建立したのは「鴨都波神社」です。
そして京都の上賀茂・下鴨神社創建の元となった「賀茂建角身命」(カモタテツノミノミコト)はクシヒカタの子孫である「登美家」の出自です。
多岐津彦は西出雲王家「神門臣家」の出身で、後に「高鴨家」と呼ばれるようになります。
葛城という限定された地域に二つの王家末裔が存在したこと、クシヒカタから譲り受けた土地が葛城川上流の高台にあったこと、「鴨」の字を家名に得たことなどが、当社が「カモ社」の総本社であると認知されるに至ったと思われますが、本来は鴨都波神社こそがカモの総本社であると言えます。
「祓戸神社」がありました。
「知らずに犯した罪や汚れを祓う神様が祀られているため、本殿参拝の前にここでお参りするように」とあります。
手水舎の側に、美しい舞台がありました。
この舞台で舞われる巫女の神楽は、水面に映るその姿も合わせて美しく、一度は見てみたいと思わせます。
多岐津彦の兄弟「塩冶彦」(ヤムヤヒコ)は出雲に残り、少名彦になったと思われるのですが、その子「速瓮之健沢谷地乃身」(ハヤミカノタケサワヤジノミ)は11代大名持に就任します。
同じく妹(姉?)の「大屋姫」は、徐福の息子であり海家の「五十猛・香語山王」に嫁いで丹波に移りましたが、後年息子の「高倉下」(タカクラジ)とともに葛城に移住してきます。
大屋姫が晩年を過ごした所は笛吹の北方であり、大屋の地名も残っています。
後に、タカクラジは、紀の川の河口に移住し、「大屋都姫神社」を建てました。
そして徐福が中国から持参した竹や梅などを植林したことから、その地は「木の国」と呼ばれ、後に「紀伊の国」と呼称されるようになります。
タカクラジの家系は後に紀伊国造「紀伊家」と呼ばれ、地盤の近さもあって高鴨家と紀伊家の両者は結びつき、ヤマト王国内で大きな影響力を持つに至ったと云います。
白い砂利が美しい参道を進むと、荘厳な社殿が見えてきます。
主祭神は「阿遅志貴高日子根命」。
最後の「根」の字は不要なものが付け加えられています。
他にアジスキタカヒコの母「多紀理毘売命」、異母妹「下照比売命」やその夫「天稚彦命」を配祀していますが、多紀理毘売はともかく他は後に加えられたものと思われます。
当社の現宮司は「鈴鹿家」ですが、元は中臣連で、始祖は「天児屋根命」であると云います。
現当主は八十五代目に当たり、天智天皇の右大臣で「大祓詞」を創り、佐久奈度神社を創建した「中臣金連」や神社覈録(じんじゃかくろく)を著した江戸時代末期の神官・国学者「鈴鹿連胤」を先祖に持つそうです。
中臣家は神功皇后の伝承にも多く記され、とても古くから、朝廷における神事などに深く関わってきた家柄です。
祖神である天児屋根は渡来系の神であると思われますが、大阪の「枚岡神社」に祀られ、その神社は「元春日」とも呼ばれています。
春日大社といえば藤原氏ゆかりの神社として有名ですが、「鎌足」が中臣家に養子に入り、再び独立して「藤原氏」を名乗るに至る経緯から繋がりがあるようです。
飛鳥時代から奈良時代にかけて、藤原氏は隆盛を極めます。
藤原氏が奈良の都で重要な地位に着くのに合わせて、中臣家も奈良へ進出したことでしょう。
そうして鈴鹿家が高鴨神社の宮司に着くことになったのかと思われますが、祭神を変えることなく、高鴨家の祖神を守り続けて来たことに、当家の奥ゆかしさを感じます。
現宮司の母方は鴨族で役の行者の後裔とされる五鬼助氏とも親族であると云うことです。
本殿向かって右側の先に「東神社」はじめ様々な摂社が立ち並んでいました。
神さびて往古の雰囲気を残す社が多数鎮座します。
左方面にも「西神社」などがあったようですが行きそびれていました。
また後日、参拝してみます。
帰り道に御神木の大杉を見上げると、それは素晴らしい威容に満ちていました。
五鬼さんと親戚とは知りませんでした。
熊野古道の前鬼、後鬼の伝承の、五鬼さんのことではないかと思います。
2回目の大峰奥駈道リタイアの際に、宿泊してちょっとお話をしたことがあります。
出雲の系統を隠し、身を守るために鬼の伝承をまとったという事なのかもしれませんね。
因みに、大屋地籍の真東に柿本神社があります。
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